月下に咲く冬椿




 第一印象は真冬の空に浮かぶ月のような男だと思った。
 隙なく颯爽と走るそのさまは、月光の冴え冴えとした光を受けるに相応しいと心内では感じたものだ。
 長きサラリとした髪を真上で束ね、駆ける時はその髪がわずかに揺らぐ。
 容姿端麗にして、きれいな顔面を月光が照らすと、病的とも思えるほどの白さに息がつまり、微笑めば月光の刺すかのような厳しさが消え失せ大輪の花を咲かす。
 きれいな人間だと見惚れた。
「小松さぁ、あん御仁はいかな人でごわすか」
 傍らで月を見ていた同僚にそっと尋ねれば、
「あれが長州の桂小五郎だよ」
 アレが……と大久保一蔵は去りゆく背中を見据えながら心に留め置く。
 彼と正式に対面するはこれより数年も後のこと。
 かの薩長同盟が結ばれし京都薩摩藩邸において、大久保の正面に座った桂は、あの時同様にきれいで毅然とあり、されど月光の如し刺す冷たさはどこにも見当たらなかった。


「私は貴殿の政策にはついていけません。これほどに相容れない私が政府にあると、貴殿は思いのままに政を執り行えないでしょう」
 よって参議兼文部卿の辞表を用意してまいりました。
 内務卿につきましては、貴殿が戻った時点で代理の様相が強い私の辞任は認められたと思っております。
 九州佐賀で江藤新平を首班とする「佐賀の乱」を自らが処置し戻った大久保利通は、戻って早々に廟堂の大久保の部屋に乗り込んできた木戸孝允の顔を見て、思いっきり現実に戻った気分となった。
 久方ぶりに東京に戻り昨日は楽しい夜であった。妻の料理に舌鼓を打ち、まだ幼い子どもたちが「ちちうえ」と膝に乗っかってくるさまは、愛らしく、
 男ばかりの子どもたちを見ながら、次は女の子が欲しいものだ、と妻満寿を見ると、顔に朱を染めてうつむいた姿は相変わらず可愛い。
 家族のもとに戻りホッとするのと同時に、あの佐賀の喧騒も戦の匂いも、そして最期まで自らの主義をその目に刻み、公然と大久保を見据えた江藤新平の顔も遠くなりつつある。
「ただ皇天后土のわが心を知るのみ」
 と司法に携わってきた前司法卿江藤が、正式な裁判を受けることも許されず、即席裁判で主張をすべて退けられ、大久保の指図がままに極刑に処された。この一句は遺言として残されたものだ。
 あえて江藤の首を写真に写させ、各都道府県の知事に配り、部屋に飾るようにと処した大久保は、
 まずは「見せしめの象徴」としてその名を刻ませるために、内務省の自らの部屋に写真を掲げるつもりでいた。
 あの男は最初から最後まで、大久保が進もうとする道を阻もうとした。
 そして最期は……。
『あの萩の地で、木戸さんと椿を見たかった』
 どこまで小癪なことを囀るのか。
 ……木戸さんには椿がよく映える。椿の花のような生き様を送るあの方を、私は慕った。同様に、貴方のような冷酷な男の側に置いては、椿も首を落とす前に、枯れる。
 大久保と二人だけになったおり、江藤は澄み切った目でそんなことを語った。
 そんな江藤もかなり遠くなった。生きてはいない人間の言葉などとるに足りぬものだ。家族の顔を見るだけで、戦乱が胸より剥がれ落ちる。
 人はどれほど冷酷になろうとも、自らが心許すもの、または安穏さを抱けるものには、どんな冷酷をも忘れ去ることができるのかもしれない。
 だが、家族は癒しになろうとも、大久保利通を普段の「現実」に引き戻すことはできず、通常の大久保内務卿に戻すことは適わない。大久保自身意識している通り、佐賀の乱は内心かなり胸に引きずっている。
 家族は「癒し」として、あの戦乱を遠く遠くの「現実感」がない霞がかったものにしてくれる。それだけでありがたいというのに、何か足りないと思うこの心はいったいなんなのか。
 大久保は今、声をあげて笑いたくなった。
 誰もが不可能なことを意図も簡単に無自覚に成し遂げ、この廟堂で自らはどうあるべきかを知らしめる存在。
 それはきっと生涯ただ一人しかいないだろう。
「木戸さん」
 名を呼ぶ。それはただ一人、この大久保の心に響かす言葉を口にできる批判者の名前。
 同士であり、同僚であり、天敵でもあり、「政府の夫婦」とまで呼ばれる片割れに、
 大久保はそっと手を伸ばし、その手を掴んだ。
「なにをされますか」
 木戸はつかさずその手を払いのけようとしたが、大久保はそれを許さない。
「ただいま戻りました。今、貴公の顔を見ましたら、ここに帰ってきた気がしましたよ」
「それはよかったですね」
「はい。私が戻った以上は貴公のこの辞表は決して認めませんのでそのおつもりで」
 内務卿代行ご苦労さまでした。
 警視庁の組織を見事に組んでいただき感謝の言葉もございません。
 大久保は対峙するように目の前のソファーに座す木戸の秀麗な容姿と儚げな風情を見て、さらに現実感を確かなものにしていく。
 理想主義で、絵に描いた美しい主義を言葉に乗せてさえずるこの片割れのためにも、
 自らが徹底して非道と呼ばれる政治を断行し、この一国を富ますことを成さねば成らない。それが適ったならば、
 美しすぎる理想を脳裏に抱くこの人に、一国を返そう。
「私は今回の辞任に、大久保内務卿の許可を得るつもりはありませんのであしからず。私のこの辞表は今回は承認を求めるものではなく、決定事項です」
「三条公でも説き伏せましたか。私がいない間に随分と精力的に動きましたね」
「なんとでも仰って下されて結構ですよ」
「そしてこれ見よがしに私にこの辞表を見せにきましたか」
「どうとでもお取りくだされてよろしいです」
「さて木戸さん。辞表を受理させ、萩にでもお戻りになられますかな。その萩帰還で、いったい何を私に突きつけられるおつもりですか」
 木戸はにこりと笑い、
「そうして人の心を読んだふりをして、貴殿は何も分かっていないのですよ」
「貴公のことならば、手に取るように心得ているつもりですがね」
「はて、まずはどのようなことを」
「このようなものを用意して私を困らせて。本当に貴公は困ったお人ですね。そこまでして私を困らせて、私の気を引きたいのですか」
 木戸は見るからに蒼白となり、両手がガタガタと震えだし、キッと睨みつけるように大久保を見た。
 その表情もまた壮絶で、実にそそる。
 思わず軽く微笑んでやると、今度はさらに蒼白となり、目の前にある茶菓子を放り投げてきた。
「気持が悪いですよ、大久保さん」
 わずかに首を横にひねり、茶菓子からは逃れた大久保は、こんな些細な行為も木戸の愛情表現と思うと悪い気持ではない。
 大久保は「木戸に好意をもたれている」と確信している。それが廟堂中大久保を抜かした全員が「勘違い」であると言い切るというのに、大久保は妙なる自信をもって勘違いを受け入れようとしないから甚だ困ったものだ。
「本当になにもわかっておらず、妙な自信家なので……私はもうほとほと疲れました。萩に帰ります。ただの静養なのでご安心下さい」
 木戸はこの大久保の勘違いに哀しいかな慣れてしまっているため、気を取り直すのも実に早い。
「明治政府の長州の首魁がそれでおすみになられるとお思いですかな」
「では大久保さん」
 秀麗な顔にひとつの翳りが滲み、それは見る見る滲んで広がっていく違和感が大久保の目に映った。
 にこりと笑顔を刻みながらも、木戸はいっさい微笑んでなどいない。
 その黒曜の瞳は大久保を一心に見つめ、その目の奥には揺ぎ無い一貫とした意志が込められている。
 ……なぜに、江藤を追い込んだ。
 思えば、佐賀に出征する前より無言で木戸に突きつけられている、その感情。
「私と江藤君との主義は、さして違いはありませんでした」
 切り込まれた一言を、大久保は悠然と受け止める。
「然様でしたね」
「えぇ。江藤君のあの湯水の如し知識から湧き出る政策に、私は胸躍る思いでした」
「そして江藤は、貴公を自分が思い描く土肥政府の要にしようと考えていました。貴公が望もうと望まぬとも……」
 大久保は先ほど入れた珈琲で口の渇きを潤し、同時に入れた木戸用の紅茶は……木戸は一口も口に含みはしない。
「……貴殿は江藤君を邪魔とし、未だ佐賀に戻っては居ない江藤君をあえて乱に巻き込ませ首班とした。それだけ江藤君を邪魔としました。同様の主義であり、貴殿のいちばんに邪魔になるでしょう私も……殺しますか」
 コトリと珈琲カップをテーブルに置き、
 決して視線を離さず、静かに見据えてくる黒曜の瞳が、大久保は愛しいとすら思っていた。
 この瞳が自らを裏切らない限り、決してこの大久保自身も裏切りはすまい。
「木戸さん」
 名を呼ぶ。
 わずかに剣が含んだその瞳によぎる冴え冴えとした色合いに、大久保ははじめてこの木戸孝允を眼にした時を思い出す。
 わずかな交差。目の前を颯爽と駆けたうら若き剣士の横顔。
 印象に残ったのは整ったその容姿よりも、月光の如し冴え冴えとしたその意志強き黒曜の瞳。
「私を試されますかな、長州の首魁殿」
「これは面白いことをおっしゃる」
「江藤に関しては試す必要もない。アレはこの国に必要のない人間だった。だが貴公は違う」
「随分ないいようですね」
「正直に心内を話しているつもりですよ」
「維新政府を樹立した藩には、それぞれ火種を抱えている。貴殿の薩摩、今回の佐賀、これに呼応を見せた土佐。そして……長州」
「………」
「私が萩に下るとなれば……大久保さん。内務省の策略をもって私を萩にある不穏分子の旗頭に追い込みますか」
「木戸さん!」
「貴殿にはそれが可能です。自らの邪魔な人間を追い落とし、葬り去るに、もう一方の邪魔なものと共倒れにさせる」
「心にないことをおっしゃるのはおよしなさい」
「私は冷静です。……なのでちょうどよいではありませんか。これで貴殿が私をどう思っているか、試せます。といっても私は政府に仇なすつもりは全くありませんので、反乱の首班となすには骨がおれるでしょうね」
 木戸はそれだけを口にし、ゆっくりと立ち上がった。
「……まだお話は終わってはおりません。紅茶を入れなおします。お座り下さい」
 いいえ、と木戸が首を振る。もう口にすべきことはすべて言った、という顔をした。
「さようなら、大久保さん」
 今動けば、木戸の背中を引きとめることができただろうか。
 あの断固として拒絶を見せたあの背を、この手は引きとめることが果たして可能なのか。
 ふと視線を動かした先にある首だけになった江藤の写真を見ながら、
 あの男が漏らした一言が脳裏によぎる。
『あの萩の地で、木戸さんと椿を見たかった』
 静謐に笑ったあの男ならば、今、自らの手から離れいこうとするあの人を止められたかもしれない。
 あの自らが入れた紅茶を好む木戸が、一口も口をつけなかった紅茶カップを大久保は見、
 それを手にとって飲み干した。
「逃がしては差し上げません」
 貴公は自らの唯一の「対等者」 ただ一人のこの大久保の「批判者」
 そしてこの明治政府を共に打ちたて、ともにこの後育む唯一の「相棒」
 この一手で木戸は自らを試すとするならば、自らも木戸を試そう。
 萩に戻り、決して反乱の旗印とならんことを見せてもらおう。
 その瞳が自らを裏切らぬ限り、自らもまた貴公を決して裏切らぬ。
 今の木戸は最初に見かけた時の「桂小五郎」の毅然とあり優雅。颯爽として冴え冴えとした姿ではない。
 次に正式に顔を合わせたときの、毅然とありつつもそこに多分に儚さを匂わせたあの木戸孝允とも違う。
 そう……「椿」と江藤が評したように、
 今の木戸の姿は、大久保には月下の下の冬の椿のように、
 どこまでも毅然とし確固たる意志と思いを胸に秘め、首を落とす覚悟をしながらも、そのおちる日まで揺らぐことのない……。
 厳寒の冬にも一際美しく咲き誇る椿そのものといえた。
「貴公はどこまでも長州の首魁。そして私の……木戸孝允」
 裏切る覚悟もないならば、生涯廟堂に捕らえさせていただこう。


「木戸さん」
 仕事部屋に戻ったその時、木戸は大きく深呼吸をした。
 心配げな顔をして、顔を覗ってくる伊藤ににこりと笑う。
「戦いを挑んできたよ、俊輔」
「な、な……き、木戸さん。まさか」
「そう大久保さんに。心配はしなくていいよ。いつものように周りのものを投げつけたりは……少しはしたけど、ぴしゃりと頬を叩くことはしなかったし。あぁ前のように短刀を向けたりしなかったから」
 それが洋行前の明治四年より続く木戸と大久保の一種のコミュニケーションに等しい関係といえる。
 壮絶……と伊藤は思ったりするが、なかなかに大久保はこの扱いを喜んでいるようなので始末に負えない。
「……木戸さん」
「辞表が受理されたから、私は萩に戻るよ。俊輔……これは私と大久保さんの戦いだから」
 止めないでおくれ。
 私に大久保さんと一対一で戦わせておくれ。
 木戸は柔らかく笑んだ。その黒曜の瞳の心底に潜む「冴え」を、伊藤も気付いていたが、あえてそれを見てみぬ振りをし、
 今の木戸ならば大丈夫。いずれ自分や大久保が迎えに行けば、きっとこの廟堂に戻ってくるだろう。
 そう自分も大久保も、木戸の心底にある「思い」を裏切らない限り大丈夫だ。
「お気をつけて。そのうち顔を見に行きますからね」
 木戸は笑った。
 儚く穏やかに、そして毅然と。
 これから戻る「萩」の花たる「椿」を思わせるそんな笑顔が、伊藤は今も大好きである。


月下に咲く冬椿

月下に咲く冬椿

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2007年11月19日
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】相互リンク捧げもの