花の下にて




「あぁあ! 今年もまたこの時期だよ」
 伊藤博文は色町に繰り出すために誘いに来た井上馨の顔を見ると、開口一番にそんなことを言った。
「なんだよ俊輔。やぶからぼうに」
 今は政府より距離を保っているというか、見事なまでにかの佐賀の乱で倒れた江藤新平に追いやられた井上馨である。実業界に身を置いているが、それで終わるつもりはさらさらない。政界と距離を持とうとも長州閥とは入魂なのに変わりはない。かの幕末の動乱期を共に乗り越えた仲間は、井上にとっては何よりも掛買いのないものである。
 特に現在は長州第二の人物として参議に任じられている工部卿の伊藤博文。共に幕末のころ英国に密留学を果たした親友とは、どちらからともなく週に何度も顔を合わせている。
「この前、高杉さんの偲ぶ会をしたじゃない。まぁ暦が変わったから季節的にはかなりずれているけどさ」
 長州の一大傑物。かの奇兵隊を創設し初代総督となった高杉晋作は、旧暦で四月十四日に維新を見ずしてこの世を去った。
 明治も七年が過ぎた現在。
 太陰暦より太陽暦を用い始めたこの国では、特に政府の人間はきわめて新暦で日にちを考えることを慣らすために、高杉の命日も新暦での四月十四日に偲んだ。今年は例年に増してこの時期でも冷え込むことが多く、その日も桜は蕾のままで咲いては居なかった。
「したな。桂さん、いつもながらに物思いにふけてよ。俺は毎年思うぜ。この偲ぶ会は桂さんにはよくない。また死者のことばかりをさぁ」
「僕も思っているけど、しようとしまいが木戸さんが死者のことを思うのはいつものこと。特に桜が咲くころは……仕方ないね」
 桂小五郎こと木戸孝允は、明治に入り幕末の動乱期に失った友人に半ば心を奪われ、悲哀と慙愧の念ばかりを心に抱いている。
 あの京都を美麗な姿のまま風を感じさせるかのように颯爽と駆けた桂は、木戸孝允と名乗り始めて以来颯爽さは陰をひそめ、かわって絶えず瞳に愁いや翳りを刻み、身もいつ消えるか知れぬはかなさに包まれてしまった。
 西欧諸国に洋行に出る前は、今以上にひどかったのだ。
 死者のことを思うたびに「なぜに私が生きている」と鬱に入り、伊藤などは毎日冷や冷やしたものだ。されど「死」を木戸が自ら遂げようと考えたことがないことだけが救いである。
 薩長の一方の長として首魁として、木戸には明治新政府を見守り、薩摩の独断を許さないために立たねばならない使命があった。今の長州にはすでに木戸しか薩摩の大久保と対等に渡り合える人間はいない。
「で、なんだよ。桂さん花を見るたびにこの時期にいなくなった奴らを思いだすから、花見はやめようとか言うんじゃないだろうな」
 木戸は薩摩独裁の防波堤として、また新政府の生みの親の一人として、先に逝った同志たちに託された「この国を」見守ることを自らに課した。
 自らが死すことはその人たちへの裏切りでしかない。
「花見はいつも……木戸さんは乗り気じゃないからね」
 特に春になると……一番の盟友にして木戸を誰よりも慕った高杉晋作という男の死を思い出すらしく、空を見ては「晋作」と呟くことが多い。
 誰の死をも心に衝撃を受けただろうが、高杉が自らよりも先に逝ったことが、何よりもの打撃となり「木戸孝允」という人間の風情をも変えてしまった。
 このごろは口にしなくなったが、数年前まではなにかあれば口癖のように言っていたのだ。『晋作ではなく私が逝けばよかった』、と。
 その言の葉を口にするたびに長州閥は心配でならなかった。
 不安で胸が張り裂けるかと思った。
 長州は村塾の四天王をはじめ多くの逸材を亡くした。友達たちがあの時代……次々と消えていった。
 自分たちから「木戸孝允」という首魁までも奪い去っていくのではないか。
 同時に……死者の方が自分たちよりも木戸の心の多くをしめる、と思い知らされ、哀しみで木戸より目をそむけてしまう。
「けど花見はしてもらうよ。桜の華々しい美しさは木戸さんにはよく似合うしさ」
「昔、みんなで花見をしたことを思い出すから、あまり乗り気にはならないぞ……絶対に。ついでに毎年花見には首を横に振る」
 黒船が来航し世情は大いに紛糾していたが、それでもあのころはみんなで花見をする余裕があった。
 まだ吉田松陰も生きていたころ。松下村塾の塾生が「兄」のように慕った松蔭の友人の桂小五郎と、分け合いあいと花見を楽しんだ春。
 あのころの笑顔は、今の木戸には……ない。
「明治も七年だよ。そろそろ木戸さんには春の哀しみから離れていただいて現を見ていただかないとね。それに久々に桜の花の下に佇む木戸さんを見たいよ。花びらが舞い降りる下にある木戸さんは……見惚れるほどにきれいだし」
「おまえ、そういって数年前も桂さんに花見を誘って……結局来なかったぞ桂さんは花見に」
「けどね、桜を見るのがイヤだってわけじゃないんだよ。あの洋行の時に異国で桜の花を見たとき、そっと花を一輪だけ手折って胸元に入れたって言うからね。あの時は望郷の念があったのだろうけど、あの人、もともと桜が好きなんだから」
「なら俊輔よ。桂さんをどうやって誘うんだよ」
 すると伊藤は井上が思わずぞぞっとするほどに。ニヤリと笑ったのだ。
「僕も前の失態があるから今回は知恵をめぐらしたよ。それで思いついたんだ」
 長年の親友がこういう「思いつき」をめぐらすとき、それはろくでもないことだということを井上は経験上よく知っている。
 一歩二歩と井上は危険から身を避けるために後ろに避難を始めたのだが、
「なにやってるのさ聞多」
「おまえがそういうひらめきをよぎらせるときは、はっきりというけどよ。ろくでもないんだよ」
「なっ……なんて失敬なことを。いい、この僕の名案をよく耳穴こじ開けて聞きなよ」
「はいはい」
 井上は覚悟を決めたらしく後ろに身を避難するのを諦めたようだ。
「あのさぁ……もう少しで山県誕生日じゃない」
 旧暦の閏四月二十二日生まれである陸軍卿山県有朋である。あくまでも旧暦のことなのだが、長州閥はすべての人間の誕生日も命日も新暦でその日をなおすことなくとり行うことにしている。
「あぁぁ、山県な」
 長州閥で一番といえるほどに桜が似合わなさそうな男が、卯月生まれであった。だが閏月生まれゆえに、四月が二度繰り返されたときの生まれである。
「そう山県。この際だよ、二十二日といえば例年なら散り始めだけど、今年はきっと桜も満開。今年は寒かったから例年より咲くのが遅くてよかった。誕生会といこうじゃないの」
 ニコニコと伊藤は笑うが、その名案に頭を抱えるのが井上馨である。
 長州閥のしかも松下村塾出身の山県なのだが、この男。喜怒哀楽を喪失したと言われるほどに冷徹な表情に、北国の永久凍土そのままの氷の風情をまとう男。昔から宴会騒ぎなどには好んで仲間に入ることなどありえない。お祭り騒ぎ大好きの長州閥から、一種の距離すらも置いているように見えなくもない。
「おいおい俊輔。山県だぞ。あいつは騒ぐのが嫌いなんだ。一人静かに日本庭園を見ながらわびさびの静寂な風流をな……」
「ねぇ聞多」
 またしても伊藤はにっこりと笑う。
「木戸さんに山県の誕生日会を今年は夜桜の下で実施する計画を伝える。木戸さんは後輩思いだからねぇ。毎年、一人一人の誕生日を忘れたことはなく、ちゃんと祝う人だよ。誕生会と聞けば桜の下でも必ず来る。それでねぇ、山県には二十二日に某庭園で花見をするという。あの山県だからさぁ……忘れているよ、自分の誕生日」
「おいっ」
「だからさぁ驚かし半分、山県には木戸さんも来るんだけど、と言うんだよ。木戸さんが出かけるところならたいていはあの男はついてくるからさぁ」
 伊藤としては至極「良き作戦」を考えたものだが、井上は手放しで拍手をするつもりはなかった。
「おまえ……それ、山県をだしにして、桂さんを桜の下に連れ出そうという……」
「いいじゃない。僕はさぁ。山県の誕生日なんて祝ってやりたくないよ。寒気がするね。でもさ……あの男の誕生日でも役に立つことがあるんだなぁって思いついたのさ」
 長州閥は聞きしに勝るお祭り好きで、しかも各誕生日を必ず宴会を催して祝う。
 その中でも山県有朋の誕生日は、明治に入り同郷のものが集まって祝ったことなどない。なにかしら山県有朋の誕生日になると騒動が持ちかけられるか、誰かしらが国にいないのだ。
「それにこれしかないじゃない。木戸さんを桜の下に連れ出す口実なんてさ」
「わかったよ、俊輔」
 井上は「しゃあない」とその作戦の乗ることを表明した。
「桂さんにはおまえがいいなぁ。どうせ山県には俺の口から言え、と言うんだろう?」
「さすが聞多。よくご存知のことで」
 山県と伊藤は村塾以来の険悪の仲で知られる。どちらも互いに顔を合わせれば、伊藤は「嫌味」に事欠かなく、山県はそれを平然と無視している……井上いわく「犬猿の仲」だ。
 誕生日祝いではなく、花見の誘いといえども伊藤の口から山県を誘うなど「絶対にイヤ」に決まっている。
「俺に最初に計画を打ち明けたのもそのつもりなくせにな。おまえは」
「僕が言うと……たとえ木戸さんが出席すると言ってもあの山県だよ。行く気はない、と言いかねないからさ」
「弱気だな。おまえが誘っても山県は来るさ。桂さんが一緒なんだぞ。あの桂さんに過保護のあの男が、来ないはずがないって奴さ」
「けど山県が来るといわないと木戸さんに話を通せないから、万全を期して……お願いね、聞多」
「あいよ。了解だ」
 こうして長州閥における夜桜見作戦が実行に移された。
 長州閥の面々に「山県有朋の誕生会を兼ねた花見」という伝言板はまわされ、山県の誕生会は直前まで内緒だということも添えられた。
 山県に嫌悪感を抱く陸軍の三浦梧郎や鳥尾小弥太だったが、木戸が花見に出ると添えると……二つ返事で参加を表明する。
 誰もが見たいのだった。
 桜の下に佇む木戸孝允という我が長州の首魁の姿を……。



 四月二十二日に小石川の「旧水戸藩邸」で長州閥における夜桜見実施の話を、井上馨から聞かされた山県有朋だった。
「あの水戸藩邸の庭でか」
 数年前に取り壊されることになった旧水戸藩邸だったが、山県自身が「天下の名庭を壊すにしのびない」と独断で名庭として存続させた場所である。
 井上は木戸も出席するので、おまえは出席するよな、と笑っていたが、
 そのときから何かがおかしいと思っていた。
 あのお祭り好きの連中が花見をするにしては、水戸藩邸はわびしすぎる。それこそ山県が好む静けさに満ちている場所だ。
 だが木戸が出席するとならば、山県に否やはなかった。
 あの桜を見るとなきそうな顔をして「生きていることを申し訳ない」と目を細める木戸が、今年はなにゆえに花見の誘いを受けたのか。
 その日を山県は夕暮れまではいつも通りに陸軍省で仕事をし、一人花見の場所に向うことにした。
 月は欠けることもない望月。かすみかがった朧月夜。歩く道すがら……桜の花が舞うのを目にしつつ、朧月夜の夜桜もなかなかに趣がある、と山県は思いつつ歩く。
 藩邸の名庭は、今日は長州閥が貸しきったらしい。
 通いなれた場所に足を踏み入れ、お祭り好きの同郷の連中の賑やかな様子に……せっかくの風情も台無しだ、と思ったそのときだ。
 桜の花の下に一人佇み、少しだけ物憂げな顔をして見上げる木戸の姿があった。
 静謐な風情で、その場だけは神聖にして一人だけ隔離されているかのような……。思わず息を呑むかのように、魅入った。
 桜の花のように華々しさが昔の木戸にはよくあった。明治に入ってからはその姿ははかなさに包まれ、桜の鮮やかさの前では存在がかすむのではないか、と思えたが、夜桜の下の木戸は……昔ほどに生きる活力は見当たらなかったが、そのぶんはかなく舞う桜に吸い込まれていくかのようで……逆に一体感が生まれている。
 まるで桜にその存在が奪われてしまいそうな……そんな幻想。
「山県」
 その場に佇んでいた山県に最初に気付いたのも、木戸だった。
 自ら歩を進め、桜の下より山県の元に歩いてくる。あの花の下の気高さやはかなさが消え失せることに残念さとともに、不思議と山県は安堵していたが、
「誕生日おめでとう、山県」
 その柔らかな声音で、ようやくこの日を山県は知った。
 新暦で祝されようとも「四月二十二日」と日付が同じだけで、なんの意味もない。それに年を重ねることがなぜめでたいのか。西欧には誕生日を祝う風習があると知ったときから、おかしな風習だ、と山県は眉をひそめた。
『大切な人が生まれた日をお祝いするのだよ。それはすばらしいことだと私は思うよ』
 だが木戸がそう言葉を綴ったのを耳にし、ふと思ったものだ。
 年を一年重ねることに「めでたい」ことなど一つもない。だが、確かに大切な人に「生まれてきたこと」を祝ってもらうのは悪いことではない。
「おめでとさん、山県よ」
 井上がニヤリと笑った。
「あぁぁぁおめでとう、山県、誕生日」
 伊藤がまったく楽しからずといった風に、そんな言葉を口にする。
「桜がまったく似合わないのにこんな日が誕生日なんだぁ。花見で忘れるよ、きっと、毎年。とにかくおめでとう、山県」
 山田顕義もまったく祝う気がないらしく、型どおりの言葉を並べた。
 おおまかなことは山県は察してしまつたために井上と伊藤をにらみ吸える。
(私の誕生日を使って、花見に木戸さんを連れ出したということか)
 そうでなければ、桜を見るたびに哀しげな顔をする木戸が、花見に出てくるはずがない。
 誕生日という口実により木戸は此処に連れ出されたのだろう。
 こういうことを考える人間は伊藤に決まっている。
 睨みすえていたが伊藤はまったく悪びれる様子もない。「おまえも木戸さんと花見ができるんだから、いいじゃないか」とその目はにらみ返してきている。
 野村靖に杯を渡され、井上にとにかく座れ、と宴会の中に引き込まれた。
 数えてみると長州出身の昔なじみが十数人もいる。
 山尾庸三がなにも言葉もなく杯に酒をなみなみと注いで来る。
「じゃあ……夜桜も満開。月も満月。桜月としてはいちばんの日ってことで桜見と山県の誕生祝いってことで今日はおおいに楽しもうね。乾杯」
 伊藤の乾杯の合図とともに、「乾杯」という声が周囲にこだまし、その場は堰を切ったかのように宴会の喧騒に包まれた。
(長州閥のお祭り好きの出しにされようとは)
 杯を飲み干すと、木戸が酒を持って傍らに座した。
「おまえは考えれば……こういう賑やかさは好きではなかったね」
 杯に酒を注がれそれを飲み干して後、山県も木戸の杯に酒を注ぐ。
 確かに宴会にかこつけた花見など普段ならば決して顔を出しはしないのだが。
 ちらりと木戸の顔を見つめ、今宵はさして苛立ちもなければ、むしろ心が高揚している己の心がある。
「今年は……これにしたよ。陸軍卿は一に書類に署名することが多いようだから」
 木戸は毎年誕生日には必ず「贈り物」をしてくれる。
 今年は黒の外国製の万年筆が箱の中には入っており、山県は木戸に向けて頭を下げた。
 木戸は長州閥の人間への誕生日の贈り物は、その人間にあった実用的なものと決めているらしい。万年筆に時計、ネクタイピンやら木戸らしく趣味がよい品がその人間に合わせて送られている。
 随分前だったが、木戸の記した書が欲しい、と三浦梧楼は口にした。
 清の有名な思想家の言葉を書にし、木戸は照れながら屏風にして三浦に渡したことがある。それ以来、木戸の書が欲しい、とねだられることが多くなり、木戸はそれだけは断るようになってしまった。
「僕からも贈り物だよ」
 伊藤からなんの装飾もなく包まれても居ない木箱が差し出される。この男が己に誕生の祝いをするはずがない。
 半ばろくでもないものだろう、と思い中を開けてみると案の定だ。
「山県にはピッタリでしょう。呪いの嗤人形。もうこれを見たときは絶対に山県行きだと思ったね」
 傍らの木戸はものめずらしそうに嗤人形を見ている。
 山県は箱の蓋を閉め、伊藤に冷淡な口調で返した。
「伊藤。これでおまえを呪えというのか」
 ピクリと肩を浮かした伊藤は、それこそサァァァッと顔色を変え、
「いやだなぁ冗談だよ。本当はこっち。金運のお守り、健康のお守り……いろいろと集めてきたんだから。それは冗談だよ」
 と、箱を取り返そうとする伊藤に、山県はその箱を片手に持ち、
「守り袋よりもこの嗤人形の方が興味深い。伊藤、有り難く頂いておく」
「だから冗談だって」
「心配はするな。当分は使う予定はない」
 その場の賑わっている雰囲気が一瞬にしてひんやりとした雰囲気に変わってしまった。
「まっまぁ……俊輔。冗談は冗談でいいじゃないか」
「冗談じゃないよ。山県が使用すれば……これぞ十割の確実で呪いは成功するに決まっている」
 井上はちらっと山県を見て、ひとつ吐息をこぼしたが、
「いいじゃないか。誕生日の贈り物なんだからよ。俊輔、そんな顔をしてないでまずは飲めって。発起人のおまえがそんな顔でどうする」
 無理やりに井上は伊藤に酒を飲まし、酔わしてしまう戦法に出たようだ。
「山県……そのような品物はあまり使用は進められないよ」
 木戸が心配そうな顔をするので、山県は箱を後ろにまわし「使用はしない」と一言流した。
「いいなぁ。僕もそれ欲しい。伊藤さん、どこに売ってたの? うわぁぁぁすごく欲しい」
 山田顕義は伊藤を捕まえて念入りに尋ねていたが、伊藤は酒が回ったらしく泣き上戸を披露。
「うわぁぁぁん……どうしよう。あんなの渡すんじゃなかった。からかっただけなのに……」
 よしよし、と井上があやしている。
 冗談を冗談で流すほどに山県は人は好くない。しかも相手は伊藤だ。一番に堪える返答をするに決まっている。
「飲むといいよ」
 長州閥と言えども、それぞれ仲のよい人間がおり、一人一人酒の相手を見つけ思い出話をしたり、または桜の美しさに浸っている。
 夜桜がゆるりと降り立つ姿は、この喧騒がなければさぞや浸れる風情だろう。
 おそらく桜の舞い降りるほどの静寂の中で、一人酒を嗜みながら夜桜を目にしたならば、それは山県有朋の至福の時と言えたかもしれない。
「木戸さん……」
 酒を注ぎ自らも飲んでいた木戸が、いつのまにかさして酒に強くもないことを証明するように、山県の肩に寄りかかったまま目を閉じている。
 酒がまわったのだろう。
 心地よさげに眠っているが、その表情はどことなく疲れがあり、無理が祟ったな、と山県は察した。
 桜を見るたびに過去の感傷に覆われる木戸である。無理をして桜を見、無理をして微笑んでいたに違いない。
 コートを木戸の背にかけ、そのまま山県は木戸に肩をかしたまま、桜を見つつ酒を飲む。
 喧騒は宵まで鳴り響き、そのまま酒に潰れる人間も多くなったので、二十三時をまわる前にようやくお開きになった。
 まったく酒に酔わない体質らしい井上が、伊藤を背に背負い一応は義理の娘婿となる山田の襟首をひっとらえて、
「じゃあな、山県。今日は楽しかったぜ。おまえの誕生日のおかげで桂さんを花見に連れ出せたしな」
 井上はにんまりと笑った。
「俺からの誕生祝いだ。眠っている桂さんを送るのはおまえに任せるよ。俺はこの二人の面倒で手一杯だしな。じゃあな、山県。良き月夜を」
 それぞれ酔いが回っていない人間が酔いつぶれた人間を抱え、月夜の中、桜に見送られて去っていく。
 山県は両腕で眠っている木戸を抱き上げ、井上が手配した馬車に乗り込んだ。
 今宵の桜も、桜の下に佇んでいた木戸も、ともに美しかった。
 己の四月二十二日の誕生日を要因にしてだが、花の下に佇む我が長州の首魁の姿を久方ぶり見れたこと。
(この人は未だに現にある)
 昔ほど華々しさも颯爽さもなくとも、花の下にて花に見劣りもせぬ美しさを木戸は有している。
 誰もが惹かれ、誰もが見惚れる。
 馬車の中で山県の肩に寄りかかり、未だ眠りの中にある木戸孝允。
 この人がいつの日か、桜の下で哀しみよりも悦びを。
 愁いよりも、楽しさを見出し、昔のようにニコリと笑ってくれるならば、
 それが山県にとっては一番の誕生日祝いとなるのかもしれない。
 できるならば静寂の中で木戸と二人、桜見をしたいものだ、とその寝顔を見ながら望む山県有朋だった。


花の下にて

花の下にて

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】山県有朋誕生日記念作品