光あふれるこの国に

前編

 雨が降る。ポタポタと屋根を叩く音が、耳に伝わる。
 湿った空気も分かった。身を包み込むジメっとした感覚に、一瞬だがなぜか体内より笑いがこみあげてきた。
 昨日は一時危篤まで陥った体だというに、一夜明ければ、こうして自然の恵みを感じることが許されている。
 それも危篤のおりの記憶がないからだろうか。悶え苦しみ、周りはいっそ……と思ったというのが、遠く感じる。
 そっと視線を横に向ける。
 障子戸で閉じられているが、その先は雨に濡れる新緑の若葉美しい景色が広がっているはず。
 自分は、もう一度縁に出て庭を見ることができるだろうか。
 葉桜の緑の若々しき色合いを、風が葉を撫でるように揺らぐさまを。そよぐ風そのものをこの頬に感ずることができるだろうか。
 木戸孝允は目を閉ざした闇の中に、風に揺らぐ葉桜の姿を浮かべた。
 数日前に縁に座って日がな一日見つめていた光景を、忠実なまでに再現しようと試みる。
 葉の一枚一枚のカタラから、風に揺らぐその姿。ぴゅーと吹く風の音まで、あの日……そのままの光景を。
「……あっ……」
 だが今浮かんでいるその光景は、本当にあの日そのものか、と疑問が脳裏に掠めた。
 もしかすると数年も前の光景かもしれない。
 重い瞼を強引に開ける。半ば霞んでいるが、この目は、きちんと光を捕らえた。
 天井の白さが分かる。梁の一本一本が目に映る。
「……あ……ぁ」
 愛しい、と。ただ愛しいとしか思わぬこの心を、どう表現すれば良いのだろうか。
 この目には光が宿り景色を映す。この耳には小さくなりつつある雨の音がきちんと聞こえてくる。
 雨の匂いが分かる。湿った空気が身を包みこむこの感覚。
 生きている。今、自分は生きている。
 生そのものにここまで実感を持ったことはなかろう。
 ほとんど自由が効かなくなっている腕を持ち上げる。重いと思う。ただ腕を持ち上げるだけでも一苦労だ。
 手を自らの頬に触れさせると、その手が冷えていることも分かった。
(私は……生きている)
 ……生きている!
 胸の鼓動の音が分かる。脈打っている感覚も、身の温度も。
 今の今まで「生」というものに執着せず、諦めと悟りに似た境地を生きてきた自分が、生きていることを喜んでいる。
「……あなた?」
 障子戸が開かれると同時に、雨を含んだ風が流れてくる。
「……まつこ……」
「あなた、お気がついて」
 その場に盆が落ちる音が響き渡った。
 蒼白な顔のまま駆けてくる妻松子の姿が霞むことなく見ることができる喜び。
「あなた、あなた」
 枕元になだれるように座し、木戸の腕を掴んだ瞬間、涙がポロポロと落ちていく。
「あなたの手。昨日は冷たかったの。冷たくて冷たくて、私が温めても冷たくて……」
「……まつ……こ……」
「でも今……少し温かいのです。よかった……」
 松子の手が木戸の手を力強く握り締めてくる。その手にぽたりと落ちゆく……雫。
 わずかに見上げれば、目に映る妻の姿に、木戸は反対側の手をおもむろに持ち上げ、その頬にあてた。
「なか……ないで…おくれ」
「……桂さん」
 懐かしい呼び名が耳に伝わる。
 その呼び名は木戸にとって青春そのもの。その呼び名は「過去」の忘れ去った偶像。
 桂小五郎という名の自分と、今の木戸孝允という自分は違いすぎて、同一人物には思えぬ、と自他ともに思われている。
「松子」
 思いのほかしっかりとした声で妻の名を呼ぶ。
 留まることがない涙をその手でぬぐい、木戸はこの松子を妻に申し受けたいと感じたあの日を思っていた。
 あの日も「桂さん」と呼んだ。
 第一次長州征伐を終えたおりの長州下関で……。
 高杉晋作の功山寺決起により藩政が大きく転換し、藩より追捕をかけられている自分が、藩の舵取りとして呼び戻されたあの日。
 京都にあると思っていた松子が、形振り構わず駆けてくるその姿を目にした時に、決めた。
 抱きしめられ、抱きしめ返し。公衆の面前で抱き合い、互いの無事と互いの温度を確かめ合い、
『桂さんは自分のじゃ。誰であうろと抱きつくことは許さん』
 傍らにあった高杉が、仏頂面でどうにか松子を自分から離そうと着物を無造作に掴んだその時。
『この松子の着物にふれて良いのは、桂さまのみ。無礼千万』
 ぴしゃりとやり返した松子に、さすがの長州の魔王も茫然自失となっていた姿が目に浮かぶ。
 化粧もせず、京都三本木で名を馳せた芸妓とも思えぬその身なり。
 この自分にただ会いたくて駆けてきてくれたのだろう、と分かるその形相と、嬉し泣きです、と涙を留めることなく流すその姿に。
 この人と一緒になりたい、と木戸は決めたのだ。
「あの日のまま……だね、松子」
 涙の温度があの日に木戸を誘ってくれる。
 先の希望が一本道でつながり、目の前が光であふれていたあのころ。
 傍らをそっと振り向けば、いつも「桂さん」と全幅の信頼と愛情を込めて呼んでくれた幼馴染の姿があった。
 何度戻りたいと思ったか知れない。百万の苦難があり、艱難辛苦を味わったあの怒涛の日日に……戻りたい、と。あの当時の自分なら、二度とこのような日日は味わいたくはない、と苦笑するだろうが、時過ぎて、今ありせば……ひとえに懐かしく、いとしい。
「私が長州に戻ったあの日……かけてきた君を見て、私は……惚れ抜いたのだよ」
「まぁ」
 我に戻ったかのように顔をあげた松子は、
 わずかな逡巡の後に、もう一度木戸の手を握り締める。
「あの時の私は……もう必死で。都で壬生狼の見張りがなくなって……みなに萩に向かっても大丈夫といわれて決意したの。簪や着物は全て売り払って路銀にして、必死に駆けてかけて。ただあなたに会いたくて」
「そうだね。都で芸妓をしていて、美しく着飾った君より……あの時の君の方が私には美しく感じたよ」
 数日前より言葉を話すだけで苦しく息が上がっていたのが嘘のように、今の木戸は言葉を苦もなく綴ることができた。
 頭の中では「小康状態」という言葉と、いよいよ「最期」という言葉が浮かんだが、
 このわずかな時を天が与えてくれたことを、心より感謝した。
「あの日のままだよ、松子」
 木戸は自然と微笑んで繰り返す。
「……あの日のままではなくなりました。あなたは……あの時から……決して私のものだけにはなってくださいませんでした。
 国家の参議。国家のために……全ては人民のために。明治に入ってからはあなたは……いつもお国のためだけに動いて。
 でも……私は幸せですのよ。時折振り向いて手を差し伸べてくれるだけで……よかった」
 国がため、人民がためにこの身はある。
 多くの同士が夢描き、望み、願ったこの国の道のりがためだけに。
 ……後は頼みます。
 どれほどに「明治」というこの国をその目で見たかったか知れぬ多くの同僚に、頼む、といわれたがために、木戸は最期の気力を振り絞ってその目で見てきた。
 誰がこんな国を望んだ? と疑問も常に頭にあった。
 こんな国に為すがためにみなは命を失ったのか……と思うと哀しく、悔しく、もどかしく……。
 自分が生き残った意味が何なのか分からず。
 それでもみなが見たくても見れなかったこの国を、命ある限り見続けるのが生き残ったものの役目と言い聞かし。
 悟りとも諦めとも知れぬ境地で、自分は生きてきた。
「国のため……人民のため……」
 それが先に逝った皆の供養と大義名分を掲げて……。
「すまない……松子」
 傍らにある一番大切な女性を、この手で幸せにしたいと思った女性を、顧みることすらしなかった。
「いいえ……いいえ」
「私は……君の笑っている姿が好きで……いつも笑っていて欲しい、と思って……」
 いつかこの国に夜明けが訪れたならば、
 君と二人で故郷の萩で、ひっそりと静かに過ごしていこう、と決めていた。
 それはささやかな木戸の夢だった。
 国が成れぱ、多くの後輩たちがこの国を築いていけばいい。自分はこの国が成る礎で終わりなのだ。
 天性の政治家と思える人間は多くいる。
 維新成就に深く関った人間よりも、後進のそれを引き継ぐ立場にある人間がこの国を作っていけばいい。
 萩の片隅で国の前進を見ていければ嬉しかった。
「君を……泣かせてしまった」
 この国が成るために、あまりもの多くの人間の血が流れた。
 国が成り、形成していく段階で、周りを見れば……数多の同僚の顔がなくなっている。
 新政府の人間として、幕藩体制の象徴に等しかった千代田の城に足を踏み入れたとき、木戸の心は何かを失った。
 二百数十年もの間、この国の象徴に等しいこの千代田城において、
 今、無数の人間が何の遠慮もなく足を踏み入れていく。数年前ならば士農工商、主従の上下関係に雁字搦めになり、
 決して手が届かなかったこの城の内部を、歩いている自分はいったい何者だと言うのだ。
 何か重いものに身が押しつぶされそうになった。苦しい、と。息を吸うのも忘れるかのような威圧がある。
 歩を進めるたびに出くわす人間に「桂くん」と呼ばれ、型どおりの挨拶を繰り返す自分とは何か。
 城を後にし、まるで後ろ髪を引かれる様に振り返ったとき、
 木戸はその場で、なぜか深々と城に向かって頭を下げていた。
 終わったと思った瞬間だった。そして心は、何かが壊れた。
 もう良い……と思えたあの時に、木戸は同士たちの「後は頼みます」といわれた願いに、終止符を打てたと感じられた。
 これからの人生は、そう抜け殻のような人生でいい。
 自分の人生はもう「燃え尽きた」
『もう良いね、晋作』
 私はもう「長州の首魁」から下りて、この後は妻松子と二人ひっそりと生きていく。
 残りの人生を、また抜け殻のようなこの身体とこの意志を、全て松子に捧げて……ただゆっくりと。
 ……あの時、そう決めたというのに。
 結果は血を流した末に得た維新の存続がために、木戸孝允という名を犠牲とすることになった。
 静かなる生活を捨てた。傍らで松子が笑っていてくれればよい……と願った暮らしを、手放して……。
 長州の首魁という名のままに、国家の参議として生きることを決めた。
『あなたは長州の首魁なのですもの』
 どことなく寂しげに、そう呟くたびに諦めを一つずつ重ねていった松子。
『木戸孝允という政治家は、松子には遠いですよ』
 目に涙を滲ませ、そう訴えられようとも、いつしか自分は「大義名分」の重圧に押しつぶされたかのように、周りを見ようとしなかった。
 国家がため、人民がため……。それはまるで枕詞のようだ。
 傍らで静かに笑む女性一人、幸せにできない自分が、国家を思うことができようか。人民のことを考える資格があろうか。
「桂さん」
 松子はゆっくりと身を倒し、木戸の胸元に顔を埋めた。
「……桂さんの妻にして下されて松子は本当に嬉しかったのです。桂さんが好きで、桂さんだけが好きで……」
 知っているよ、松子。君はあの動乱の京都より、本当にこの自分を愛してくれた。
「芸妓でしかない私を妻にして下された。妻に、と望んで下されたときどれだけ嬉しかったか……」
「……年老いてなお……二人で……と約束したのだね」
「えぇ。そこに高杉さんがお越しになって、むくれた顔をされてこう仰ったの。覚えていて?」
「……二人じゃない。三人じゃ、とまくしたてられた……」
「そうでしたね。三人で……いつまでも三人で……と。桂さん。松子は高杉さんがいらっしゃってもいい。桂さんがこの松子より高杉さんを大切にしていてもよいの。
 だから……今度生まれ変わってきても、松子を妻にして下さいね。高杉さんと二人であなたの取りあいをしますわ」
 この国がめぐり、時がめぐり、また彼方で出会うことができたら、
 その時は、戦争もなく、人の血が流れぬこの国で、今度こそ……松子に翳りのない笑顔を。
「……今度こそ幸せにするよ」
「……今度ではなく、今幸せにして欲しいのよ。よくなって……ずっと松子の傍に……いてください」
 気休めの言葉ひとつかけることもできぬこの身の状態。
 誰もがわかる「明日をも知れぬ」この身体。
 主上の行幸の供として京都に発つと定まったときに、死する場所が決まった。
 いちばんに己が輝いていた場所で、青春という二字が残る思いで深き京都の地で朽ちるなら……幸せだと。
 悟って旅立ち、終わりを心の中では喜んでいたというに、
 今、このとき……諦めとも悟りとも違う思いが心を蝕む。


▼ 光あふれるこの国に 後篇へ

光あふれるこの国に -1

光あふれるこの国に 1

  • 【初出】 2008年5月26日
  • 【修正版】 2012年12月14日(金)
  • 【備考】木戸孝允命日追悼作品