会いたいから




「大久保さん」
 佐賀の乱より戻った大久保利通を見据え、その無感動の瞳の奥の奥にある感情の在り処を探り当てたいと思った。
「………」
 今の今まで、この男の冷酷な所業を責め立てるつもりでいた。
 佐賀にてこの男が自ら下した非情な判決を責め詰る。それが許されるのは今、自分だけであることを木戸孝允は知っている。
 目の前にある大久保は、あまりにも静かで、不気味だった。
 その瞳からも、表情からも何一つ感情を読み取ることが出来ない。
「木戸さん」
 自分を呼ぶその声と同様の響きで、前参議江藤新平の処断を口にしたのか。
 斬首、冷たく響いたろうその二字。
 木戸は呼吸が苦しくなり、その場で身体がガタリと均衡を失った。
 膝をつき、乱した呼吸の音だけが響き渡る。
「貴殿は……」
 鬼か蛇か、と叫びたくとも、この心は氷のように凍結し、何一つ声を発せられない。
 俗に言う明治六年の政変の折、江藤ら朝鮮使節賛成派を追い落としたのは自分も大久保と同様であり、江藤の帰国を止められず、ましてや反乱に強引にも組み込み処断しようとしていたこの大久保をも、自分はとめることが出来なかった。
 何ゆえにこの大久保だけを責められようか。
 何も出来なかった。
 その一字は木戸自身の心を包み込み、何万本の針となりその身を痛めつける。
「どういたしました? いつものようにその奇麗事をもって私をお責めにならないのですか? 私を責めるのは唯一貴公に認められた権利でございましょう」
 大久保はその場に屈み、あえて木戸の顎に指をかけてきた。
「私は貴公の美しき言葉をお聞きしたい」
「……大久保……」
「それとも今、私が江藤の最後をお知らせいたしましょうか。……憎悪の言葉もまた美しき囀りでございますから」
 瞳と瞳が交わり、吐く呼吸の音はすれ違い、永遠に交わることもない。
 木戸はその人間としての心があるとは思えぬ大久保の目を見据え、どうしようもないほど震え上がる自らの心を知る。
「……江藤の首は写真に致しました。それを各省庁や県令に配り、掲げさせます。戒めくらいにはなってくれる」
「………」
「貴公に今すぐお見せしたいのですが、残念です。……まだできあがってはいない」
「大久保……さん」
「はい」
 木戸はよくよく承知しているつもりだった。
 公的立場において無言を最たる友としているこの男が饒舌に奏でるときは、理性を心情が上回っているとき。
 今、大久保はおそらく自分を怒らせたいのだろうか。
 その言葉通りに奇麗事をもって攻め立てて欲しいのだろうか。
 視線が重なったままで、木戸は軽く息を吐き、
「それほどまでに私が憎いのですか」
 告げた。
 大久保は何度か瞬きをし「なにゆえ」と目で問いかけてくる。
 わずかな動揺がその目に刻まれ、予想だにしない質問に若干だが戸惑っているのが見え隠れした。
「貴殿が殺したかったのは、江藤くんではなくこの私だったのではありませんか」
「………」
 この明治政府において、この大久保利通に責め立てることができる唯一の権利を有する「長州の首魁」たる木戸。
 一年前まではもう一人いた。大久保にとっては無二の親友西郷隆盛という巨頭が。
 だが彼はもういない。大久保自身が追い落としたにも等しく、西郷は全ての官職を辞して故郷に戻った。
 以来、内務卿たる大久保に「専横」と揶揄されるほどの力が集まり、病がちな木戸ではもはや太刀打ちができぬ状況に立っている。
 それでも、未だにこの大久保の専横を制御する一手を木戸は有し、
 最後の最後で大久保を踏みとどまらせることができると信じていた。
「私は思い知りました」
 この手にも、この名にも、この力にも何一つ「制御」の二字は含まれていない。
「もはや、私は貴殿の邪魔にしかなりますまい」
 どこまでも大久保とは、目指す政治の理念が異なっている。
 それでも最後の最後で「新政府」を守るという点で協調を見せ、決定的な決裂には至らずに今までは来た。
「力なくともそれでも私は長州の木戸です。この名に込められた力をよく承知しております」
「貴公はいったい何を仰りたいのですか」
「私では貴殿は止められない。例え貴殿が止めて欲しいと願おうと、私にはもう無理です。どこまでも私たちは対局。いつまでも反対の道を行く。……今はまだそれほど見えていないでしょうが、 いずれ、間違いなく貴殿は私を……一に邪魔とします」
「……それはありません」
 大久保の指から逃れた木戸を、大久保は追いかけ、手を握り締めた。
「貴公なくして私もまたない。お忘れではありますまい。私たちは当の昔からただ一人の批判者です」
 木戸はククッと喉を鳴らした。
「批判だけでは何の効力もありませんね。……いっそ、さっさと殺した方がよろしくありませんか」
「物騒なことを仰る方だ。……貴公は少し江藤のことで病んでおられる。休まれた方がよろしい」
「一度、休めばそれが最後。二度と貴殿の前には姿を見せません」
「木戸さん」
「大久保内務卿。この木戸孝允を殺したいならいつでも殺しなさい。私は萩に戻ります。江藤くんを葬ったように、内務省の密偵を萩に放ち、私を追い落とすといい」
「何をむきになっておられるのか」
 大久保はギュッと木戸の手を握り締めてきた。
「しかも恐ろしいほどの見当違いをしておられる。私は貴公を殺すつもりなどない」
「邪魔でございましょうに」
「そのように思ったことはありません。貴公と私は最終的に理念は同じであるはず。江藤とは違う」
「貴殿の政治についてうるさく物を言う私が邪魔になりますよ」
「……木戸さん」
「今のうちに葬ったらどうです? 正直に殺したい、憎いといったらどうですか? 私がある限り、貴殿はいつも疑心暗鬼に捕らわれますよ」
「本日の貴公はおかしい」
「私はおかしくなどありません」
「ならば……病んでおられるのでしょう」
「大久保さん」
 クスクスと木戸は笑い、大久保の手を強引に振り払った。
「私を殺しなさい。私は貴殿の政は好まぬが、貴殿の政策は認めています。故に……殺されてあげますよ」
 それは嘲りか、それとも哀れみか。
 木戸は笑いながら、自らの心の何かが崩れていく音を聞いていた。
「江藤くんを手にかける前に私に仰ればよろしかったのに。私に死んでください、と。私はいつでも刃に倒れましょうに」
「木戸公」
 珍しく語気に怒りを感じられ、あからさまに木戸はビクリと肩を浮かした。
「貴公は何を勘違いされていらっしゃるのか。貴公は私の批判者。私のただ一人追わねばならない方。熱に浮かされているようなので言っておきます。もしもこの政府から私から逃げると仰るならば、私はどんな手を使ってでも追って捕まえます」
「貴殿は、ほとんど去るものは追わず。来るものは拒まずではなかったのですか」
「貴公は別です」
「追わなくてけっこうです。もう二度と顔を合わせることもないのですから」
「貴公は私を苛立たせたいのですか」
「いいえ。真実を言っております。私は萩に戻るのですから。反乱の首謀者に仕立てられようと、仕立てられまいと……二度と此処には戻りません」
「冗談ではありませんね」
「えぇ。私も冗談は何一つ言っておりませんよ」
 大久保のその目から逃れるかのように、木戸はスッと立ち上がり、扉もとに身を滑らせる。
「木戸公」
「……邪魔ならば一思いにおやりなさい。私は……いつでも命を投げ出しますので」
 最後ににっこりと笑い、扉を開けようとすると、
「お待ちなさい。話は済んでおりません」
「終わりました。これが私の意思表明です。……願いを一つ言わせていただくと……闇討ちは好みません。返り討ちにいたしますので……」
 大久保は疲れきったかのように眉間に片手を当てたので、木戸はそのまま扉を開け、外に出た。
 ゆっくりと歩をくりだしながら、背後から荒々しい靴音が自らの動きを絡め取ったのを感じる。
「木戸さん」
 大久保が相変わらずの鉄面皮の顔のまま、木戸の腕を取った。
「私も一つ主張させていただく。……どこまで逃げようが追いかけます。地の果てであろうが、逃がしては差し上げません。貴公だけは逃さない」
「イヤです」
「それほどに私に殺されたいならば、この廟堂におられるといい。邪魔になったら正々堂々、この廟堂で殺して差し上げます」
 ビクリとなった木戸は、ゆっくりと振り返る。
「貴公には策はろうしはしない。木戸さん」
「私は大久保さんは日本一の大嘘つきだと思っておりますよ」
「貴公は自らの価値を何一つお知りにならない」
「……知っています」
「ましてやこの政府を生み出した貴公が、反乱の旗頭になどなれますか」
「そう仕向ければよろしいでしょう」
「……話になりません」
「いつものことです」
「……どのように私が頼もうと萩に戻られますか」
「えぇ」
 すでに参議兼文部卿の辞表は受理されている。
 木戸としては一刻も早く、この血まみれた帝都より去り、生まれ故郷に戻りたい。
「休暇はできるだけ短くさせていただきますので」
「私は隠遁します」
「自らがいちばんに無謀をいっていることをご承知でございましょうに」
「……いっそ大久保さんの手で、永遠の隠居にしていただきたいのですが」
「致しかねます」
「それは残念です」
 木戸はまた歩き出す。大久保が傍らに並び、ついてくる。
「これ以上の身勝手で、この私に貴公という人間を見損なわせないでいただきたいのですが」
「では大久保さん。貴殿は私を信頼していますか」
「誰よりも」
「それでは、この私を永遠に萩に置いておいてください。反乱を起こす首謀者にはなりません。旗頭には断じてなりません。私を静かに……」
「冗談もほどほどにしてください」
「……私を信じているというならば……」
「信じておりますし、もう一つ。貴公は私には必要な方です」
 木戸も一歩も引く気もなければ、大久保も同様である。
「一番に憎く、邪魔で、殺したいほどでしょうに」
 楽しげに笑い、木戸は少しだけ足を速めた。
「私は貴殿の鳥の籠にはなりません。申し訳ありませんが、この私を自由にしたいならば殺すか封じるかお考え下さい」
「……木戸公」
「私はもう血は見たくないのです」
 この政府は、血をまだまだ欲するのだろう。
 いっそ自らの血一つでおさまるならば、この身を生贄にして、すべてを終わらせて欲しい。
「さようなら、大久保さん」
 最後に壮絶な微笑みを残し、木戸はそのまま大久保の横をすり抜けていく。
 何を言っても無駄と認めざるを得なくなった大久保は、その場で背中を見据えながら、この策士は何を考えたか。
 それは半年も断たぬうちに始まる木戸孝允呼び戻し作戦となり表に出るが、それは別の話。
 今は「冷静」になる時間を、木戸には渡さねばならない、と大久保は判じたようだ。


 木漏れ日の日差しに、わずかに瞳を細めて、木戸は微笑む。
 桜の木下で、ただ青々とした若葉を見つめながら、
「……きみたちに、もうすぐ会える」
 いっそ、今すぐこの息が止まれば良い。
 ねぇ大久保さん。今すぐこの自分を殺してくれませんか。
「会いたい……会いたい」
 国家の理念も、人民の幸福も、この国のあり方もすべてこの手より水となって滑り落ちる。
 残る心の感傷は、どこまでも遠き遠き過去へとつながり、
 木戸は疲れた顔をしながら、必死に木漏れ日に手を伸ばした。
「きみたちに……ただ……会いたい」
 息をするのも苦しい。
 この国が血を流すのを見るのは、胸がかきむしられる。
 ただ……きみたちが望んだ国家の行き先を、自分が見るのは義務であり、役目であったから、
 だから今も自分は生きている。
 木戸は微笑みながら、その頬に無数の涙を落とし続けた。
「……はやく……」
 また、きみたちに逢いたい。
 この差し伸ばす手を、いつになれば握り締めてくれるのだろうか。
「……大久保さん。私を殺してくれれば……よいのに」
 願い、呪い、希いながらも、
 その願いは永遠に適わぬことを、木戸は心のどこかで知っている。
 私たちは互いに互いの「批判者」
 唯一にして無二の「対等者」
 その立場から逃れるのは、死あるのみ。
 そして死は……私たちのような「悪党」にはそう簡単には舞い降りはしない。
「…………」
 会いたいね、晋作。
 会いたいよ、秀三郎。
 いつになれば、私は、きみたちのところに、いけるのだろうか?
 この国家も、この信念も、人の心も、
 すべてはこの木漏れ日のように、
 決してこの手には掴めない……。


 きみたちに、早く、会いたい……から。
 はやく、私を殺してください、大久保さん。


 殺してください、などとよく言えたものだ。
 内務卿室で珈琲を飲みながら、大久保は苦々しい思いに包まれていた。
「百も承知でよく言ってくださる」
 例え親兄弟、または故郷を友を敵に回そうとも、
 最後の最後まで、おそらく木戸孝允にだけは「殺す」ことなどできまい。
 国家の敵になどなることはない、と断言できるほどの信頼。
 失うことが出来ず追うしかないと分かりきっているほどの、存在感。
 笑いたくなる。
 木戸の言うとおりだ。
『それほどまでに私が憎いのですか』
 憎い。思いのままにならず、また政治家として鉄の意志ではなく感情で動くあの男が、憎い。
 いっそ死んでくれれば良いものを、と考えぬこともないが、
 最後にはやはり生きていてもらわねば困るのだ。
「愛しいほどに憎くくてならず。呪いたいほどに信じてやまず」
 故に、
 逃げれば逃げるほどに追わずには入られない、ただ一人の批判者。
 大久保は珈琲を片手に逃げた盟友の召還を、既に考え始めていた。


 それほどに死にたいならば、此処にいるといい。
 いつか「邪魔」と判じたならば、
 この手で息を止めて差し上げよう。
 それが唯一の「対等者」への贖罪。


会いたいから

会いたいから

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2010年2月22日
  • 【修正版】 2012年12月14日(金)
  • 【備考】