必要のない




 京都の皐月の風は、時折「熱」を含むが、夕方になると涼しげに吹く。
 旧近衛別邸にて、木戸孝允は病んだ思いのままにならない体を横たえていたが、この日は起き上がり縁で庭の様子を見ている。
 風が吹く……草花が揺れる。
 そのわずかな動作がどうしてこれほどまでにいとおしいのだろう。
 木戸は柱に寄りかかり、そのまま目を閉ざしていった。
 音は聞こえている。風の……音が、草木を揺らす。
『桂さん』
 そして自然の音に混じり、この頃は鮮明に聞こえる……呼ぶ声。
 目を閉ざしたまま木戸はにっこりと笑う自分が分かる。
 明治の初めころから、時折、特に病で身を倒すころに聞こえていた。「桂さん」と自分を呼ぶ懐かしき声が。
 脆いこの心はその声に縋りつき、手を伸ばし「連れていって」と涙したものだ。
 だがその声は決して弱ったときしか聞こえず、ましてや夢現の時が多かったというのに。
 今は鮮明に耳に届き、その声は「実感」を心によぎらせる。
 かねてより近いうちに来るだろうと疑ってやまなかった「死」という感覚は、どうやら木戸には安らぎと懐かしさをもって……引き寄せてしまうものらしい。
「晋作……」
 ポツリとつぶやいたその声に、
 ……桂さん。
 まるで自分の声が聞こえたかのようにかえってくる呼ぶ声。
「もう少しだね、晋作」
 また逢える日はすぐそこに近づいている。
 おまえは……私を迎えに来てくれるのだろうか?
 懐かしい幼馴染の顔を浮かばせ、久坂や周布、来原などという掛替えのない大切な人間を心によぎらせる。もう少しで皆に逢えるのだ。
(私は……)
 現に生きていて、いつも現に「現実」を感じるよりも、死した人間たちに「現実味」を抱いてきた。
 この世にあって、心は中途半端のままに揺らぎ……手は虚空に差し伸べてしまうこの心を、
 もてあましていることには当の昔に気付いていた。
 目を開ければ、その場に木戸は現に生きる人の顔を浮かばせ、自然と苦笑を浮かばせる。
 俊輔……伊藤博文にはもう長州の長と呼ばれた私の保護はいらない。むしろ私の存在は邪魔であり、彼の行く手を妨げる壁であることを知っている。
 聞多……井上馨。彼はきっとこの後、得てして個人主義に走る長州の人間をまとめる存在になるかもしれない。そして彼の行く道は……おそらく伊藤と重なり合うだろう。
 狂介……山県有朋。その手で近代陸軍を築き、木戸は決して望まない陸軍が武力を背景に政に介入する……そんな時代を築いてしまうかもしれない。それだけの力を……彼は手にするだろう。
 市……山田顕義。天性の軍事的才能を身に宿した彼だが、心に何か軍事について期すべきものがある。いずれ司法の道に行きたい、と笑った彼には先の道は真っ直ぐ開けているだろう。
 三浦も鳥尾も……内藤も野村も……もう独自の道を自分で築いている。
 この手はいらない。この「木戸孝允」の名など必要はない。
「私の役目はもう終わったようだよ、晋作。もう誰も私の手を必要としないから……」
 だから……これ以上、この現に「空虚」とかなしみを抱かないうちに、
 早くこの病んで、時折意識とて消え去るこの身を……早く迎えてきておくれ。
 ……ダメだなぁ桂さんは。この現にどれだけ大切にされ、どれだけ必要にされても、桂さんの心をしばるものはなかったのか。生に足掻くほどのものはないのかい。
 木戸はクスクスと笑う。
「私とてこの現にあり、死ねない、と思った。死んではならない、といい続けてきた。この国のため、この国の人がため……。けれどね、晋作。私は生きようと思ったことは……なかったのかもしれないね」
 絶えず胸にあったのは「まだ死ねない」という言葉であり、それは呪文のように囁いて身をしばった。
「おまえがいれば……もう少し違ったのかもしれないね」
 ……桂さん。
「十分生きて、見るべきものは見た。もう……私は……見たくはないのだよ」
 このまま誰にも必要とされなくなり、誰にも愛されなくなり、一人朽ちていく姿を晒すくらいならば、まだ人の心の片隅に一握でも存在するうちにとく去りたい、と願ってやまずにいるこの心。それでも自分から終わりにしないのは、去った同士たちが「生きて」と願ったゆえに、自分から木戸は命を止めようとは思いはしない。与えられた命は最後の最後、灯火が消えるその時まで使う。
「もうすぐだよ、晋作」
 もう一度囁いて、再び木戸は目を閉じた。
「もう少し……もう少しだから。その瞬間に手をひいておくれ」
 そして昔のように、満面の笑顔で私を見てくれるかい。
 無邪気な顔で繰り返し「桂さんが好きじゃ」といってくれるかい。
(私はいろいろな人に好き、といわれながら、最後の最後にいたって、その好きという言葉を……ただ一人の言葉しか信じられなかった)
 幼い時から繰り返し耳元で囁かれた幼馴染の「好き」しか、受け入れられなかった。
 誰に好きといわれようと大切といわれようと、胸に響いては消え、実感は浮かばない。
 好き、といってもらうほどにこの身には自信はなく、大切にされる「価値」があるのかも知れず。
 いつも胸に「何のために生きている?」と語り続けて、ここまできた。
 そこで大きく息を吸うと途端に体が重くなった。激痛が体を駆け巡り、その場に木戸は体を倒して、意識が遠のいていくことが分かる。
「……もう……」
 このまま逝ったならば、誰にも看取られずに逝ったなら……皆、私を許すのだろうか。
 意識は混沌に沈み、木戸は現の人間たちの顔を浮かばせ、微笑もうとした。
 誰も自分を見ない。示された道のみを見ている。あぁ良かった、と木戸は思ってしまった。皆、現にちゃんと根付いて歩いていっている。死した人間に構っている暇などない。だから良かった、と。これならば……心置きなく命をおわらせることができる。
 何も考えなくてすむ。
「桂さん」
 呼ぶ声が聞こえる。
「おい、桂さん。しっかりしろ。おい」
 頬を叩くその手に感触がある。耳元に「桂さん」と呼びかけるその声は、懐かしくもとめる声とは違った。
「桂さん」
 体から重みが消えていく。苦しみも去っていき、目を開ければ馴染んだ顔がそこにはあった。
「桂さん……あぁ心配したぞ。ついつい脈まで取ってしまったではないか。こんなところで倒れているなよ」
 聞多……と木戸は呼んだ。
 井上馨は「なんだ」とニカッと笑い、木戸の体を両腕で軽々と抱き上げたのだった。
「外を見たいだろうけどよ。それは体がよくなってからにしな。アンタは今はゆっくりと療養することが大事だよ。布団の中で退屈かもしれないだろうけどよ。それは明日のためだろう。この先のためだろう。だから安静にしていてくれな」
「明日? 聞多……私にはもうこの先はないのだよ」
「また、そんなことを言うと俺でも怒るぞ」
 井上がそっと布団の上に下ろし、その上に掛け布団をかけてくれた。
「アンタは良くなろうという心があるのか。みんな心配しているんだぞ。鹿児島にいる奴らなど心配で居たたまれないんだろうな。電報や手紙でアンタのことをこまめに知らせろ、と書いてくる。ちゃんと療養させて、自分たちが帰るまでには元気になるように良い医者に見せて……」
「もういいよ、聞多」
「桂さん」
 井上はいつまでも木戸を「桂」と呼び続けた。
 木戸という名を一度も使うことなく、いつまでも「桂」を追い求めるかのようにその名を使い続ける。
「気休めはいい。もう私は分かっているのだから」
「何が分かっているんだい、桂さんよ。その後に続く言葉は言うなよ。あんたが病人だと分かっていようと俺は殴るからな」
「聞多……」
「アンタは……この期に及んでまだ生きたい、と思わないのか。まだ生きていたい、と思わないのか。医者が頭を抱えていたぞ。生きようという気力がないってな。このままではよくなるものもよくならない。アンタ……アンタが死ねばどうなるか考えたことがあるのか。残されるものたちはどんな思いになるか分かっているのか」
「私は……もう私の手を……誰も必要としないのだから……」
「おい」
「皆には先がある。私には過去しかない。その違いだろうか……」
「どうしてしまったんだよ、桂さん」
「聞多。おまえもここにそう足しげくこなくていいのだから。私のことはもう放っておいてくれて……」
「あぁぁぁ! もうそれ以上は言うな。あんたの悪い癖だな。自分はこの国にもう必要ない。誰にも必要されないって思う悪い癖だ。アンタはどれだけの人間に必要とされているか知っているのか。アンタが死ねば……みんな泣くんだぞ。みんなアンタを憎むぞ。自分たちを置いて、さっさと一人あの世の同士たちのもとに逃げるアンタを恨むんだからな」
 井上は声を張り上げていることさえも気付かないのか、拳を握り締めて木戸を睨みすえた。
「いい加減、気づけよ。どれだけ皆に大切にされているか。必要にされているか。アンタは生きていないとならない。アンタを大切にしている人間たちに、ちゃんとアンタとしての答えを出さないとならない。それにアンタ長州の保護者だろう。保護者ならちゃんと保護している子供たちが、みぃんな一本立ちするまで見守ってやらないでどうするんだよ。いいか、今、アンタがどうにかなったら……許さないからな」
 井上の言葉がどこか遠くで聞こえるかのような感覚があった。
 ……桂さん。
 むしろ井上の声よりも鮮明に、現実味を持って聞こえるこの世のものではない声。
 涙が出るほどに懐かしく、もとめてやまず、手を差し伸べて……その存在に触れたい、と。
「桂さん」
 だが虚空にさし伸ばしたその手を、井上が握り締めた。
「俺たち全員、アンタを求めてやまないんだ。皆がアンタが死者ではなく自分たちを見てくれるその日を渇望している。それなのに……あんたは最後の最後まで俺たちを見ないのか。あんたを呼んでいるその声にだけ身を任すのか。俺たち全員で高杉晋作一人に適わないのかよ」
 ……罪な人だよ、桂さんは。けどな……そこが可愛いところでもある。ほら、桂さん。
 ほら、自分はいつも手を差し伸ばして桂さんを待っちょるから。
 だから寂しくないだろう、桂さん。
 当の昔に捨てた「桂」の名で呼ばれ、その名が体に刻まれ、こうして自分は桂小五郎に戻っていくのだろうか。
 捨てたはずの自分に……愛しき存在の中に戻るときに還っていくのだろうか。
「いきなよ、桂さん。まだいきなよ。まだ……まだアンタはいきないとならない」
 握り締められる手の温度よりも、この耳に突きつけられる「生きる」という言葉よりも、
 すでにこの身には「命」よりも、この手がほしいものの姿が明確に映し出されてしまっていた。
「晋作……」
 名を呼んでしまう。
「私は死んではならなかった。あの長州の汚名を返上するまでは、と。生きていなければならない。死んではならない。だけどそれはすべて目的があることで、目的も望みもなければ……」
「いきたい、とアンタはついに思えなかったんだな」
 井上は何かを諦め、何かを察したかのように木戸の手を離した。
「長州の汚名を晴らすこと、この国を富まし、この国を変革し、この国に民権を。だけど……アンタはこの国のことばかりで、自分自身の望みをついに望むことができなかったんだな」
 呟くかのようなその声は、自然と風にながされ消えていく。
「どれだけ俺が大切と叫んでもアンタの胸には届かない。アンタはいつも……自分など大切にされるはずがない、と思い込み、誰にも慈しまれない、と心に言い聞かせている。そんなアンタに大切だ、と思わせるのは……あの幼馴染じゃないとやはりダメだったのか」
「……聞多……」
「高杉じゃなくて俺たちと……アンタは生きようとはしてはくれないんだな」
「………」
「残酷な男だよ、相変わらず」
「………」
「そしてアンタが負わねばならない義務を人に押し付けて一人楽になりたいだと。そんなこと誰が許すか。あんたはよくなって廟堂で書類に埋もれ、あの大久保と長州の長として対等にやりあっていればいいんだ。その姿に誰もが安堵する。アンタがいる、ということだけで安心する。 長州の保護者の木戸孝允さんよ。アンタの役割は皆に安心を抱かせることなんだよ。わかっているのか」
「聞多は私には……昔から容赦がないね」
「俺しかアンタに説教する人間がいないからだ、皆、アンタにはあますぎる」
「世話になりました」
「これからも世話をしてやるよ。言うときは言ってやる。だから頼む。早くよくなってくれ。生きてくれ」
 生きていたい、と思ったことはない。
 生きねばならない、と義務のように言い続け、その日日からももうすぐ解放されるというのに、
 誰にも必要とされなければ……何も後に思い残すこともなく逝けるだろうに。
(どうして……)
 このときにいたって、井上は自分を楽にしてくれないのだろう。
 どうして「大切」という言葉を胸に刻もうとするのだろう。その言葉が実感を持って響くのは、幼馴染の一言だけだと知っているだろうに。
「静かに……もう静かに……。もう許して……」
「桂さんよ」
「もう私は……残されたときを静かに過ごしたい」
「アンタはそれでいいかもしれないけどよ。俺たちはそうはいかない。アンタを失いたくはない」
「聞多には私の手は必要ないでしょう」
「必要だよ」
「私の手がなくとも、どこにでも聞多なら飛んでいける。守っていける。進んでいける」
「あぁ。どこにでもいける。進める。けどよ振り向いてアンタがいないとつらいぞ。守るのならば……俺のこの手も俊輔も山県も市も……きっとアンタのその命を今いちばんに守りたいと望んでやまない」
「……」
「……これ以上いえばまた桂さんを追い詰めるからな。今日はこのへんにしておく。明日、俊輔と一緒にくるからよ。それまで……いきたいという理由でも探していな」
「聞多……そう毎日のように……」
「俺は来たいから来る。それに俺がこないとアンタを連れて行かれそうで。本当はな。ここに泊り込みたいくらいなんだ」
 ゆっくりと眠っていなよ、と頬を撫でたその手に木戸は自ら触れた。
「いつもありがとう、聞多」
「別にいいさ。俺とアンタの長い付きあいって奴だからさ」
 井上はわずかに暇があれば木戸の元に顔をだす。鹿児島の戦局やらを教え、木戸に「生きろ」とたたきつける。
 伊藤は「医者」を探すことに終始し、「きっと治るから」と笑むのだ。
 もはや必要ではない自分のために……そんなことをしなくてもいいのに、どうして……。生きていても仕方がない自分を足掻かせようとするのか。
 井上の背中が消えていく。
 明日、あの背中をもう一度見ることができるのだろうか。
「聞多……」
 気にかけてくれてありがとう。
 いつも……気にしてくれてありがとう。
 けれど私は「生きたい」理由を、どう足掻いても探せるはずがない。
 ……桂さん。
 ほら、声が聞こえる。
 ……桂さんよ。
 日に日に鮮明になっていくその声に、私は返してしまうのだ。
「もう少しだよ」
 もうこの世に私は必要がない。
 もう誰もこの手を必要とはしない。
 だから……もう静かに……心を乱さずに……逝くことを許して……。
 生きねばならない理由を……もう見たくはないから。
 木戸は目を閉じて、自分の鼓動を聞いていた。息の音を聞いていた。
(まだ私は生きている)
 灯火が消えるその時まで……静かなときを過ごせることを願い、
「晋作……」
 懐かしい呼び声に胸震えるほどに……意識は徐々に「現」を「現実」と認識しなくなり、
 黄泉という国にとらわれて離れられなくなるのだろう。
 ほら……もう少し……もう少し……。
 涙が一滴ぽたりと落ち、続いて無数の水滴が瞳から落ちて……消えていった。


必要のない

必要のない

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】この時期、井上は洋行中です。井上がいたら良かったな、と思って、明治10年の京都でもよく登場します。