江藤新平の長州閥観察日記




 日ごろより小生は「奴ら」に対し思うところは多いにある。
 ひとつに議場の場以外は静寂をのぞむ小生と、日ごろより騒がしいのが取りえの一つでもある「奴ら」は対局にあるに等しい。
 思うに「奴ら」に囲まれ、終始微笑みを絶やさずあわせる木戸孝允という「長州の首魁」は、協調性に優れ、個性派連中をまとめるに優れた人物であろうが、
 時折、木戸という人間が言葉がないほどに哀れに思えてならない。
「新平。おまえさんは知らないだけであるよ。木戸さんはあいつらの親玉であるよ」
 好物の煎餅をぱりぱり食べるこの男大隈重信は、肥前の同郷の仲間だ。
 物腰軽快にして、どことなくのほほんとした風情もあり、人はこの男を親しみやすいとたいていは称する。
 率直でそれなりに分かりやすい男だ。素直とも言える。昔は百面相ともいえるほどに表情が回転したが、今は表情を作ることを覚えて読みにくくもなった。
「その首魁という言葉は象徴と同類語か。あの連中の象徴となるには、木戸さんは……もったいない」
「であるのだが、新平」
 また一枚、大隈はばりばりと煎餅を食べ、
「もう一度言うであるよ。あまり表面の表面だけを見ていないで、じっくりお前のいう奴らの中に入り内の内までみるであるんである。井の中の蛙は大海を知らず、というであるよ」
「八太郎。おまえこそなにを知っているというのだ」
 少年のころよりの付き合いのため、未だに公式の場でなければこの四歳年下の馴染みを「八太郎」と幼名で呼んでしまう。
 ニッと笑った大隈は、その幼名呼びを咎めることなく、またしても煎餅に手を伸ばし、
「おまえよりは俺の方がまだあの連中はよく知っているんだなぁ。そして木戸さんのことも」
 築地梁山泊と呼ばれるこの大隈の家には、数多くの長州閥の人間たちが居座っていた。
 伊藤などは小さな家を建て、妻となる梅子を住まわせていたほどだ。
「長州の人間たちの中に入ってくるであるよ。よぉく分かる。あの連中らのことも、木戸さんのことも」
 ほら善は急げ……行った行った。俺がこの煎餅を全部食べるまでには戻ってくるであるよ。
 にたにたと笑い、あまりにも旨げに煎餅を平らげるので、
 小生は戸棚より残りの煎餅袋を取り出し、バサバサと菓子籠の中に放り込む。
 無邪気に笑った大隈は「だから新平は好きだなぁ」とバリバリ煎餅を美味しげに平らげていった。


 追い立てられるように仕事部屋を出た小生なのだが、さてこれからいかにあの「奴ら」の中に入るべきか考える。
 あの冷徹な大久保も、木戸を懐柔すべく長州閥の中に入りこもうと何度かしたらしいが、廃人になり帰って来たという噂を聞いた。
 その時に「廟堂の動物園」といった大久保の名言は、未だに語り続けられている。
 土佐の板垣があの単細胞の神経のままに、長州閥の中に入り込み、そしてさらに頭が単細胞になって戻ってきたときは、あの板垣をして「悪の巣窟」という言葉を出して、その場で倒れた、という伝説すらあるとかないとか。
 幕末三舟のあの勝海舟は「一度迷い込んだら出てはこれない迷宮」と笑ったという。
「一番、無難は」
 やはり首魁の木戸のもとだろう。
 そう決め、歩を木戸の仕事部屋に向けたときだ。前方より怒涛の勢いで颯爽と走ってくるのは当の木戸だった。
「やぁ江藤くん」
 いつもながらににこやかに微笑む木戸の表情には、邪気が一つもなく小生は安心する。
「今からあなたのお部屋に向かおうと」
「そうですか。申し訳ありません……私は今少しばかり……」
 背後から「木戸さん~」という声が多数混ざって聞こえてくる。一つは伊藤博文の声と判断できた。あの男は声質が人よりいささか高い。
「所用がありまして。私とここで出会ったことは機密にしてください。失礼します」
 と、脱兎の如し勢いで去られてしまい、小生は唖然とするしかない。
 何事か、と思う間もなく、足を止めていた小生のもとに伊藤博文、井上馨というお神酒徳利と呼ばれる二人が駆け込んできた。
「木戸さんは」
 単刀直入に聞かれ、小生はいかがしたものか、と考えたが。
「ここで会った? 江藤さん。会ってない? 今日こそ捕まえないと仕事の書類が!」
 伊藤は頭を抱えて、その場でわぁわぁ叫び、
「なにいってんだ、俊輔。捕まえてサインを書かせてその副収入」
 井上がニタリとする。
「なんて聞多が言うから、木戸さんが逃げ出したんじゃないの」
「俺様はなにもいってないぞ。ただ、少し休憩の時に桂さんによ。自分の名前と花押をな」
「それが」
「それを言うなら俊輔。おまえだってよ。桂さんが大キライな大久保と話しをするように言うからよ。よほど嫌なんだろう。それで逃げ出したんじゃないのか」
「僕のせいにしないでよ」
「俺のせいにもするな」
 騒がしい!と小生は一喝したい気持だったが、この二人と関るとろくなことはない。
 早々にこの場から去ろうと歩を踏み出すと、今度は左側から黒ずくめの男が現れた。
「伊藤、井上さん」
 兵部大輔の山県有朋が気配を何一つ感じさせず、ましてや靴音すらさせずにその場に立っている。
「山田を知らぬか。今日は気分が乗らん、などと言い出し、兵部省を抜け出した」
「僕らは木戸さんを探しているんだよ。おまえ、そっちで見なかった?」
「木戸さん……か。見てはいないがそろそろ八つ時だ。また食が細くなったゆえ何か食べさせねば、と思っていた」
「じゃあついでに市と木戸さんを探そう。ねぇ江藤さん」
 伊藤の手が小生の袖を掴んで引き寄せる。
「ここで出会ったのもついで。いやいや縁というものだと思うのだよね。だから……」
 連動するように井上の手が反対側の袖を掴む。
「よし行くぞ」
 なぜ小生が引きずられ、この長州閥に協力せねばならないのか。
 だが凄まじい力で引っ張られ、いつのまにか引きずられるように走るはめになっていた。
 引っ張られながら思うことといえば、この奴らはさすがはあの動乱の長州で息を吸い、駆けてきた奴らだ、ということだ。
 その脚力は恐ろしいもので、横で仏頂面な顔をして走っている山県など息も乱さず、汗もかいておらず、化け物か、と小生は思う。
「おっ梧楼じゃないか」
 なぜ廟堂に長州陸軍少将の一人三浦梧楼が、廊下に椅子を持ち込んで座りながら大福を食べているのだろうか。
「梧楼、木戸さんをみなかった」
「見ましたよ」
 にこりと端麗な顔を綻ばせ、三浦はぱくぱく大福を食べている。
「三浦、山田は見たか」
「見ましたよ、山県」
「それはいつ見た。今か、それとも数時間前か」
「えっ……」
「いやいい。今、見たか」
 すると三浦は首をかしげ、一人ぶつぶつと何かを言い始めた。
「駄目だね、これじゃあ」
「そうだな。梧楼がこうなると」
「三時間はなにも思い出さないね」
 お神酒徳利の二人は早々に諦め、また小生を引っ張り走り出した。
 小生もこの二人から解放されたいのだが、引っ張る手があまりにも強く、なおかつ息が上がり言葉が出ない状況といえる。
 引っ張られるがままに走るのが精一杯だ。
「山県、木戸さんの気配はまだ感じない?」
「微妙にするが、極度に動いている。どうやら山田も一緒だ」
「動いている方に案内してよ」
「よいが……むこうもさすがだ。我々以上の脚力で移動している」
「さすがは桂小五郎」
「今日はどうしても捕まえないとならないんだよね。僕らも本気を出すよ」
 と、今までとは全く違う脚力を見せられ、小生はもはや何も言えず引っ張られ引っ張られ……。
 息も絶え絶えの中、移動する木戸の気を読む山県とは何者か、と思い、同時にその特殊な力を全く怪訝に思わぬこのお神酒徳利にも首をひねりたい気持だった。
「木戸さんだ」
 これほどの脚を見せながら、まだ息を乱していない山県が指を差した。
 木戸のその横には山田顕義の存在がちょこんとある。
 そしてその前には……なぜか大久保利通の姿があった。
「山県」
 まだ距離もあろうに木戸は振り向きもせず、山県の名を呼ぶ。
「刀を貸しておくれ。今日という今日は許せないから」
 軍服の腰に下げている愛用の刀を、山県は一瞬見て、すぐさま木戸に放り投げる。
「お手柔らかに」
 受け取った木戸は、少しだけ山県を見て笑った。
「さて大久保さん」
「廟堂に銃器持込は禁止と新たな法律を作らねばなりませんかな」
「よろしいですよ。銃器でなくとも、例えば竹刀とか」
「そこまでして私を打ちのめしたいですか」
「そう私に仕向けているのは貴殿でしょう」
「……私は貴公の美しい理想は感嘆にあたいすると申し上げたはずです」
「そして絵にかいたもちと仰って……最期にはこう付け加えられましたね。私には現実感がない、と」
「……その通りではありませんか」
「癪に障りましたよ」
 ニコッと木戸は笑い、山県の愛刀を鞘は抜かずに握り締める。
「お覚悟を」
「打ちのめされたくはないので逃げさせていただきます」
「男の恥です」
「なんとでもお言いなさい」
 大久保はその場から脱兎と如し勢いで逃げ出し、木戸はつかさず刀を持ったまま追いかける。
「あっ木戸さん。待って」
 山田はその木戸について駆けようとしたが、その襟首を山県が掴んだ。
「おまえは兵部省に戻りだ」
 襟首を掴まれた山田はその場で暴れ始める。
「僕は今日は仕事をしたくないんだって」
「あの山のような書類を前にして何をいう」
「おまえがやってよ」
「……何度おまえの肩代わりをさせられたか知れぬ」
「兵部省の今の事実上のいちばんはおまえだし。可愛いこの部下の書類くらい……」
「仕事をせぬ限り家には帰さぬぞ」
「このガタ!」
「なんとでもいえ」
 そこで山県は山田をポイッと放り出した。
 すると床に打ちのめした山田だがスクッと立ち上がり、にたりともせずにこちらも凄まじい勢いで駆け出す。
「待て、山田」
「待て、といわれて待つ人間はいないよぅ」
 廟堂でまた一組追いかけっこを始めた。
「木戸さん、この書類をさっさとやってもらわないと」
 そして伊藤が木戸を追いかけ、周囲はとてつもない騒音が巻き起こる中。
「なぁ江藤。おまえさんもこれくらいで息を乱していたら、誰もつかまらんぞ。見てみろ。あの大久保さんもこの頃は桂さんに追いかけられてよ。体力がついた」
 一人煙草を吸い、飄々とした態度で成り行きを見守っている井上が語りかけてきた。
 未だに胸の鼓動は落ち着かず肩で息を吸っている始末の小生は、長州閥の驚くべき体力に脱帽していた。
 日ごろより病気がちで顔色が悪い木戸が、小生から見れば思いも寄らぬ脚力を見せつけ、
 おそらく相当の重量であろう刀を飄々と肩に担ぎ、大久保を追い掛け回しているこの光景は、誰に語ろうとも信じてくれないような気がした。
「金銭的に黒い噂があるおまえを捕まえるときも手間がかかりそうだ」
「そうだな」
 ふぅ~と気持ちよさげに煙を吐き出した井上は、ネクタイを緩め、シャツの釦を二、三個外し、壁に寄りかかった。
「おまえに捕まるほど俺様の脚は落ちてはいないしよ。……そのうち追いかけっこをする時まで、さらに磨きをかけておくことにするか」
「司法の名にかけて必ず捕まえて見せよう」
「その日が来るかは知れんが、来るとしたら……俺様の名にかけて逃げ切ってみせるさ」
 そこで一周して戻ってきた大久保はかなり体力的に限界が来ていた。
 悠々と余裕すらもって追いかける木戸は、汗一つかいてはいない。
(なるほど……八太郎。確かにこの人は奴らの親玉だ)
 大隈の言っていたことが少しだけ分かりかけた小生だったが、ふと反対方向からこちらはどちらも全力疾走しているのではないかと思われる走りの山県と山田が視線に入った。
「木戸さん、たすけて」
 山田はそのまま木戸に飛びついた。
「山県が僕をいじめるよ」
 木戸は大久保を追いかけるのをやめ、飛び込んできた山田を受け止め頭を撫ぜた。
「山県、市になにを……」
「私はこの者が放棄している仕事を果たすよう言っているだけだ」
「僕の机に山のように書類をのせて……これを全部すますまでは家にも帰さないって言うんだ。木戸さん」
「当然であろう。おまえがまともに仕事をせずにいるゆえこうなるのだ」
「少しくらい手伝ってくれてもいいじゃないか」
「少しではなく私はどれだけおまえの仕事を手伝ったか知れぬ。……木戸さん、そいつを離していただきたい。すぐにも兵部省に連れ帰り、椅子に縛り付けてでも仕事をさせる」
「鬼~」
「仕事をしろ、山田陸軍少将」
「うわぁぁぁん……木戸さん」
 木戸の胸元から離れはしない山田である。
 木戸はこの男を弟のように可愛がっており、その思いからか理は確実に山県にあろうとも、なかなか山田を山県に渡すことはできないようだ。
「山県。今回は市が悪いのだろうけど、そんな膨大な仕事は机に詰まれるだけで気がめいるよ。私にも経験があるだけに」
「木戸さんお仕事ですよ」
 背後より伊藤がゼハゼハ息を乱して戻り、木戸に顔が引きつった笑顔を見せる。
「……俊輔、仕事はするから。その……」
「今日は逃がしませんからね」
「山田、おまえもだ。兵部省に戻るぞ」
「嫌だ。木戸さん……」
 再び襟首を掴まれそうになった山田はぴょんと俊敏な動きで逃げに入り、追いかけようとした山県を木戸が袖を引いて止めた。
「おまえが人を追いかけるのは見たくはない。今まで……一度としてなかったよ、狂介」
「山田の此度の仕事には兵部省の命運がかかっている」
「私がおまえが人を追うのは見たくはない、と言っているのだよ」
 木戸の黒曜のに瞳が山県をジッと見つめた。
「たとえそれが市でも見たくはないのだよ。いつも泰然自若として、何事も動じない狂介が……今は普段と違う。それは市だからかい」
 さらに凝視するかのように見つめられ、山県はその場で吐息を一つもらした。
「貴兄には適わぬ」
 木戸は柔らかく微笑み、右手で掴んでいた山県の袖を離した。
「私が何かをしたら……おまえは今のように追いかけてくれるかい」
「………」
「追いかけてくれるね、狂介」
 山県は答えずに、井上の傍らに進み、壁に身を預ける。
「一本どうだ」
 井上が勧める煙草を一本とり、それを口にくわえる。
 ほら、とライターで火をつかさず貸す井上を見つつ、この二人は、みょうにさまになっていると思った。
「木戸さん。お仕事ですよ」
「俊輔……」
「もう逃がしませんからね」
 木戸の顔色がかわり、一歩、二歩と身を引いたとき。
「木戸さん。私の存在を忘れておりませんか」
「今、貴殿にかまっている暇はないのです。……俊輔、私もあの書類は」
「駄目ですよ。さぁ戻ってお仕事……」
「……俊輔」
 木戸が少しだけ哀しげな顔をし、うつむいた瞬間、伊藤の壮絶な微笑が一瞬にして消えた。
「あ、あの木戸さん。僕も聞多も手伝いますから」
「なんで俺もだ、俊輔」
「いいの、聞多は。それにたぶん山県も……」
「悪いが、私は山田の仕事を手伝わねばならぬようなので手伝えぬ」
「なに言うのさ。山県の残務処理の見事さから言えば市の仕事を平らげてもまだまだ……」
「持ち上げる手には私は乗らん」
「山県……手伝うんだよ」
「知らん」
 伊藤の眉がピクッと動き、笑顔を引きつらせて山県を見据えていた。
「私が不甲斐ないために俊輔や聞多に狂介にまで……手を煩わせてすまないね」
 木戸のしょぼんとした顔に、長州閥の面々は妙に居たたまれない顔をしだした。
 でもね、と木戸は顔をあげ、にこりと笑う。
「大久保さんも手伝って下さるようだから、早く終わると思うよ」
「………今、なんとおっしゃられましか」
「大久保さんも喜んで手伝って下さると」
 木戸はまさににっこりと笑って見せた。
「私が貴公の仕事をですか。それほどの暇がこの私に」
「大久保さん」
 にこにこと笑いながら、刀をピタッと大久保の額に突きつけ、
「喜んで手伝ってくれますでしょう」
 冷や汗がダラダラの緊迫の中、額に当てられた鞘におさまったままの刀を手に取り、
「それほど私と一緒にいたいのならば、そう仰って下されればよろしいものを」
「はい?」
「いつも思っておりますが、貴公の愛の告白は強烈で私としてはしびれますね」
「俊輔」
「はい」
「このおそらく脳がおかしくなっている人を、今私は打ちのめしてもいいかな」
「そうすると……仕事の手がひとつ減りますが」
「打ちのめしていいかな、俊輔」
 長州閥の人間はみな、知っている。
 壮絶な微笑でにこにことするときの木戸は手に負えないことを。
 大久保にジロリと睨まれた伊藤は、まさに蛇に睨まれた蛙同様になり、僕にどうしろと言うの……と汗をダラダラと流している。
「止めな、山県」
 井上は腕を組んだまま煙草を吸いつつ、そういった。
「おまえさんの役割だろう」
「打ちのめさせた方が気分転換になってよかろう」
「見たくないだろうが。あんな……大久保ばかり見ている桂さんをよ」
「………」
「止めな、山県」
「仕方がない。それにアレは私の愛刀ゆえ」
 まさに今、刀を振り下ろそうとした瞬間、山県はその鞘を寸前のところで背後より掴んだ。
「私の愛刀は、そのような男を打ちのめすものではない。刀が哀れだ」
「……狂介……」
「それに大久保卿も実に学ばれたようだ。貴兄が刀を振り下ろした瞬間に避け、貴兄を抱きとめる所存でいる」
「えっ……」
「大久保卿らしいそれが貴兄の愛情に対する返礼のようだ」
 木戸はその場でぶるぶると震え、刀より手を離し、山県をジッと見る。
「狂介……」
「はい」
「なんだか気が抜けたよ」
「それでは肩をお貸ししよう。部屋までお送りする。……逃げるなよ、山田」
 そこに舞い戻っていた山田をむんずと掴み、引き寄せた。同時に木戸を肩で担いで山県は歩き出す。
「離せ。僕はもう逃げないから離せ」
「黙れ。何度逃げた? 仕事をなすまで見張っておく」
 山田をズルズルと引きずると、
「木戸さん。私の言うことには全く素直ではない貴公が、その山県君には随分と素直ですね」
 大久保の一言にピキッと木戸が反応する。
「追いかけていた敵に背を向けて逃げられますか」
「挑発にお乗りになることはない」
「さぁ木戸さん」
 木戸は振り返り、大久保を一心に見てニコッと笑った。
「それでこそ私の木戸さんですね」
 大久保はその冷徹な表情をわずかに緩め、木戸に両手を差し出す。
「議論の続きを致しましょう。追いかけっこはなしで」
「のぞむところです」
 山県よりゆっくりと離れ、大久保のもとに戻った木戸は、その両手を振り払い、
「けれど議論の前に仕事を手伝ってくださいね、大久保さん」
「それはお誘いですか」
「私から貴殿に対する頼みです」
「ステキな言葉ですね」
「そうでしょう。私の天敵の大久保さん」
 では、と手を差し出す大久保の手に、木戸は自らの手を重ね、
 伊藤は「仕事、仕事」とこちらはこちらでご満悦。
 井上は吸い尽くした煙草を、赤絨毯に押し付け、靴で押しつぶし「しゃあないな」と伊藤の後を追う。
 離せ~と今にも逃げ出しかねない山田の襟首を掴んだまま、山県はズルズルと引きずり、
 誰もが何事もなかったかのようにその場を去っていく。
 一人取り残された小生はぐったりと疲れ、重い体を引きずりどうにか部屋に戻った。
 そこでは何食わぬ顔で半ば煎餅を食べつくした大隈の姿がある。
「どうであった」
 ソファーに崩れるようにして身を沈め、大隈の見慣れた顔を見つつ、小生が口にしたのはこんな言葉だ。
「訳が分からぬ」
「であるね」
「あんな連中に囲まれ木戸さんが哀れだ」
「あのだなぁ、新平。長州の人間は木戸さんに絶対に逆らえないんであるよ」
「あのように木戸さんをさせてしまっているのはあの連中だ。一刻も早く救い出さねば」
「なにをみてきたのかなぁ、新平は。あの魔の巣窟の親玉は最強であるんだよ。まぁいいけど……新平は本当に木戸さんが好きだなぁ」
「八太郎」
「盲目なまでに好きな相手は捕まえるであるよ。俺は邪魔せずに見ているである。けれど……新平もかわいそうだなぁ。すっかり……毒牙にはまったであるか」
「なにをいっているんだ」
「なにもいうでないであるよ。あの長州でいちばん誰が怖いのか、そのうち分かるであるんであるよ」
 にたりと笑い、口癖の「あるんである」をあえて口に出して、大隈はまたバリッと煎餅を食べた。
「いつか木戸さんを我々が考える政府の首班に」
「せいぜいがんばるんだなぁ。あっ新平。おまえさんも食べるよし。この煎餅は美味であるよ」
 差し出された煎餅をバリッと食べつつ、小生はにこやから微笑んだ木戸孝允を思っていた。
 あの壮絶な微笑は寒気がするほどに美しく、
 一目で小生を虜とするほどに、魔性の力を持ち合わせていた。
 長州の首魁。
 その名は象徴だけではないことを……改めて思い知った。


 その日の日記に、小生はこうしたためた。
 長州閥は訳が分からず、「廟堂の動物園」というあの大久保の評も分からぬこともない。
 追いかけようとも、今の小生の体力ではすぐにつぶれるのが目に見えている。
 ……まずは体力。そして持久力をつけねば。

 どこか論点が外れた日記となっていた。


江藤新平の長州閥観察日記

江藤新平の長州閥観察日記

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2008年3月30日
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】