八月十一日という日付を見ても何の感慨も浮かばない。
この日が陽暦に直すと、自分の生まれ日だと知ったのは、数年も前の友人の一言からだ。
『陽暦に直せば、貴方の生まれ日は八月の十一となる』
あの根っからの学者の言葉に、ふと思ったのは、この国の風習についてだった。
陰暦に慣れたこの国は、さまざまな風習が陰暦に根ざしている。十五夜に五節句などなど、それをこれから変更とすると風習が崩れて行くのではないかと懸念が浮かんだ。
上巳の節句など桃が咲くころと言うことで桃の節句と呼ばれるが、新暦になるともう桃の花など散っているところが多くなる。
だが欧州列国という近代化を遂げた国の標準なる暦が陽暦である以上、これより近代化を遂げようとしている我が国は列強と肩を並べるためにも暦は標準化しなければならない。
だが、国家の目指すところに、人々はついてこれるのだろうか。
幕府統制下の折も念入りなる暦表が配られていた。時には暦と占いを織り交ぜたものもあり、それが庶民には人気だった。今後は欧米風のカレンダーの配布は必然となるだろう。
「木戸さん。一服しませんか」
そこで思考が中断となった。
「少しお疲れが顔に出ていますよ」
それには吐息を一つ漏らすことで答えとする。
昨今、どこぞの脳みそが腐った感がある内務卿から、毎日のように花が送られるようになった。そこには短い手紙が添えられており、その内容が吐き気を催すものと言えた。
本日の花は一輪差しに入った「芙蓉」
なるほど趣味がよいとわずかに感動したことを、その手紙を見てはなはだ後悔したものだ。
『今宵は貴公と艶やかな夜を過ごしたいものです』
その場でマッチに火を付けて手紙は燃やした。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とは言うが、送られてきた花には罪はないので、自分の目に付かないところに置いたが、花の香りは容赦なく鼻をかすめる。
「……あのお花、叩き返してきましょうか」
傍らで仕事の補佐をしている伊藤が遠慮がちに切り出してきた。
およそ少年の時分から手付として側についている伊藤は、おおよそ自分の心情を察することができるようになってはいる。
「叩き返したならば、こちらが意識していることになるとは思わないかい」
伊藤は、ははははと笑ったが、木戸には笑いごとではすまされなかった。
数年ほど前に「勘違い」から始まった内務卿の恋は、未だに修正されずに、木戸はひとえに被害をこうむり続けている。
はじめはいずれは正気になるだろうと構わずにいたが、だんだんとイライラ感と腹立ちが増し、どうにも心情を制御できなくなってしまい、気づいたときは竹刀であの内務卿を打ちのめすようになった。
長年、憎悪を抱いてきた相手ではある。竹刀で叩きのめすと妙に爽快な気分となってしまい、この時に木戸は人間というものは我慢のしすぎはよくないことと実感したものだ。
以来、プツリと切れたときは我慢をせず、内務卿を追いかけ回し叩きのめすことで気分転換とすることにした。早く言えば何もかも「開き直り」なのである。
伊藤が入れた紅茶と用意された壷屋総本店の最中を食べていると、やはり芙蓉の優しい香りが鼻をかすめる。
普段ならば、心も体も癒される心地だろうに、本日はイライラとあの内務卿の顔ばかりが浮かぶ。
「俊輔」
木戸はスッと立ち上がった。
「やはり叩き返しに行ってくるよ」
「えぇぇ~ 木戸さんが行くと必ずもめごとになるので僕が行ってきますよ」
「直接叩き返さなければ、この腹の虫がおさまらない」
一輪差しを握り締め、片手に竹刀を持ち、そのまま木戸は部屋を出た。
内務省までの道を「芙蓉」を見つめながら歩く。
花が好きな木戸は芙蓉の薄紫の色合いも気に入っていた。花言葉は「繊細な美」と言い、もしあの内務卿が花言葉など調べて送ってきたとするならば、そこに何か因果が込められているような気もする。
内務省に入り、内務卿への取り次ぎを頼むと、なぜか陸軍大輔の西郷従道が飛び込んできた。
「木戸公。今、大久保さぁのとこいに行くと……また血の嵐とんもんで」
どうぞ引き返してほしいと言うのだが、現在の木戸の心境は「叩きつける」に固執していた。
おいおい泣く小西郷を引きずるようにして内務卿室に入ると、そこには無数の芙蓉に囲まれた内務卿の姿がある。
似合わな過ぎて、思わず木戸はポカーンとなった。
「ようこそお出で下された、木戸さん。本日は一時ごとに、どの芙蓉を貴公に送ろうかと、こうして並べて選別しております」
呆れの心情にしばし我を忘れたが、自我が戻るとみるみると怒りの心情が湧き出てくる。
「花言葉は繊細の美ということで、貴公にはまさに似合う花と思います。この花を枕元に並べて、ぜひともに貴公と艶やかな夜を」
「大久保内務卿」
今、このとき、自分が壮絶な微笑を湛えていることを木戸は自覚している。
「花を選択している暇があるならば、仕事を終わらせて下さい」
「失敬な。それは私に対しての侮辱です。当然、仕事など終わらせてから、こうしてゆっくりと貴公を彩る花を選んで……」
ここに愛刀の備前長船清光があったならば、間違いなくこの内務卿を一刀両断したに違いない。運がよいのか悪いのか。政府内では木戸は帯刀をしなくなって久しい。
されど懐には護身の意味もあり、短刀が一本忍ばせてある。
「閨を飾る花としてこの芙蓉はどう思われますか」
ピキッと眉間が動き、懐にスッと右手を忍ばせると、
「木戸公!」
小西郷が必死に首を横に振っている。その涙すら浮かぶ顔には哀願がこびりついていた。
「短刀はだめござんで。せめて竹刀で叩きのめしてくいやんせ」
「この頭が腐りきった男は一度、刀の錆にしてくれなければ・・・」
「刃傷はダメござんで。刃傷だけはご容赦を。こう見えて一蔵さぁは武芸に関してはまこての素人。つまいは弱かんです」
「そんなことは知っている」
木戸は一輪差しを大久保の前に叩き返した。
「花には罪はないと思いつつも、貴殿から送られたと思うと花すらも憎くなりますので」
「私のことを意識してくださっているということです」
「・・・」
「木戸公。最大限の忍耐をたもいやはんか」
だが忍耐というものは切れるものだ。縋りつく小西郷の巨漢を突き飛ばし、木戸は竹刀を握り締めた。
「貴殿の腐りきった頭は一度、冥土に旅立たなければ治らないということを、今、私は認識した」
みなぎる殺気というものを、この時点で正確に内務卿は察したらしい。
かの動乱の時代を生き抜いた男だ。それなりに危機を察する反射神経は供えている。
「!」
そのため理性で判ずるよりも、まずは体が動いたらしい。脱兎のごとく駆けだし、木戸はそのなりふり構わぬ逃げっぷりに一瞬だけ茫然としてしまった。
その隙をついて全力疾走をし遠ざかる後ろ姿にハッとした木戸は、こちらも脱兎のごとし勢いで後を追う。
半年ほど前の馬車の事故により左半身がかつてのように動かない。
されど痩せても枯れても練兵館の元塾頭。内務卿如しに後れを取る脚力ではなかった。
「待ちなさい、内務卿」
脚力が衰えてきた内務卿を凄まじい勢いで猛然と追いかけ、内務卿は右に左にと揺さぶりをかけるがものともせずについに伸ばした右手に内務卿の袖を掴んだ。
こうなればいつもの独壇場だ。ニタリと笑った木戸は、
「その腐りきった思考を叩き直してくれよう」
と、半殺し寸前まで、少しは手加減をして竹刀を繰り出し、内務卿がくたぁとなったころ、
「一蔵さぁぁぁぁぁぁぁ」
迎えに現れた小西郷に内務卿を引き渡した。
「この男の頭はいかになっているのか。何度も叩き直しても一向に改善がない」
ため息ながらに木戸は呟いてしまった。
「そやなあ、木戸公。叩きのめせばのめすほどに一蔵さぁはさらに魅せられうごとで……」
「この男。そういう性格だったのか」
悪寒が体を駆け巡り、木戸はぶるぶると震えると、
「薩摩人なで、強い者にな尊崇を抱くのは当然のこっです」
「だから薩摩人は苦手なんだ」
「おいたちにとって木戸公は憧れでござおいもす」
内務卿以外の薩摩人にも悩みが出来そうなので、木戸は竹刀を杖代わりにして早々とその場から立ち去ることにした。
ふらふらになって戻ると、伊藤が心配そうな顔をしていることに気づく。
「またあの内務卿を半殺しにしたのですか。木戸さん、薩長の関係を……」
「私があの内務卿を半殺しにすればするほどに、私に対して惹かれるという体質らしい。しかも薩摩人は皆・・・」
「えっ」
さすがに伊藤も固まった。
「内務卿を竹刀で追いまわすのは……少し考えるよ。なんだかドッと疲れたから」
そのままソファーに横になると、伊藤が掛け物を上に掛けてくれた。
体が妙に重い。この頃はあの内務卿を追いかけ打ちのめすことで運動としていたが、激しすぎたかもしれないと少し反省した。
(薩摩人は強いものに惹かれる……)
それは薩摩隼人の気質を考えると頷けるところがあった。
(私はどうすれば良いのだろう)
半ば気分転換にもなっていた内務卿を痛めつけるのはほどほどにしておいた方がよいのかもしれない。
だがこちらが下手に出ればますます増長をする。やはり今まで通りと考え、これでは迷路だと木戸は思った。
どこをどう歩いても、あの内務卿の「恋路」から抜け出すことが適わないのではないか。
あぁでもない。こうでもないと考えているうちに疲労からの睡眠に負け、そのまましばらく夢の中をさまよっていたようだ。
芙蓉を大量に抱えて自分に迫る内務卿を竹刀で散々に打ちのめす夢を見た。
現実味が在り過ぎたため夢とは分からず、大量の寝汗をかいてしまい、目覚めたときには呼吸も乱れていた。なんとも目覚めは最悪だ。
「目覚めたか」
周囲は薄暗く、その声で山縣だと判じた。
机でなにやら書き物をしているようだ。
「おや狂介かい。俊輔は?」
「工部省に戻った。今は退庁時刻を過ぎている」
「そんなに眠っていたのかい」
周囲にはランプの仄かな明かりが灯っているのみだ。
「ではそろそろ参ろう。本日は築地の寿司屋だ」
最近、うなぎや牛鍋といった栄養があるものが多かったので、寿司と聞いて木戸はあからさまにホッとしてしまった。
「言っておくが本日だけは特別だ。明日からはまた滋養のあるものを……休息時の飲み物も甘酒にしていただく」
この後輩が世話焼きだということはよくよく知っているが、この頃はその世話も度が過ぎるようになり、過保護と言えるほどに進化してしまっていた。
こまめに世話を焼いてくれるのは嬉しいが、ここまで来ると存在が時たまうっとうしくもなる。だが顔を見せなくなると妙に寂しくなることも知っている。
未だ疲労感は残っているが起き上がると、体が空腹を訴えていた。思えば内務卿を打ちのめした後はお腹が空く。ましてや夢でまで打ちのめしたのだから、本日はいつも以上に体力を消耗したようだ。
「では参ろう」
「どうして今日だけ特別なのだい」
「あぁ。あまり毎日同じようなものを続けると体によろしくないと言われた。五日に一度は好物を食すのも良いことだと」
「五日に一度のご褒美なんだね」
「………あの美食家の大鳥さんが勧める店だ。貴兄の舌にも合おう」
「大鳥さんが勧めるなら期待できそうだよ」
木戸は笑って山縣と一緒に部屋を出、並んで外に待たせてある馬車に乗り込んだ。
空にはうっすらと月が出ている。日が沈んだ後もまるで肌にこびりつくかのような暑さが残っていたが、それでも風は昼時と比較すると生温かさがなくなっていた。
「もうお盆だね」
新暦となり幾度目かのお盆はもう数日後だ。
旧暦の際は自らの生まれ日より半月ほど後だったお盆だが、新暦になると生まれ日よりわずか二日後がお盆となる。
感覚的には全く慣れず、また盆とは言え萩に墓参りにも行くことも許されぬ身を先祖はどう思っているだろうか。
馬車に揺られながら、いつになったら萩に戻れるのかと、そんなことばかりを木戸は考えた。
食事のときには、山縣の世話焼きは「過保護」に等しい。
これは滋養に良いやら、栄養がなんやら。どこでそんな知識を仕入れてくるのかとげんなりする知識をたんと持ち合わせている。
好物くらいは好きなように食させてほしいと思いつつも、ジロリと睨まれしぶしぶ言われたままのものを食してしまう自分が情けない。
これではどちらが年上なのか知れたものではない。
文句の一つや二つは言いたいが、これもすべては自分の体調を気にかけてくれていると思うと、どうにも言いづらくなってしまい、それが何年も続いている現象だ。
昨今は、廟堂の帰りは山縣に連れられ食事を取るのが日課とまでなってしまっている。それも妻、長州閥公認というのだから、厄介至極だ。
「………」
漏れるため息を隠しもせずにいると、また山縣に睨まれた。
あの大鳥が勧めるだけあり寿司の見事さには舌鼓を打ち、帰りの馬車の中では木戸はご機嫌になった。
鼻うたをさえずりながら、
「明日も寿司だといいのに」
と言うと、仏頂面の後輩は「明日は鰻だ」と間髪入れずに答え、これにはげんなりとなってしまう。楽しい気分も一蹴され、どうしてこの男は空気を読めないのだと辟易となるが、まぁこれもいつものことだろう。
九段に到着し一人馬車から下りる。山縣の家は招魂社を挟んでご近所なので、御者がこのまま馬車で送り届けるのはいつものこと。
「木戸さん。生活向上には早寝早起。朝の散歩もまた良いかと思う」
「……本当におまえがおかかさまに見えるよ」
「すべては貴兄の健康のためだ。貴兄の生活習慣は乱れ過ぎている」
いつものように一言余計な言葉を残して、馬車は発車した。
軽く手を振りつつも、この毎日の疲労が少しでも緩和されれば自分の健康も少しは向上するのではないかと本気で木戸は思うのだが、
(ろくでもない新暦の生まれ日だったような)
月を見ながらげんなりと思い家に入ると、
「おかえりなさいませ」
妻松子と娘の好子が出迎えてくれた。
「ただいま戻りました。うん? 松子、それは」
松子は腕に大きな花束が持っていた。
「珍しい白い桔梗の花束でございましょう。先ほど大久保さまから贈られてまいりましたのよ」
「……大久保…内務卿」
昼時の竹刀での打ちのめしが一瞬脳裏を駆け巡った。
「本日はお誕生日ということをご存じだったご様子で。お好きな花を愛でてくださいとのことでした」
「………あの内務卿が……」
昼間に散々に打ちのめしたこともあり、なんだかその言葉に裏を考えてしまうのだが。
もしかして昼間の竹刀での打ちどころが悪かったのだろうか。小西郷の言葉ではないがますます「強いもの」に惹かれて、さらに頭が腐りきってしまったということも考えられる。
自らの考えにぞーっと悪寒が走り、目の前の希少な白の桔梗を睨みつけてしまった。
「だんなさま?」
花には罪はない。それはよくよく分かっている。罪はないのだ。
「花言葉は清楚とのこと。だんなさまに良く似合いますこと」
「松子」
「はい」
「その桔梗の花は私の目のつかないところに置いておいておくれ」
「………?」
「花には罪はないからね。どれほどにその贈り主を叩きのめしたいと思おうとも花には罪はない」
「だんなさま……」
「なにが清楚……。なにが……やはり私はあの男を叩きつぶさなければ気が済まない」
それが悪循環になろうとも、構うものか。
「お好きな花でしょうに、おかしなだんなさまですこと」
「どれほどに好きでも贈り主による!」
花が目に入らぬように家にあがり、木戸はおもむろにため息をついた。
これは本日、何度目のため息だろうか。
なんだか無性に腹立たしく、そして何とも普段通りの変わり映えのない一日だったかと改めて思う。
最後の桔梗の花だけは、普段と違う色合いであったが、あの内務卿の顔を思い出すと胸の中がカっと怒りで熱くなった。
「お似合いでございますのに」
松子が小さく呟く。
「この桔梗の花を湯船に浮かべてくださいという口上でございました」
「遠慮する」
さらに疲れ、木戸は部屋の座椅子にぐったりと身を沈める。
(花で私が少しでもなびくと思っているのか)
そしてこのろくでもない一日に対して、締めくくりとも言える重いため息を吐くのだった。
花攻撃
花攻撃