雨の日の不協和音




「それほどに貴兄は気に入られぬと言われるか」
 明治八年三月に、健康を理由に萩に隠遁をしていた木戸孝允が再び廟堂に呼び戻され、参議の任が下った。
 木戸の願いは萩で小さな塾を開き、ひっそりとのんびりかつての同志に弔いの花を手向けることであったろうが、それを現政府は黙認するゆとりがない。一方の長州という大派閥の首魁である木戸が、もし反乱の旗頭に担がれたならば。内務省を設立した大久保の懸念はそこにあり、萩に戻っている木戸を早々に中央に呼び戻すよう策をめぐらした。
 ただでさえ薩摩の私学校の動きなど懸念が頭にこれでもか、というほどあるというに、長州の首魁はなにをしている。と大久保が怒りたくなるのも当然といえよう。
 大阪会議にてあの手この手を使い木戸をようやく廟堂に復帰させ、参議という地位で縛りに縛った。それから一月あまりが経つ。
「……私はなにもいってはいない」
 私室で万年筆を握り締めながら、木戸は吐息をこぼすような声で山県に言った。
「武官が文官を兼ねてはならないというのは私の主張であり、おまえに押し付けるつもりはない。おまえが力を得るために大久保に働きかけ、その参議の地位を手にしたとしても私には何もいえない」
「長州の力を確たるものにするためです」
「……長州のためなどではない。我が身のためだといったらどうだい」
「私が身の栄達がためだけに、参議の地位を望んだといわれるか」
「昔から山県は力と財しか信じてはいない」
「木戸さん」
「そう昔から……ずっと昔から。おまえには人など何の価値もない。おまえの価値はどこまでも財と力。力あってのその身だ」
「木戸さん」
 傍に寄り、木戸の肩に手をかける。少しばかり強く手で掴んだために木戸は「いたい」と顔をしかめた。
「身の栄達のためだけに参議を望まれたと思われるか。貴兄がそういわれるか。誰が謗ろうとも……貴兄だけは承知と心得ていた」
 さらに手を食い込ませほどに木戸の肩を強く掴めば、木戸は立ちあがり山県より逃げるようにして身を翻した。
「木戸さん」
 制止の声に振り返った木戸の顔面は、無理をして表情を穏やかに作り出した。
「おまえが参議になろうと、陸軍を私物化しようともそれはおまえの生き方。私に口出す権利はない」
「貴兄は長州の首魁だ」
「……今の私にはそんな力はもうない。そうだね……今の私は単なるこの政府の傍観者だ」
 疲れた、と言うようにソファーに身を預け、その両腕で顔を覆い隠し、
「どうして私を一人にしてくれない。なぜ、私を萩にそっとしておいてくれなかった。私はこれで晩年を穢すことになる」
 細い声音は泣き言のようで、耳にしているだけでこの胸が抉られる。
 萩で一人、私塾を開いてひっそりと隠遁することを好んだこの木戸を、再び中央に連れ出すために大阪に一度は出向いた山県である。
 逃すことはできない。
 山県の上に立つものは、ただ一人。この木戸でなくてはならないのだ。
「貴兄はなにゆえそう繰言を言われる。誰にも代われぬ地位ならば貴兄が身で受けるしかない。生涯貴兄だけが長州の首魁という名をその背に背負う。貴兄以外には許されぬその名ゆえに」
「山県、私はこのような名は必要ない」
「私には必要だ」
 顔を上げた木戸の黒曜石の如し瞳を捉え、逃さぬとばかりに視線をかみ合わせる。
「私には長州の首魁の貴兄は必要だ」
 周囲を包む緊迫感も、外より聞こえる屋根を激しく打つ雨の音も、今の二人の視線には入り込まない。
「もう私を放っておいてくれ」
 それができれば木戸の傍になどいない。それができるならば、木戸孝允という男に執着という言葉を抱きはしなかった。
「……お約束どおり、後ほど迎えに参ります」
「おまえの顔は見たくはない」
「迎えにあがります」
 頭を下げて辞去の形を取ると、木戸はまたしても両腕で顔を覆ってしまい山県に視線を向けはしない。
 何のための参議か。何のためのこの地位か。
 確かに身の栄達を望んだ。長州の中間の出でしかなかった山県にとって地位の向上だけが己に貸した望みであり、己を卑下してきた人間への復讐ともいえる。だがそれだけのために望んだ「参議」ではない。
 廊下を歩きながら、時折ふと足を止め、今辞去してきた部屋を振り返る。
 一年前に参議を辞し、故郷の萩に誰にも告げずに戻ったあのときよりも、さらに木戸の体はやつれた。馬車の横転事故より左半身を強打した後遺症で今では杖なしでは歩くことは適わないその身。もとより華奢だったがその体躯は肉という肉をそぎ落とし、今真っ直ぐに立っていることも不思議なほどの弱さしか見せない。
 姿勢正しく立つ姿に、木戸の意地と、その心意気を見るような気がした。
(貴兄を守りたい)
 そう言葉にして貴兄に伝えるのも、今の己には許されないのか。
 武官の長たる己が、文官の政治権力を身に宿すことは木戸の主義に反する。それを承知の上でも望んだ。例え「長州の首魁」たる木戸を苦しめる結果になろうとも、この政治的地位にあることで山県はこの手であの儚き麗人を守ることができる。
 あの幕末のおりより、命に執着がない木戸の護衛としてあった山県は「守護」を任としてきた。例え立場的に「同僚」に立とうとも、長州の人間にとっては木戸孝允という人間は「首魁」でしかなく、また長州の象徴。ただ一つの守るべき大切な貴公子。この手がおよぶ限り、木戸を守る。その心を守る。それを木戸が厭おうとも山県は譲るつもりはない。


 雨足は夕方に向かうにつれ、さらに激しさを増していく。
「陸軍卿、馬車は門前に回してあります」
 陸軍卿付の武官が頭を下げ、仕事はすでに終えていた山県は立ちあがった。馬車に乗り込むまで武官が傘を差して一歩後ろを歩き、山県が馬車に乗り込むと、傘を畳んで馬車内に差し入れた。
「お気をつけて」
 雨の日は気が滅入る。
 春の雨は身より温度を奪うほどに冷たく、それは冬の名残をこの身に知らしめる。
 この時期の雨は思い出を脳裏ににじます。あの長州の異才高杉晋作が死す前後にも雨が降った。息が途切れる瞬間を看取った山県は、物言わぬ遺体を見ながら雨の音を聞いていたのを覚えている。
 その心は平穏などではない。憧憬を抱き道標とした己には遠く及ばない天才の死を悼む心も僅かだ。身のほとんどを覆ったのは怒りであり、焦燥であり、そして憎悪に形どられた妄念といえた。
 死すその時まで己を認めず、一度たりともその目と対等のところに己の存在を入れなかった高杉に対し、憎むな、という方が無理である。憧憬し付き従い、決して及ばぬと心には葛藤を抱きながらも傍にあった己を、最期の最期まで認めなかったあの男。
 ただの一言でよかったのだ。いや、高杉の目に己が入っていると分かればこれほどに今なお苦しむこともなかったろう。
 例え後継者に奇兵隊出身ではない山田顕義と言い残そうとも、己の心は波立ちはしなかった。
 春の雨は馬車をも叩きつける。操車はいつもよりも慎重に手綱をさばき、雨でぬかるむ道を丁寧に運行していくためそれほどのゆれは感じなかった。
 今年は遅咲きだった桜も当の昔に散った。三月に東京に戻った木戸を後楽園に連れ立ち花見でもしようと伊藤など計画していたようだが、現在の木戸の鬱状態ではとても花見どころではない。話は木戸の耳に入ることもなく流れた。葉桜の若々しさに雨ががふり、夏に向かうみずみずしさが目に映るが、今日の雨の何たる冷たさよ。そういえば北海道にある黒田清隆が手紙で「周囲全てが雪に覆われ、花は皐月にならぬと咲かぬ」などと書いていた。北海道という未開の地では、いまだ桜は咲かぬか、と脳裏によぎったときに馬車は止まった。
 春の雨ではなく、春の雪が咲く北海道とは、今どのような寒さが身を包んでいるのだろうか。
 山県は傘を差したまま廟堂の門前に立ったままでいた。
 寒さもあるゆえ中に入ろうかと思ったが、なぜか寒さに身を浸している方が良いように思えたのだ。
「……木戸さん」
 時を待たずに木戸が一人で姿を現した。
 傘を持っていないため駆け寄り、傘を上に差し出す。
 木戸は僅かに微苦笑をし、山県の傘の傍らに入る。
「……迎えに来てくれるとは思わなかったよ」
「迎えにあがるといったはずだが」
「そうだね。でも……少し言い過ぎたから」
 気まずいのか下を向く木戸は、何を思ったのか軍服に羽織っているだけのコートをギュッと握り締めてきた。
「先ほどの私は少し心を乱していた。すまない」
 山県は答えずに木戸の体に雨がかからぬように、と傘を差す。
「今宵は少し肌寒いゆえ温かいものを食すとしよう」
 木戸はコクリと頷き「たまご粥がいい」と小さな声で答えた。


 たまご粥という要望のため、山県は馴染みの神田の料亭に木戸を連れ込んだ。一流の文化人や政治家などの御用達の料亭の中庭には見事な日本庭園があり、それを山県は気に入っている。もとより静謐を好む性情もあり、一流の食事は目と耳で楽しむものだ、という主張もあった。
 そのため食事の時は決して煙草を吸うことはしない。煙草の味は僅かに料理の味を変化させることを知っていた。ましてや木戸が横にいる。この体の弱い長州の首魁の前では山県は意識して煙草を吸うことはない。
「おまえと此処にくるのは……一年ぶりだろうか」
 料亭には離れに東屋があり、特別な客だけが通される。山県はこの料亭の馴染みのため、女将は山県の顔を見ると何一つ尋ねることなくこの東屋に通すのだ。
 此処より眺める中庭の風情は実に心を静める作用を有するが、今日は大雨のために庭戸もしめられ美しい庭園を楽しむことはできなかった。
「貴兄が黙って萩に戻られたとき以来だ」
「……そうだね。まだ怒っているのかい」
「私だけではない。皆も怒っている。当然のことだ。しばらくは貴兄は誰に何を言われようと甘んじて受けねばならない」
 木戸は微苦笑し、まずは運ばれてきた小料理を見つめ、木戸用の湯気立つ卵粥を目を細めて見つめる。
 もとより食が細く、放っておけば一日二日茶を飲むだけで済ます木戸は、誰が口を酸っぱくして食すように説得しようと柳に風と言った風情で微笑で流すばかりだった。
 だが昔から山県が「食べるように」といい睨みすえれば、木戸はおずおずとだが食を口にする。それは今となっては昔だが「食さねば口移しでも」といいそれを実行して以来、木戸は山県の「食されるように、さもなくば」を脅しと思っているふしすらある。
「栄養を取るためにも食べられよ。コチラも」
 小皿を差し出せば、木戸は卵粥をゆっくりと食べていき、他のは見てみぬ振りをしている。こういうところが木戸という男の幼さを見せる一端であり、また愛嬌にも等しい。容姿端麗にして面倒見が良い。頭脳明晰な貴公子然とした人物ゆえに誰もが着いて来たのではない。こういう一見した幼さが過保護を擽らせ、守りたいと心によぎらせたのもまた事実ではある。
「止まないね、雨」
「春の雨は降りだしたならば数日は続くことがある。春の嵐とはよく言ったものです」
「まるで天が泣いているようだ」
 悲しく笑いながらも、いまだに湯気立つ卵粥を食していく木戸は、何か遠いものを絶えずその目で追っているような気がした。
 それは先ほど馬車の中で、山県が「春の雨」で追った遠き昔日と同じものであったろうか。だが同じであろうと似て非なものに違いない。心のあり方が交差している。
「激しく雨が降るたびに思うよ。この国を見ずして死した仲間たちが、今の世を思って涙しているのではないかとね。雨は天の涙だと本当に思うよ」
「むしろ貴兄の涙なのではないか」
 手酌で酒を飲み始めた山県は、こちらもさして食に関しては旺盛ではなく小料理をちまちまと食べていた。木戸に一献、と酒を向けるが、珍しく頭を横に振られる。
「貴兄は泣かぬようになった。心で苦しみを押さえ込んで無理をしている。悲しみが雨となって流れようとも不思議ではない」
「山県は風流な言い方をするね」
「今の貴兄は見ている方が辛くなる」
「こうなることを分かりきっているのに、私を呼び戻したのはおまえたちだ」
「貴兄は心持一つで世が変わって見えることを知らないのではないか。雨だけで過去に捕らわれるその心を少しは未来に向ければ、貴兄の憂鬱も晴れるのではないか」
「なにを言う。私は……」
「今、雨の音を聞きながらなにを思われる。……あの人の顔でも思い浮かべ、在りし日の思い出にでも縋っているのではないのか」
 卵粥をすくっていたしゃもじを置いた。もし今例の癇癪がおきればそのしゃもじを山県に向けて投げつけたであろうに、ただジッと黒曜石の瞳が重なってくるのみだ。
 静かだ。むしろ怒りを含んだ時の瞳の方が冴え冴えとして美しく、また活き活きとしている。山県は「怒り」を見たくて、あえて挑発したのだが、木戸は乗ってはくれなかったようだ。
 顔色を一つ変えずに山県は酒を飲む。見かけは静かだが、心は波のように乱れているだろう木戸に、もう一度「一献」と山県は誘った。
 木戸も微笑んで杯を差し出してくる。これで今の挑発は終わりだ、と山県は思ったのだが、黒曜石の瞳はどうやらさらに思い出の中に帰って入ったようだ。
「春の雨は思い出させる。晋作を失った前日前後は、雨……だった」
 そうして黒曜石の瞳は思い出の中に彷徨い、思い出の中で輝き、戻りしはいつになるか。山県は雨の音を聞いていた。木戸の心を過去に戻すこの雨にある種の嫉妬すら感じる。今目の前にある己を木戸は何だと思っているのか。今、この時思い出を共有するのは己ではなくあくまでも高杉晋作なのか、と。
 木戸は山県に鮮やかに思い出させてくれる。あの高杉の目に己は最期まで映らず、最期まで認められなかったあの透き通った男の目。木戸もまたあの男と同じだ。すり抜けて、この己を結局は見てはいない。
「木戸さん」
 高杉に抱いた妄念の渦が心に沸き起こり、耐えられなくなった山県は酒を見ながら叫んだ。
 屋根を打つ雨の音がさらに音を増す。遠くに雷光が一瞬の煌きをもって存在を明らかにしたかと思うと、夜はやはり雨と闇に支配され雷光のことなどを忘れたかのようにもとの光景が広がる。だが今、男二人が捕らわれているは、亡き「雷光」のような男のことばかりである。
「……注いでおくれ、狂介」
 無理やりに心を現実に戻すように木戸は酒を飲む。
「ほどほどに。あまり飲まれては体に宜しくない」
「今日は飲みたいのだよ、おまえと」
「二日酔いになられては、私が伊藤に嫌味を言われる」
 すると「俊輔は怖いね」と木戸は笑ったが、目の前にある酒を手酌で飲み始めた。
 互いの息吹すら感じられる静寂は、雨の音が奪う。手酌で飲む酒をただジッと見つめ始め、手を止めた木戸という男の中の情念もその酒とともに飲み込まれればいいのだ。おかしな嫉妬に胸を焼かれ、山県はそれを心の中で嘲笑うかのように酒を飲む。
 木戸の目に己を焼き付けたいと思おうとも、それはどこまでも無理なようだ。今、この雨が唐突に止まろうとも、木戸はその静寂の中になにを思うか。なにをもって心の慰めにするか。木戸という男の心というものは、どこまでも「感傷」で成り立っている。
 ……その杯の中にでも貴兄の心は溺れるのではないか。
「なにか楽しいことでもあるのかい」
 いつしか山県は僅かに喉を鳴らして笑っていた。
 木戸が怪訝な顔を向けてくるが、それも構わずに哂っている。
 この心は今、妄念すら抱いた高杉にではなく、目の前で高杉の思い出に浸る木戸に注がれている。それは高杉から起きた心であろうとも、行き着いた先に「高杉」を山県は求めてはいない。よく分かる。この心が欲しているのは、あくまでもこの黒曜石の瞳に己を刻むことなのだ。
「貴兄は酒ではなく、卵粥を食べられよ。まだ残っている」
 それが木戸にとっては現実。もはや湯気を立たない卵粥を見て「冷めてしまったね」と木戸は苦笑する。
 およそ噛みあわない木戸と山県の今日一日は、おそらく春の嵐のせいだろう。嵐の後には透き通るほどにきれいな青空が顔を出す。木戸も同じく心が晴れたならば、あの無邪気な笑みを見せてくれればいい。


「雨の音はどこまで続いているのだろうね」
 女中が食事の膳を下げていって後、雨足の強さのため帰宅に就くのを諦めた山県と木戸は、この宿泊機能のある東屋に一泊することにした。折りしも少しばかり飲みすぎたため、木戸の足下は覚束ない。杯を手に時々うとうとと舟を漕いでいることさえある。「泊まる」と山県が決めた。
 女中に寝巻き一式を揃えて渡されたが、木戸は今だ一寸の隙なく背広を着込んだままである。
「……いずれ止みます」
 フッと木戸は笑う。
「そういう意味ではないよ」
 そしてクスクスと笑い出し、酒の酔もあってかその笑い声は鈴のようにしばらく続いた。
「黒田君から手紙が来てね。まだ北海道は桜も咲かず雪が降っていると書いてあった。雨はどこから雪に変わるのだろう」
 同様の手紙が一式陸軍の状況を知らせよ、という催促とともに山県の元にも届いている。おそらく木戸のもとには北海道の特産物と一緒に届いただろう手紙。そこに黒田の扱いの差が見える。
「東北あたりでは今は桜が咲いている。雪が降ったとは聞かぬが」
「おまえは実直で面白くない男だね」
「ならばどう答えればお気に召すのか」
 見るからに不機嫌な顔をしたので、また機嫌を害したか、と山県は吐息を漏らしたい気分となった。
「雪と雨の違いはなんなのだろう」
 こういう風に抽象的な問いかけをするときの木戸は確実に酔っている。寝巻きに着替えさせ、続きの寝室で寝かせた方がいい。
「木戸さん。そろそろ横になられるといい」
「答えを聞いてはいないよ」
 再び杯に手をやろうとしたので、あえて山県はその杯を先に奪った。
「酔いが回っている」
「今日はおまえと朝まで飲もうと思って誘ったのだよ」
「……一度は顔は見たくない、と言われたが」
 数日前に今日の宵を誘ったのは木戸である。普段通り憂いを瞳に滲ませたまま「二十二日、食事でもしよう」と口にした。予定がなかったため山県は二つ返事で承諾したが、今日になっていささか口論となった。約束通り迎えにあがると言った山県に、 「おまえの顔は見たくない」と返された。それでも約束を反故にしなかったのは、木戸が自ら誘うのが珍しかったゆえである。
「おまえの顔が時々憎らしく思う」
「……それでもこうしてみておられる」
 そうだね、とまた木戸はくすくすと笑う。膝を進めて山県の傍らに寄ったかと思えば、にこりと笑って山県の肩にもたれかかってくる。
 こうしてこの肩に寄りかかられ庭を見ながら酒を飲んだ宵も幾度とある。酔いが回れば実に無邪気に甘えることができるというに、酒がなければ毅然と独りで立つ木戸は、決して人に甘えはしない。
 身を崩さぬように背に手を回し支えると、何かを思い出したように木戸は顔を上げた。そして山県の片腕をやんわりと解いて木戸は千鳥足で歩き出した。
「いかがされた」
 異国製の鞄をあけ、そこから一つの木箱を取り出し山県の目の前に置く。
「木戸さん」
「私は茶道具についてはよく分からないけど、骨董屋で気に入った茶碗を見つけた。天目だという。本物かどうかは分からないけど桃山期のものだというから。黒の色合い美しく、重くどこまでも泰然とある落ち着きある風格。……おまえに良くあうと思ってもとめた」
 日本庭園をこよなく愛する山県は、歌や茶など日本伝来の風流を好む男だ。いつかは己の趣味を結集した庭園を設えた邸宅を築くことを考え、その庭には風格ある茶室を設けるつもりでいる。
 いつか木戸にそのことを話したことがあった。「おまえらしい」と笑った木戸は、そのことを覚えていたのだろうか。
「いつかおまえの茶室で、この茶碗をつかった茶を立てておくれ」
 封じの紐を解き、大切にその手に取った黒の天目茶碗は確かに木戸の表現したとおりである。重き風格に年月が見える。箱にも茶碗の高台にも銘は刻まれていなかったが、山県も気に入った。
 天目茶碗は唐物の代表的なもので、その名は釉薬の天目釉からきている。室町の世にこの国に伝わり、その黒が放つ光沢や、独特な形状をこの国の人間は特に好み、唐物でも最上位とされた。
「私の茶室でいちばんに貴兄に茶を立てさせていただく」
 この天目は木戸の穏やかで儚げな風情には合わぬ気もしたが、得てして相容れぬものゆえ互いに身を引き立てる。それも良いとおもった。
「その日を楽しみにしている。……狂介は風流がいい。風流な心を忘れないでおくれ」
 力や財を追い求めてばかりおらず、ふと立ち止って自然の景色や音に目を向けろといいたいのだろうか。
 だがなにゆえか、と山県は思った。今この時に「天目茶碗」を差し出されるいわれが分からない。
「木戸さん。この茶碗は何ゆえに」
「おまえに似合うと思ってね」
「なにゆえ?」
 わざわざ一席設けて差し出してきた理由はどこにあるのか。
「狂介は気にも留めないのかな。今日は卯月二十二日。旧暦と新暦の違いはあるけど、おまえの誕生日だよ」
 それこそ意味なしと埋没させていた日にちである。山県は、陰暦の閏四月二十二日の生まれである。新暦で数えれば六月十四日となる。この国は太陽暦を取るようになり、ようやく三百六十五日。毎年同じ月日を同じく繰り返すようになった。それによって誕生日という概念が生まれる。閏四月二十二日など毎年その日にちは移り変わる陰暦だ。山県には思いいれなどない。見事に頭から消し去って久しいが、毎年木戸がしっかりと覚えており、それにより思い出させてくれる。
「おめでとう、狂介」
「毎年、貴兄も律儀だ。本人が忘れ去っているものを」
「おまえが忘れているから、なおさら私が覚えているのだよ。新暦に直すと六月だけど、誕生した日として記載されるのはこの日。だから特別だと私は思っている」
 そして高杉が教えてくれたように、大切な人の誕生日は贈り物をして祝いたい。それは木戸らしいやさしさといえた。
「一目見て狂介に似合うと思った。この茶碗で茶を立てる光景が頭に浮かんだ。だから……これにした。私はこの茶碗に夢を持ったのだよ。茶を立てる狂介と、それを受ける私を」
 その夢を叶えておくれね、ともう一度肩にもたれかかる木戸の横顔を見ながら、誕生日などという日にちはいらない。記念日など必要はない。二人で時を過ごすのに「理由」はいらないのだ、と山県は思った。
 骨董屋でこの天目を目にした時の木戸を想像する。夢を持ったというその光景の一時。美しき黒曜石の瞳には、ただ己しか刻まれていなかったのではないか。無数にも移り変わり、その大部分を亡き同志でしめる木戸の瞳の奥深くをしめたのは、ただの一瞬でしかなくとも己だけだったのではないか。
 ただの夢想。ただの願望。ただの……滑稽な己の執着の果て。
 だがその一瞬が山県にこの上なく甘美で、至福の喜びとも言えた。
「約束する。決して違えはしない」
 木戸は笑んでそのまま目を閉じる。
 雨の音が響く。その冷たさを物語るかのように屋根を叩きつける音。
 わずかに肌寒いのは酔いが覚めてきたからか、と思うが、雨音に体温を奪われてか、とらしくなく山県は思った。肩もとに寄りかかる木戸の温度はこんなにも温かいというのに、この体はほとんど冷めている。
 目を閉じた木戸の長いまつげを見、その病的な肌の白さに目を伏せる。されど、このまま寝てしまっては体に良くはなかろう。
「閨でお休みください。此処では風邪を引く」
 肩をゆすれば、やはり半分夢の中に入りかけていた木戸は、
「明日は雨がやむかな。晴れた空が見れるかな」
 と、ぼやけた声で言う。
 致し方ない。背広の上着だけは脱がし、木戸の体を腕に抱き上げた。半分夢現のため普段よりは身は重く感じたが、それでもまだまだ軽い。男に軽軽と抱き上げらるなど男の沽券に関るともいえたが、 相手は木戸だ。こうされることには昔から慣れきっている。
 褥に横にさせると、無邪気な寝顔となっている木戸の瞼に前髪がかかったので、それをそっと払いながら、
 あぁ雨が少しだけ和らいだな、と山県は思った。
 明日は春の嵐が去り、美しく青き空が見れるかもしれない。


雨の日の不協和音

雨の日の不協和音

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2007年4月22日
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】山県有朋誕生日祝作品