花火彩る帝都の空

前篇

「今年は隅田川の花火大会が復活する」
 毎年、両国川開きとともに、隅田川花火大会が実施される。
 享保年間が始まりとされるこの夏を知らせる風物詩は、元は大飢饉で亡くなった人々や、江戸に憑きものとされている火事での死者を弔うことを目的としている。それがいつしか江戸の人々の娯楽の一つとなり、毎年大勢の見物客が隅田川沿いに集まるようになった。
「へえぇぇ。今年は開催することになったんだ」
 兵部省四等出仕大丞山田顕義が、牛乳を飲みながら呟いた。
「あぁ。大乱でここ数年は中止となっていたが」
 情報の提供者たる山県有朋兵部小輔(数日後に大輔昇進が決定している)は、牛乳がこびりつく山田の口周りが気になるらしく、そっと懐紙を取り出して、その口を拭いてやる。
「わぁ! 山県が市のおかかさまになっている」
 本日は初夏といえども、うだるように暑い。
 いつものことだが、涼しいと評判の山県の仕事部屋に、今日も避暑に長州閥の仲間たちが遊びに来ている。
 その一人、租税頭にして参議木戸孝允の補佐たる伊藤博文が、二ヤッと笑った。
 米国より戻ってまだ日が浅い伊藤だが、妙に日焼けしているところが気になる。確か財政幣制調査のための渡米だったはずだが。
「なに? 伊藤さんもからかわないでよ。ガタ! 僕の世話を焼くな」
「この燻製やチーズは食さぬのか」
「……食べる。剥いてよ」
「なになに。本当に山県は市のおかかさまに、それとも世話女房になるつもり? よしなよね。おまえは……木戸さんだけに過保護にしていればいいと思うよ」
 山県が殻を剥いているチーズに、伊藤が手を差しのばすと、
「これは山田のものだ」
 と、ピシャリとその手を叩かれ、「痛いっ」と恨みがましく伊藤は山県を睨む。
「なんだか知らないけど、あの戊辰の戦が終わってから、ガタは妙に僕の世話を焼くんだよね。時々、鬱陶しいけど、別に害はないし」
 チーズをムシャムシャと食べ、牛乳をゴクゴクと飲み、そして兵部小輔室のソファーにゴロゴロと猫のように転がる。
 この山田の法相勇退まで続く……山県の部屋に入り浸り、ソファーにゴロゴロは、この時にはすでに始まっていた。
「世話女房もいいけどよ。市もそろそろ嫁をもらわんとな。……気にいった女子はおらんのか」
 こちらはソファーに深々と座し、足を組んで、煙管を美味しそうに吸っては吐くこの男は井上馨。現大蔵大丞兼民部大丞である。
 背広に下駄という独特なファッション性を披露し、伊藤が異国で購入してきたお土産のマントをつける。
 見事の不均衡は感嘆もので、誰もが目を細めるが、面と向かって「おかしい」と言えるのはない。しかもこのファッション性には、この頃は熱烈なファンまでついているといったおまけ付きだ。
「うーんとね。いるにはいるんだけど……」
 明快な山田にしては珍しく言葉を濁す。
「市、いるならいるで白状しなよ」
「そうだ。おまえもそろそろ可愛い嫁っこをもらってもいいころだと思うぞ。俺サマも再婚した。俊輔も梅ちゃんと結婚したし、山県には友子さんがいる」
 それぞれ維新を前後にして長州閥の重鎮たちは、妻帯している。
 残るは山田と品川だ、と口ぐちに噂していたところだ。
「それがさ……少し込み入ったと言うか。あぁぁ僕は隠し事は苦手だよ。みんなも知っている湯田にある旅館瓦屋の娘さ」
 すると山県が一つ吐息とともに「大変だな」と漏らした。
「志士の館の……あそこの娘となると市にあうのはたっちゃんくらいだよね」
 伊藤は記憶を思い返し、そして、「あっ」と声を張り上げた。
「市のところって……随分とあの時に粛清されちゃったけど村田清風系統の名門中の名門だよね」
「……僕もそんなに意識はしてないっていうか……しばらくの間はそれこそ粛清の対象だったし。けれどさ。やはり嫁となると……好いた女子っていう訳にはいかないというか」
「いいんじゃねぇの。俺だってさ。再婚だから勝手にしろ、と親や兄たちに言われたけどよ」
 山田の家ほどではないが、井上の家も百石の列記とした長州藩士の家柄である。ちなみに山田は藩政村田清風の一族であるが(清風は山田にとって大伯父にあたる)、山田家は大組士で禄高百二石である。
「うちは父が戊辰の戦の最中に亡くなり、弟は河上家を継いじゃっているから。僕にかかる母の重圧ってけっこうなものなんだよね」
 これだから長男って大変だよ、と山田は肩をポンポンと叩く。
「今でも実家から見合いの話ばかりで。どうしようかな。僕は好きな娘と結婚したいなんて言ったら、母上、気丈な人だけど失神するんじゃないかと思ってさ」
「でもさ、市。たっちゃん以外、考えられないんじゃないの」
「うん……。僕は龍子以外を妻にするつもりはない。でも妾は作るかもね~」
「結婚前から妾のことを言うんじゃないぞ」
 軽く井上にポカーンと叩かれ、
「なにするのさ。井上さんだって武子さんと大騒動の上で結婚したのに浮気ばっかり。伊藤さんは言うにおよばず。……山県は枯れ切っちゃって女なんてどうでもいいって感じだし」
「色ごとは男の甲斐性って言うんだよ。僕もそれはそれは遊んでいるけど、遊びが庭いじりの山県。おまえは少し遊びをした方がいいよ」
「……伊藤。あまり色ごとが過ぎれば、女性の敵だと言われ鳥尾に斬られる。注意せよ」
「小弥太はどうしてあんな堅物なんだろう。さすがに刀の錆にはなりたくないし」
「俺様も……小弥太にかけては笑いごとではないんだな」
 女遊びが過ぎると、堅物で評判の奇兵隊出身の鳥尾小弥太に「長州の恥辱」とばかりに軍刀を向けられる伊藤と井上だった。
「あのさ……井上さん。本当は木戸さんに頼もうと思っていたんだけど、参議就任以来忙しくて、萩に戻る暇なんてもうないと思うからさ。
 龍子を井上家の養女にしてくれない?」
 山田が口にする意図を、瞬時に井上は理解し、ニタリと笑う。
「そうするしかないな。よし分かった。志士の宿の娘ならだれにも文句を言わせない。俺から市の母上のところに縁談を持っていく」
「頼むよ、井上さん。これから井上の義父って呼ぶから」
「……それはよしてくれ。俺のところは先妻には娘はいたが、まだ子供はいないんだからよ。いきなり父親呼びはごめんだ」
 しかもいくら童顔と言えど、二十代後半の息子など洒落にならない。
「よし市の嫁取りの次は、今は露西亜に言っている品川だな。アレは……君尾と恋仲だったらしいが別れたんだっけ」
 井上は煙管を実においしそうに吹きながら、口にした。
「聞多と別れた後、君尾さんは弥二と相思相愛だったみたいだけど、これも色々とあったみたいでね。本命は別って聞いていたけど、市、なんか聞いていない?」
「知らないよ、僕は。てっきり君尾さんを妻に迎えるのかなって思っていたけど」
「そうだ。品川と引っ付いてくれれば、俺様が面倒を見るはめにならんくて済むと思っていたのによ」
「聞多。君尾さんの鏡のおかげで、闇討ちの際に命を拾ったんだから。お求め通り、生涯面倒をみなね」
 芸妓君尾は明治前に井上がねんごろにしていた女性である。
 英国に密留学する際に縁を切ったが、最期に形見とばかりに渡されたその鏡が、保守党に闇討ちされたあの時、運よく急所を守り通し、九死に一生を得た井上だった。
 それ以来、まったく君尾に頭が上がらない。
『一生、面倒を見てくださいませね』
 と笑顔で告げられた時に、サァーっと血の気が引いたことを井上はまざまざと思い出す。
 品川とねんごろになったと噂に聞き、それこそ万歳三唱で喜んでいたのだが、そうはうまくはことは運ばないようだ。
「弥二の本命って誰なんだろう? 山県は……知らないよね。こういう噂は興味なしだし」
 ふふんと笑った伊藤は、もとより返答はないものと思っていたのだが、
「その君尾という芸妓を妻にすればよいのだ」
 この手の話は普段は無視している山県が、珍しくも会話に入ってきた。
「なに? 山県は……知っているの。弥二の本命」
「私の姪静子に求婚をしていった」
「なっなんだって。静子さんって……おまえの姪とは思えないほどのすごい美女だよね」
「……美しくは育った」
「しかもこんな叔父のどこがいいのって言うほどに、懐いているあの静子さんを弥二が」
「伊藤……」
「ふーーーん。弥二も思いきったね。これじゃあガタと手を組みますと宣言したようなものだし」
 またしてもパクパクとチーズを食べる山田。
「それで山県。許すのか」
「静子の問題に私が口をはさむことではない。だが……出来うるならば破談にしたい。あの品川が親戚となり、貴殿ならば嬉しいか」
 問われた井上はポリポリと髪をかき、
「俺様ならごめんだ」
 と、一蹴した。
「僕も弥二はごめんだね。顔を合わせれば嫌味言われるし」
「伊藤さんはまだいいよ。僕なんかこうだよ。あれ市はどこだ。あぁまた豆のように背が縮んで見えなくなったか。おーーい市! ……弥二、抹殺」
「市、弥二は遠いロシアなんだからそんな血管を浮かばして怒らないの」
「こんなところに居たんだ。すまない、市。蟻のように小さくて見えなかったって。毎回言うんだ、あの弥二。僕は……絶対に天誅する」
 その場にスクッと立ち上がり、山田は地団駄を踏んで、気がすんだのか、またソファーにゴロゴロする。
「みんな集まってどうしたのだい」
 そこにこの長州閥四人衆の親玉たる参議木戸孝允が顔を出した。
「桂さんこそどうした? 今日は少しばかり暑いからな。この夏だけは涼しい兵部省に涼みにきたのか」
 井上がヨッと手をあげたので、木戸もその手をスッとあげて答え、井上の傍らに座す。
「狂介に話が少しあったのだけど……市は相変わらずここでゴロゴロなのかい」
「うん、このソファーすごく寝心地が良くてさ。木戸さんもゴロゴロしてみるといいよ」
「市! 木戸さんは市みたいにゴロゴロなんかしないよ。……冷えた茶がありますので、飲みませんか」
「ありがとう、俊輔」
「聞いてくれよ、桂さん。ついに市も嫁取りだぞ」
「それはおめでとう、市。どこの娘さんだい」
「……まだ本決まりじゃないし、親の許しなんか得てないけど。湯田にある旅館瓦屋の娘なんだ」
「そうか。好きな女の人がいたのだね。妻にしたいと思う人が。おめでとう、市」
「うん、ありがとう、木戸さん」
「万が一の場合はご母堂の説得を私がするよ」
「うわぁぁん。木戸さんがしてくれたら百万力だよ。青木の洋行も、青木家の義母を木戸さんが説得したんだよね」
「……万が一の場合だからね。今日は市の嫁取りの御祝いでもしようか」
「まだ決まってないから……いいよ。それに……そうだ、山県、話は飛んだけど隅田川の花火大会とか言ってたよね」
 花火大会の話から、話はとびに飛んで山田の「嫁取り」になっていた。
「そうそう。その手の話は全く無関心の山県が、花火大会の話なんてね。……嵐の前の静けさ? 雪や槍が降る?」
 伊藤は冷えた茶を入れ、木戸の前に出し、ついでに山県、井上、山田の元にもコトンと置く。
「ありがとう、俊輔」
「いいえ。というのも山県のところの茶ですけどね」
 てへへと笑った伊藤も席につく。
「それで山県よ。なんで隅田川の花火なんか持ち出したんだ」
「……憂さ晴らしに行かぬか、と思った」
「うわぁぁぁ、ガタが! ガタが僕らを誘うなんて天変地異に前触れかも」
「そういうことを言うのではないよ、市。花火なんて風流で……良いじゃないか」
「木戸さん。だってガタが僕たちを誘うなんてありえないというか……。というかなんでさ」
「この頃、おまえは疲れで顔色が良くなかったゆえに憂さ晴らしに適度と思った。それに……」
 山県の目は、すっと木戸に向けられる。
「貴兄には気晴らしが必要だ」
「もしかしてさ。山県……木戸さんを誘うつもりで、僕たちはおまけ?」
 伊藤の問いに、山県は「それ以外に何がある」という目をした。
 それに伊藤はいささかしょげたようで、小さく「僕なんてさ……」と言っていたりする。
「本日、いかがか」
 すると木戸は少しばかり迷ってか、床に視線をやる。だがそれも一瞬の躊躇いであったようだ。
 その黒曜の瞳を山県に向け、にこりと笑う。
「ありがとう。一緒するよ」
「木戸さんがいくなら僕もいくよ。たまやぁぁぁかぎやぁぁぁと叫ぼうと」
 山田は俄然乗り気になった。
「じゃあ僕はみんなの浴衣をさっそく用意しますよ」
 お祭り騒ぎは大好きな長州人らしく、皆が「花火大会」に夢中になっている。
「俺様は大きな馬車を出してやるよ。みんな、乗れるぞ」
「あぁぁ! 仕事なんかせずにこのまま隅田川にいきたいなぁ。ガタ、兵部省の午後からの勤務さ」
「ダメだ。仕事をせよ、山田」
「えぇぇ! おまえの権限で午後から休みにしろ」
「……却下だ」
「そうだよ、市。聞多も俊輔も仕事に戻ろう。邪魔をしたね、狂介」
 木戸はにこにこと笑って、伊藤と井上の手を引く。
 この長州閥の首魁には、誰も適いはしない。
「よし俊輔、大蔵省に戻るぞ。今日分の仕事はやってしまうぞ。市も……ゴロゴロしていないでよ。仕事をやれ」
「えぇぇぇ! 僕は今日、ここで退庁時までゴロゴロするつもりだったのに。それに部屋は暑いから……ここでやるよ。どうせ僕のやったものは、そこの親分さんが総点検だし」
 山田だけを残し、三人は部屋を去って行った。
 山県も自らの席に戻ったが、山田は一向にゴロゴロをやめる気がない。
「でもさ、ガタ。なんで花火大会なんて急に言いだしたのさ」
 未だに山田はその点が疑問だった。
「………」
「ただの憂さ晴らしではないだろう、よりによっておまえだし」
「昔……」
「なんだよ」
「高杉さんが見たと言っていた。木戸さんと隅田川の花火を」
「えっ」
 山田は思わず起き上がる。
「思い出が多すぎようが、その思い出とともにあるのも今のあの人には必要だ。気晴らしにもいい」
「あのさ、ガタ。そんなこと良く木戸さんに言えたね。……木戸さんきっと思い出したよ。そうじゃなくても高杉さんのことになると情緒不安定なんだから」
「そんなに弱くてどうする? あの人は……長州の首魁だ」
 立ち直ってほしいという思いを、強く生きて行ってほしいという願いを込めて、山県は木戸を誘ったのだ。
 あえて隅田川の花火大会を。
 在りし日の高杉晋作と見た思い出多き場所に。
「おまえって木戸さんには過保護なくらいなのに……そうやってたまに厳しくなる」
「あの人は甘やかされることを望んではいないだろう」
「そうかな? 僕は五稜郭を落とした疲れがまだ残っているからさ。まだまだ優しくして欲しいんだけど」
「そういえば榎本たちの助命活動。おまえもかんでいるようだな」
「……黒田が何度も頭を下げるし……それに木戸さんはおおっぴらに助命はできないしね。だから僕が」
「そうか」
「だからって……それで、疲れている訳ではない」
「………」
「心配しなくていいよ。ここでゴロゴロしていたらすぐに元気になるから。それにガタ。僕は……大丈夫だよ」
 チーズも食べれるし、燻製をお酒のつまみにする。牛乳もゴクゴクと飲んで、いつも元気に笑って、
 だけど不意に見せる戸惑いと疲労を、目ざとく山県は視ているのだ。
「おまえも十月よりは洋行だ。気をつけろ」
「いつからおまえは僕のおかかさま?」
「……山田」
「心配してくれているのは分かっている。大丈夫だから、ガタ。僕が戻る前に西郷なんかと組んで徴兵を急ぐなよ。僕は……木戸さんを守って異国を見てくる」
 二カっと笑うのが、山田の精一杯の心意気。
 心配はされたくない。けれど心配してれる仲間がいるという心強さ。
「けどあんまり僕を気遣わない方がいいよ。おまえ……きっと同じ省にいる限り、僕が最大の反抗者になるんだから」
「………」
「鳥尾と組んでいろいろとやっているみたいだけどさ。よぉく足元は見ろ。なぁガタ。僕は……楽しいことばっかりに浸っていたい。もう哀しいことは嫌だからさ」
「………」
「ガタ、牛乳。チーズ」
 ひとつ吐息を落として、山県は手を二度大きく叩く。
 すると副官が現れ、山田のもとに大量のチーズと冷えた牛乳を置いていってくれた。
 こういう甘やかしが、やはり……山県の甘いところと言わずをえない。
 だがその優しさと甘さがあるから、この陰険な男と付き合っていられる。
「いつも、あんがと。チーズ、美味しいよ」


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花火彩る帝都の空 -1

花火彩る帝都の空 前篇

  • 【初出】 2010年9月13日
  • 【修正版】 2012年12月14日(金)
  • 【備考】133333キリリク作品