継承




 明治十年、弥生。
 例年通りに京の都にも桜が咲いた。
「あなた」
 帝の京都行幸の共として睦月二十八日にこの地に足を踏み入れた木戸孝允だったが、翌日にはかねてより病の身であったものの、 それが旅で悪化したらしく身を倒した。
 如月の中旬、一触即発の鹿児島にも、ついに不平士族をおさえきれなくなった前参議・陸軍大将西郷隆盛が立った。
 そのため政府は大阪でことの事務処理を取り始め、山県陸軍卿を総指揮として鹿児島に征討の兵を出した。
(これが最期の内乱となろうか……)
 ここ京都で、行幸所の事務処理をしなければならない木戸なのだが、体は思うがままに動かず、それでも「鹿児島に」と願わずにはいられない。 「私を鹿児島に」と願った木戸を、見舞いに訪れた内務卿大久保利通は冷めた目で見据えたものだ。
『この乱ですべては終わる。この後は貴公には参議に戻られ国を治めていただかねばなりません。お早くお体を治して頂かねば。 乱が終われば……私は貴公の手となり足となり働く覚悟でおります』
 心にもないことを、無表情のまま淡々と言ってくれたものだ。
 鹿児島に行くどころが、このごろ起き上がることにも木戸には困難になってきていた。
「また桜を眺めていましたのね」
 庭に続く襖は開かれ、身を倒している木戸のもとに桜の花びらが風に乗って舞い降りる。
 東京より駆けつけた妻の松子が、少しばかり風が冷たい、と襖を閉めようとしたが、木戸は首を横に振った。
「桜を、見ていたいのだよ」
「……そうして遠い目をなされるのは松子は見たくありませぬ」
 視線をフッと避ける松子に、そっと体を起こされ、寝巻きの上衣を脱がされてしまい汗ばんだ肌を拭い始めた。
 遠い目をしているのだろうか?
 だが、木戸の目には遠い場所ではなく庭の桜の木のまわりに懐かしい姿を見出してしまっている。
 この命は、すでに先に東京で倒れたときより覚悟はついていた。
 帝の京都行幸が最期の役目というのも、どこかで知っていたような気がする。すでにこの体は限界を通り越し、ただ気力だけで生きているものといえた。
 死を恐怖と思う心など、遠き昔に消え去っている。死は安楽であり、焦がれる唯一のものであり続けた。
 あちらには多くの友がある。受け継いだ意思を、結局は最期まで通すことしか出来なかった自らを、こんな世を、と思わずにはいられなくともそれでも生きてきた自らを、迎えいれてくれるだろうか。
(けれど……自ら死にたいと思ったことはないよ)
 生きつづけることが、最期まで自分のただ一つの役割だということを知っていたから。
 どれだけ死に焦がれても、理想の崩壊のこの世を見続けようとも、命に自ら終わりを告げてはならない。
 木戸孝允が「長州の首魁」が命を断てば、それは国にも長州にも多くの仲間たちへの裏切りとなる。
「松子、今年も桜が見れたね」
 体は布団にゆっくりと倒され、また木戸は庭の桜を見つめ続ける。
「君と清水の桜をもう一度見に行きたいね。桜の下の君はほんとうに……見ていて時を忘れた」
「まぁ、私よりも皆様あなたの姿に茫然としていましたのに。私たちは年を取りましたけど、あなたはいつまでも変わらずのお姿で。松子のご自慢のだんなさま」
「……松子」
 寄り添って桜の花を見つめるときなど、明治に入って以来ほとんど許されずに来た。
 迫りくる終わりの時までの一時。木戸は「松子の夫」として此処にあることを望んでいる。
 桜の木の下に、懐かしい姿が見える。これは錯覚か、それとも自分が望むために描かれる幻覚か。
 心を癒し、この心を慰める。求めてやまない愛しい面影。
 終わりの先には、心の安穏を見出すことを許されるのだろうか。
(この激動の時代を……結果を見ずにして去ろうとする私は……許されようか)
「さぁあなた。そろそろお休みになってくださいませ。お体をいちばんに大切にしていただかないと」
 木戸の傍らで生きてきた松子には、木戸同様に「終わり」はわかっていよう。
 松子は「足掻け」とは言の葉にして望まない。
 「いきて」とその瞳に称えようとも、それは声には出さない。
(松子……)
 その声は、木戸を傷つけることをよく知っている。
 せめて内乱の終わりまでは、と望もうとも、それは適わないほどに体は蝕まれていた。


 桜の花びらはすでに風に流され、舞い散ってしまっている。残りは二分ほどであろうか。
 散るときの華々しさと残る花びらのわびしさを、ただ木戸は見ているしかない。
「お加減はどうですか? ちゃんと薬を飲んでくれていますか」
 よく伊藤博文は見舞いに来てくれた。時折ヒョイと顔を出すように井上馨も顔を出す。
 伊藤は病が治ると思い込んでいるようで、必ず「治してみせる」とその目は突きつけてくる。
 そして井上は……「生きて迎えることが役目だろうが」と責める。
 その日は二人そろって現れた。
「木戸さん、昔から薬が大嫌いで、僕はすかして宥めて飲ませるのにどれだけ苦労したことか。ちゃんと飲んで養生して元気になってくださいね」
 顔を見れば伊藤は「薬」ばかりである。
 木戸は縁側の柱に身を預けて桜を見ていたが、並んでお茶を飲みながら桜を見始めた伊藤はクドクドと説教ばかりだが、井上が桜の木を見ると呆然とし、続いて木戸の袖を握り締めたのだった。
「そんな目をするな。あいつらを焦がれる目なんかするなよ、桂さん。連れて行かれちまうぞ。そんなこと……俺はゆるさねぇ」
 井上の目には自分と同じものが写っているのだろうか。
「差し伸べられる手に手を伸ばすな。どんなに辛くても足掻けよ。あんたは……いくな。まだダメだ」
 そうして抱きしめられた井上の腕の中で、木戸はそれでも目は桜に向けられていた。
「どうしたの聞多? そんなに木戸さんを強く抱いちゃったらダメだよ」
「なにを悠長なことをいっていやがる。あの桜の周りに……いるんだよ、桂さんが望んでやまない奴らがよ」
 ゲッと伊藤の目の色は変わり、泣きそうな、哀しみと怒りを含んだ目で木戸をにらみ据えた。
「僕は……生き人よりも死者ばかりに心を預けられる貴方が大嫌いです」
 伊藤の手が憎しみを込めるように木戸の袖を握り締め、
「貴方は治ります。これからいろいろとやらねばならないことがあるのですから。今、この時期に……なんて許さない。連れて行くなど……僕はぜったいに許さない」
 桜の木下にある人たちが、寂しげな顔をして見つめてくる。
 懐かしい仲間たち……その人たちの中に入りたいと思いつつも、それはまだ時が来ていないことを木戸は知っている。
 だから見つめるばかりだった。
「私は……現を君たちを見ていないということはないよ」
「冗談を言うなよ。アンタは俺たちよりも高杉たちばっかり思いを馳せただろうか。どんなに俺たちが傍にいても、俺たちじゃ高杉に適わなかった。だがな、こんな時期にアンタを連れて行かせるわけにはいかないんだよ。手を伸ばすなよ。もしもその手を取ったら俺はあんたを一生ゆるさねぇ」
 井上は幕末の折に保守派に闇討ちをされ、その傷により生死をさまよったことがあった。
 そのとき本人曰く「三途の渡し場」までいったらしい。急死に一生を得て戻ってきたときには、人ならざるものが見えるようになっていたとのことだ。第六感が備わったと本人は苦笑をしているが、さして誰も信じてはいない。
 だが木戸は信じねばならないことを何度も体験しているので、井上が見えるのならば、この目に写る懐かしい人たちの顔は錯覚ではないのか、とようやく実感できた。
「ゆるさねぇからな、桂さん」
「聞多……少しばかり苦しい。離してくれないか」
「あいつらと逝かないと誓うなら離してやるよ」
「……聞多」
「誓うよな桂さん。俺たちはずっとあんたのことを見てきたんだ。あいつらじゃなくて俺らが一番に傍にいたんだ。いいかげん、俺たちの傍に心を置いてくれよ。ずっとそれを願ってきたんだからよ」
「も。聞多。木戸さん苦しそうだよ。もう離して差し上げてよ。ここで何かあったら聞多のせいだよ」
「って……よぅ俊輔」
「僕も聞多といっしょです。お約束していただけませんか。僕たちを置いて逝かないでください。貴方を……僕は貴方がいないととっても困るんですよ」
 すでに伊藤博文という男は、長州の首魁に立てなくとも「一番手」として打って出る力を有する。この後は長州閥というものに拘らずに、伊藤は「藩」に拘らない柔軟な政治を打って出られよう。
 新政府をつくったものがこの後に口を出すよりも、次の世代がこの国を組み立てていけばいい。
 むしろ派閥に拘るのは、陸軍を長州の独断場にするだろう山県有朋の方だと木戸は見ている。
 ようやく井上の腕の力が緩み、木戸は呼吸を整えながら、もう一度桜を見て、今此処でしておかなければならないことに思い至る。
 役目はまだ残っている。
「聞多……清水の水が飲みたい」
 木戸は未だに両腕で体を抱きしめる井上の目を見つめる。
「汲んできてくれないかい」
「エッ……清水って。木戸さん……」
 むしろ驚いたのは伊藤の方だったが、視線を重ねる井上は木戸の意思をニッと笑って汲み取ったらしい。
 ……俊輔に二人だけで話があるから。
 と、木戸は瞳に意思を込めたのだ。
「しゃあないなぁ。あんたが俺様にわがままを言うのも珍しいからよ。清水さんから水を汲んできてやるよ。それでお茶を立てれればいい味なんだろう。了解さ。俊輔よ、じゃあいってくるからよ。ちゃんと桂さんを診ていろよ」
「すまない……聞多」
「いいってことよ。長い付き合いじゃないか。あんたの頼みなら俺はなんでもたいていのことは聞くぜ」
 なんか食べ物をついでに買ってくるよ、と井上は手をひらひらと振って出て行った。
 まだ動けるうちに、意識も意思もはっきりしているときに木戸には伊藤に言わねばならない言葉がある。
「俊輔」
 かつての名を親しみを込めて呼ぶと、伊藤はニコリと笑んでくれる。
「君に一番迷惑をかけ、一番に世話になったと思っている。今まで……ありがとう。すまない……俊輔」
「いやだなぁ木戸さん。それじゃあまるで……僕はいやですよ。これからも僕は貴方のお世話をさせていただくし、僕にいっぱい迷惑をかけていただくんですから。そうじゃないと……僕は貴方の傍にいる存在価値がないし……僕に礼なんていわないでください。貴方は僕が一生をかけても返せないほどのことをしてくださったのですから」
「……俊輔……」
「だから早く元気になってください。僕に廟堂に立つ元気な木戸さんを見せてください。そのためなら僕は何でもさせていただけますから」
 こういう話はやめましょう、と伊藤は穏やかな表情で告げてくる。
「そろそろ横になってください。あっ薬を飲む前に何か食べていただかないと。聞多がいろいろともとめて来るはずだと。酒はダメだけど小さい宴会しましょう。……あっ疲れさせたらダメでしたね」
「俊輔」
 体を支えて立ち上がろうとした伊藤の袖を引き、木戸はその場に身を正して正座をして伊藤を見つめた。
「木戸さん?」
 すべての身をただし、重い体を酷使してその場に木戸は深々と首をたれた。
「頼みます、伊藤博文。この国を、政府を……長州を」
「き、木戸さん……」
「頼みます」
 床に額をつけるほどに頭を下げ、木戸はその場で伊藤に思いを託した。
「や……やめてください。僕は貴方を……貴方にそんなことをしてほしくない。僕は……」
「俊輔……」
「僕は僕の願いは……貴方自身がそれを踏みつけるんですか」
 バン、と床を叩きつけた伊藤は、凄まじい形相で木戸をにらみ据えてきた。
「頼みます、なんて貴方の口から聞きたくはない。僕は……絶対に貴方を治してみせる。また廟堂に立たせて見せる。貴方の願いを、貴方の思いを……この現で……死者ではなく僕たちを見ていただくために」
「私は俊輔……もう……いけないんだ」
「そんなこと許さない。そうやって最期にはすべて投げ出してどこかに消える。そんなあなたが僕は大嫌いだ。許さない。絶対に誰も許さない」
 そのまま伊藤は中庭に降り立ち、憤ったまま早足で立ち去ってしまった。一顧だにせずに、である。
 木戸に対していつもいたわりと敬意を忘れない伊藤としては、怒り心頭で何もかも顧みることができないほどに追い詰められたのかもしれない。
「けれど俊輔……おまえ以外の誰に頼めるというのかい」
 木戸は独り言のようにポツリと呟く。
 この後、誰が長州を率いていくかは火を見るより明らかであり、あえて後継の指名を出さなくてもすべてのものが伊藤を「一」として認めざるを得まい。
 木戸は自らの「政治家」としてのあり方に、ついに得心を得ることは適わなかった。そのために後継者を指名することはしない。
 だが、政治家としてではなく、若き日の「長州の外交官」として立ったときの自らには、一人思いを託したいと思う人はいた。
 柱に寄りかかり目をつぶり、桜が散る音を聞きながら……木戸は表情に笑みを見せる。
「怒らせたけど、ちゃんと伝えたよ。みんなが私に託したように、こうして思いは引き継がれていくから」
 だから、もういいかい?
 君たちの仲間に私もそろそろ入れてくれるかい。
『桂さん』
 誰知れず、そう自らを呼んだ人の声が耳によみがえってくる。
 心地よい響き……優しい一時。このまま目を閉じていたいと願わずにはいられない。
「オイ、桂さん。どうしたんだよ、俊輔は?」
 呼びかけに目を開けてみると、すでにその場は夕闇が包み始めた。
「こんなところで寝るなよ。心地よさそうだったけど、あんたの寝顔は心臓に悪い。あんたは誰であろうと近づいてくる気配は察して目を開ける人だからな。目を閉ざした姿なんかほとんど見たことがないよ」
 両手に重たげに手桶を持って、井上馨が傍らから顔を覗きこんでいる。
 空を見ればうっすらと月が見える時刻となっていた。
 気配は気付いていたが、だがそれに目を開けてしまいたくないほど、今は心地よい一時を味わった。
「ありがとう、清水さんのお水を」
「いいってことよ。おやすいことだ。けど俊輔は? 今日はあんたの調子がよければ宴会だと思ってよ。いろいろと買い求めてきたんだけどなぁ」
 さすがは伊藤の第一の親友。その思考はよく心得ている。
 つい苦笑を浮かばせて、木戸は夜風に体を一瞬震わせて後、井上の袖を引っ張った。
「俊輔を……怒らせてしまったよ」
「また死者に心を預けたのか。それとも……死後のことでも話したのかよ」
「も、聞多……」
 不意にヒョイと抱き上げられ、井上により寝室の布団にそっと下ろされた。
「夜風は体に毒だ。ちゃんと養生しないとダメなんだよ。自分の体を自分だけのものと思うな。あんたの体はこの国のものなんだからな」
「聞多はそうやって……いつも私を責める」
「俺が責めないで誰が責めるんだよ。昔からあんたは困った人だったけどよ。こうまで手に負えなく困った男ではなかった。逆に散々に俺はあんたに迷惑をかけたからなぁ。高杉とあんたを取り合ったこともあったさ、小さいころ。知っていると思うけどよ、俺はあんたが放っておけないんだよ」
「聞多は私のことをよく理解していると思っているよ」
「あぁ。俊輔の夢も俺の責めもあんたを傷つけているってことはよくな。長州の桂小五郎の昔を見られるのがあんたの一番の痛みだってこともよ。けどな今のあんたがあるのも昔の桂小五郎があるからだろう。長州の人間は今のあんただけとることなんてできねぇ。俺たちにはどちらも一人で大事なあんただからさ」
 そっと布団がかけられ、その冷たさに一瞬木戸は身震いがした。
「それで俊輔になんていったんだよ」
 井上はもとめてきた水を茶碗に尺でわずかにいれ、渡してくれた。
「頼みます……と」
「あちゃあぁぁぁ。あんた、それは残酷だろうが。俊輔はあんたの傍にいたいんだ。あんたを生かしたいんだ。その人間に頼みますかよ」
「ほかに誰に頼めるんだい。俊輔にしか私は頼めなかったから……聞多にお願いがある」
「俊輔に頼みで俺には願いかよ。なんだよ、俺にできないことは言うなよ」
「すまないね……聞多」
 半起きほどに体を起こし、井上を見据えながら木戸は言葉を綴った。
「ひとつはこの後の俊輔と山県を頼みます。私が消えたら、あの二人は……もう……」
「だからよ桂さん。消えるとか頼むってのはやめろよ。それに俊輔の守は俺の役割だろうが、山県まで見ていられるか。あの二人が長州の覇権で争おうとも俺は黙って見ている」
「聞多がいるなら……」
「あの二人が今、表たって対立しないのはな。あんたがいるからだよ。絶対的な長州の首魁がな。ついでにあの二人は同等にあんたが好きだ。だから持ってきたんだ。だからあの二人は……表面上は……あんたがいなくなったら長州閥は分裂さ」
 木戸はあえて手を伸ばし、井上の袖を握り締めた。
「あの二人の仲を取り持ってほしい。それができるのはもう聞多しかいないから……。私は……もういけない。こればかりはどうにもならない。こんなことを頼めるのは聞多しかいないのだから」
「勝手だな」
「……聞多」
「あんた勝手だよ。人に押し付けてそうやって……。あんたが長州の首魁だろう。あんたが……保護者だろう。その役割を人に押し付けるなよ。俺は山県と俊輔がどうなろうと構いはしない。すべてあんたの責任だからな」
 その袖を掴んだ手を振り払って、井上は醒めた目を見せたかと思うと、ニッと笑った。
「だから体を治して元気になりな。ほら、廟堂に立てるくらいにさっさとなれよ。あんたの元気な姿がみたいんだよ」
 背を支えるようにまわされる腕。もたれるようにその胸の中に身を預けると、井上は少しだけ優しく笑った。
 もはや一番に長い付き合いになっている井上馨という男を、木戸は信頼にかけては誰よりも「信ずるにたる男」だと思っている。
「もう一つのお願いを聞いてくれるかい」
「なんだい? 今日のあんたは少しわがままだな? まぁいいけど。俺に聞ける話だろうな」
「私が今から口にすることを、いずれ伝えてほしい人がいる」
 書面にして残すつもりはない。もうこの口からは伝えることはできまい相手に託す言の葉ひとつ。
「誰にだよ、なんだ。たいそうなことか」
「私の外交官としての意志を継いでほしい、と。青木周蔵に」
「オイっ」
 井上はまじまじと呆れた顔をする。
「待てよ、あんた、俊輔どうするんだよ。あんたの後継者はあんたがなにを言わなくとも俊輔だろうが」
「私は自らの政治家として立った私を……ついには認められずにいる。木戸孝允という男が辿った理想と相反する政治との葛藤は……もう終わりだから。後継者は指名はしない」
「わかっているよ。けどよ、事実上俊輔だろう」
「そうだね……」
 それは紛れもない事実だったが、木戸が今まで「後継」を口にすることは一度もなかった。
 政治家としての自分は「木戸孝允」という男で終わりがいい。継ぐものはいない方がいいと思っている。ましてや伊藤は後継ではなく同志だ。
「俊輔は俊輔の道をいってほしいから。ただ私の……桂小五郎の意志は青木周蔵に継いでほしいと思っている」
「よせよ。やめろよ。そんなこと言ったら俊輔は青木を憎むぜ。あんたに後継として指名されるなんて。俺は言わないからな。誰が言えるかよ。青木なんか認められもしない」
「聞多」
「後継なんていい。あんたが長生きすればいいんだからよ。俺は……今の言葉聞かなかったことにする」
 井上馨という男は「いやだ」と言っても、最終的には自分が言動に出せる範囲で「頼み」を叶えてくれる男である。
「いつでもいいよ」
 その性格を長い付き合いの木戸はよくよく知っていた。
「たからさ……」
「私は聞多にしか口にしなかったからね。そのことだけは忘れないでほしい」
「あぁぁぁぁぁ! だからよ」
「私は聞多を信頼しているよ」
「あんた……性格悪くなったんじゃないか。俺はあんたの今の言葉は聞かなかったんだから何も知らないんだよ」
 木戸はクスクスと笑いながら、身を布団の中に倒していった。
「なにも聞いていないからな……桂さんよ。俺は何も知らない。おぅぅ……俊輔が消沈して戻ってきたようだ」
 さすがは長年の親友。伊藤の気配には井上は誰よりも過敏だったりする。木戸も気付いていたが、あえて反応を返さなかった。
「おかえり俊輔。おい、おまえなんだぁ。その酒瓶は」
 部屋に案内もなく入ってきた伊藤は、酒を数本も抱えていた。
「飲んでやる。やけ酒だよ」
「おいって。そんなの桂さんに見せるな。酒好きなのに飲ましちゃなんないんだぞ」
「やけ酒なの。木戸さんは飲んじゃダメです。僕と聞多で酒は飲むんだから」
「俊輔。おいって」
「僕、怒っているんですからね。今でも本当は木戸さんを殴りつけたいくらい怒っているんだから。でもそれはできないから酒でごまかします。ほら、杯を持ってきてよ聞多。木戸さんはあまい果実で栄養をとってくださいね」
「……俊輔」
 こうなった伊藤はとめられない。酒瓶ごと飲みほそうとするので慌てて井上は止め、電光石火の速さで杯を調達してきた。
「桂さんよ。あんたの責任だからな。酒、飲ませられなくて悪いけど見ていろよ」
「久々ににぎやかで私は楽しいよ」
「ってあんたなぁ……」
 木戸は起き上がり伊藤に酌をすると、うわぁぁん、と泣き上戸の伊藤はすでに酔いがまわっているらしく、木戸の袖に縋って泣きながら説教を始めてしまった。
 昔はよく三人で飲んだ。
 このごろは集まっても長州閥のかなりの人数になるので、三人で話すなど久方ぶりのことといえる。
(頼むよ俊輔、この国を、政を。頼んだよ、聞多。俊輔を支えて長州閥を平穏に)
 そしていつの日か、
 最期に託した思いを伝えてほしい。
 木戸はゆっくりと散りゆく桜に視線を移し、優しくはかなく微笑んだ。
(これで終わったよ……)
 もう……役目はどれだけ責められようと木戸の中ではなかった。あとは桜の木の下に佇む人たちに受け入れられるときを……ただ、待つ。
 木戸が京都の別邸にて眠るように息を引き取ったのは、この日より一月あまり後。
 葉桜が美しく咲き誇る……明治十年皐月の下旬のことだった。


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継承 -1

継承

  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】* 明治10年、井上馨は洋行中ですが、話の筋として国内に滞在していることにしています。