前編
冬の到来を告げるかのような、寒さを含んだ風がこの二階の部屋にも入ってくる。
一人自室の隅で本を読んでいた小五郎は立ち上がり、戸を開けた。
晴れた日には遠くにお城が見えるこの部屋を、小五郎は気に入っている。あいにくと今日は曇り空で城は霞んでしか見えなかったが、それでも立ち止ってジッと遠くを見ていた。
萩の冬は曇り空ばかり。どんよりと重く暗い雲に覆われ、内地ということもあり雪も大量に降ることがある。
家の庭に咲く椿は、その雪の白さをもっていっそう赤く輝くさまが、小五郎には不吉に見えて怖いと思う心すらあった。
ぼんやりと雲を追い、霞む城を見つめ、その視線は、ふとなにかに引きずられるように下の庭を見つめたとき、
……にゃあ、にゃあ。
一匹の子猫と確かに目があったと思った。
こんな寒風の中で、小さな小さな子猫がにゃあにゃあ、と小五郎に向けて鳴く。
たまらずに階段を駆け下りたとき、その足はピタリと止まった。数ヶ月前にも同じことがあったことを思い出したのだ。
小五郎は猫好きである。猫と見るとついつい抱き上げて頬ずりしたくなるほどで、それは猫も分かるらしく、よく猫たちも小五郎に懐いた。
半年ほど前。梅雨の只中で、庭の紫陽花の花がしんみりと咲く頃のことだ。
その日、庭に迷い込んだ子猫を偶然見つけ、あまりにも可愛く、ギュッと抱きしめた小五郎は一大決心をした。
昨年の暮れに隣家の桂家に末期養子として入り、今は「桂家」の名跡を継いでいる小五郎である。末期の養子のため父となった人はすぐに病死し、養母となった人も翌年の初めに死した。そのため桂小五郎という名のままに、小五郎は実家の和田家で養育されているが、桂家の法要などには当主として出席しとり行う。こうした幼少時からの「大人」の中でもまれたことが、後に老成させた気質と面倒見の良さを作り上げたが、それは小五郎が望んで得たものではなかった。
今も、小五郎は桂家の当主として表に出ることが好きではない。
(桂家も……この和田家にも自分は……)
居場所という言葉を得られていないことだけは、幼いながらもよく知っていた。
病んでる異母姉捨子は精神の歪みから、時折狂ったような小五郎に手をあげ、「呪われた子」と叫び、壮絶な笑みを見せる。
普段の姉はたおやかで優しい人だった。「小五郎さん」と呼ぶ声が大好きで、微笑んでくれる姿が嬉しくて。
だが一度精神がきしんだときは、姉は小五郎の無防備な心を情け容赦なく抉る。
この頃では、できるだけ姉の前に姿を現さぬように、部屋の隅で本を読んだり、外を眺めて小五郎は日日を過ごすようになっていた。
物音も立てず、此処にあるというのに、まるでなきもののように息を潜めて在ることが、どうして「居」といえるだろう。
今、胸元にあたたかな子猫のぬくもりを得て、あたたかいと思った。抱きしめ、小五郎は母屋の方に向かった。
『母上さま、義兄上さま、お願いがございます』
決死の思いで、居間で茶を飲んでいる義兄と、繕い物をしている母に声をかけた。
母清子の膝にはにこにこと笑っている妹のハルの姿がある。
『まぁ小五郎さんがお願いだなんて。なんですか』
普段、九歳の子どもとは思えぬほどに父母ともに甘えることをせず、一家からも自然と遠のいている小五郎を清子は不憫でならなかった。
そっと抱きとめようとも、この手より逃げていく我が子を、どう受け止めればよいのか。どのように愛情を表現すればよいのか。
十年ほど前、少女の年で父親よりも年上の和田昌景の後妻として入り、すぐに嫡子を産んだことが清子にとっての苦しみとなった。
和田家では清子よりも年上の長女捨子に、すでに婿文譲を迎えており、子どももいた。
今更嫡子が生まれたことに捨子も文譲も跡目を気にし、気が気でならず、そのため継母となった清子は相当辛い思いをしたらしい。
小五郎が「桂家」を継いだ今でも、和田家にはしっくりとこない「陰気」が漂っている。
『猫さんを飼いたいのです。小五郎が面倒を見ます』
まぁ、と母は微笑んで声をあげたが、瞬時に立ち上がった長身の文譲が小五郎の目の前に進み、
『厄介者の分際で馬鹿げたことをいうな』
張り上げた声とともに、振り落とされた拳は、視界に入ったと意識した時には小五郎は壁に打ち付けられていた。
『小五郎さん!』
清子が駆け寄ってくるが、小五郎の目はどこまでも無感情に自分の顔を見る兄の視線だけを受けとめている。
ツーッと口の中が切れたらしく血が口はしより垂れ、口の中でもじわりと広がる錆臭い味。あぁこれが血の味か、とはきとはしない意識の中で思った。
『ネコの毛など体の中に入ってみろ。体の弱いおまえはすぐに倒れる』
義兄は冷たく言い放ち、小五郎の目の中から消えた。
母が懐紙で口元をふき、両腕で小五郎の体を抱きとめる。
『ごめんなさいね。ごめんなさい』
そうして謝る母を何度見ただろう。その言葉を聞くたびに小五郎はさらに居たたまれなさを胸に抱くのだ。
母が謝ることではない。母が泣くことではない。自分という存在が母を苦しめていることこそ、申し訳なくて苦しい。
小五郎は猫を抱きしめて庭に出る。
下男の友蔵が「ぼっちゃん」と柔和な声をかけてくれたので、振り向いて小五郎ははじめて涙をポタポタと流した。
『ぼっちゃん』
友蔵は小五郎が生まれるずっと前から和田家に仕えている。祖父がいない小五郎には友蔵は祖父同様であり、和田家の敷地内の小さな家屋に住んでいる友蔵の傍にいるときだけはホッとできた。
『坊ちゃん、この頬は』
『友蔵、猫さん』
小五郎はヒリヒリする頬はとりあえずはどうでも良かった。
殴られたときは「痛い」と思ったが、今は腕の中にある子猫の方が気になってならなかったのだ。
『義兄上が飼ってはいけないというから……でも……』
友蔵は子猫を見つめてから、小五郎のポロポロと落とす涙をぬぐう。
『坊ちゃん。猫さん、友蔵が飼い主を見つけますから』
『……うん』
ギュッと抱きしめても、この子猫は飼ってはならないことは小五郎にはよく分かった。
『その頬、冷やさないと夜になるともっと痛くなってしまいますよ』
手を繋いで、友蔵は自分の家に小五郎を連れて行く。
妻に先立たれ、子どももすでに自立している友蔵は此処で一人暮らしだった。
和田家にあっても一人な小五郎は、よくこの家に忍び込んで、友蔵にギュッと抱きついて離れなかった。
桂家に養子に行こうとも、養母は小五郎に何一つ興味を示さず、不憫がって友蔵がよく食べ物とか届けてくれたものである。
小五郎は友蔵が大好きで、友蔵と二人になると我慢している感情が押し寄せてきて、よく泣いたものだ。
『坊ちゃん。泣きなさい。いつも我慢している分だけ泣いて、泣いて。坊ちゃんは優しい子だから、みんな許してあげましょう』
許す、という言葉を友蔵はいつも繰り返したが、小五郎はその言葉は逆だ、と思った。
呪われた、生まれてきてはならなかった自分こそ、許して欲しい。
あの日から、どんなに可愛くても、小五郎は猫にふれてはならない、と自分に戒めてきた。
義兄が自分を殴ったのは、体が弱い自分のことを気遣ってくれたためだ、と自己暗示に似た言い聞かせを続けている。
そのため今、庭に飛び出していこうとした足を必死の思いで止めたのだ。自分は……行ってはならない。
きっと誰も構わなければ、子猫も温かい居場所をもとめて、どこかに旅立つだろう。
小五郎は唇を噛んで階段を上り、部屋に戻った。
猫の鳴き声を聞くのが辛くて、臥所を閉め、部屋の隅に膝を抱えて……空気のように存在感を消した。
子猫は朝になると和田家の庭に現れる。寒風吹く中、毎日にゃあという声をあげた。
猫が嫌いらしい義兄が追い払おうとも、何度も何度も訪ねてくる。
小五郎は義兄の気配を気にしながら臥所を開け、子猫の姿を見ていた。
寒いだろう。温かなご飯は食べているかい。できるなら今すぐ飛び出して、猫をこの腕に抱きたいと思うのに、
半年前に見た冷めた義兄の目に恐怖を抱き、打たれた頬の痛みが小五郎を躊躇わせる。
だが何もしていないということはできず、友蔵に半年前と同じく子猫の飼い主を探してくれるようにと頼んだ。
それから数日後、子猫は首に鈴をつけられて、近所の子どもにもらわれていった。
一度も抱くこともできなかった子猫を、小五郎はその日も二階から見ていた。
(可愛がってもらってね)
この冬空の下で一人鳴いているのは、あまりにも辛いから。
温かな家族の中で、いっぱいいっぱい可愛がってもらって。
今は誰も傍にいない。見てもいない。
小五郎は声を必死に食いしばりながらも、泣いた。
だが翌日、庭先から猫の声が聞こえて、小五郎は慌てて戸を開けた。
まるで小五郎が出てくるのを知っているように、にゃあと見上げて鳴く子猫に、今度は昨日とは違う涙が流れる。
椿の花の横で鳴く子猫を、小五郎はジッと見ていた。
毎日毎日訪ねてくる子猫が嬉しく、声もかけられず、抱きとめることもできないのに、
小五郎は微笑んで猫と視線を交える。
雪が降る日も、猫は訪ねてきた。
風が強い日も、猫は遊びに来る。
友蔵の話しでは、もらわれていった家をすぐに飛び出し、野良猫に戻ってしまったようだ。
義兄には見つからぬように友蔵が煮干などを子猫に食べさせてくれているらしく、食べ物には困っていないことがわかってホッとした。
「坊ちゃん。子猫はきっと気まぐれな彷徨い猫なのでしょうね。風来坊のようですよ」
そして萩に、本格的な白い季節が訪れたとき、
子猫は庭先でいつもより小さな声で鳴く。
小五郎はすぐに異変に気付いた。
自分を見上げる子猫の目に生気がないのも見て取れた。
たまらずに庭に駆け下り、雪の中で小さく鳴く子猫を抱きとめる。
「坊ちゃん」
友蔵が寝巻きのままの小五郎を見て驚き、すぐに自分の上着を背中に被せてくれた。
「友蔵、猫さんが、猫さんが」
「……弱っていますかね。大丈夫ですよ。友蔵のところで温めて寝かせますから」
「こんなに弱って、泣き声も小さくて」
腕の中で震える子猫を、小五郎はたまらずにギュッと抱きしめた。
「ごめんね。いつも訪ねてくれたのに、見ているだけで。寒かったね」
「坊ちゃん」
涙がにじんで目の前が掠れていく。猫は目を開け、まるで大丈夫というかのようにぺロリと小五郎の手を舐めた。
くすぐったいと僅かに気が緩んだその時だ。
「小五郎、なにをしている」
居間より庭先に降り立った義兄は、小五郎の腕の中の猫を目にしあからさまに顔色を変えた。
「またおまえは。猫など」
義兄のおもむろに振り上げられた手が目に入り、また殴られる、と小五郎は目をギュッと閉じる。
「……だんなさま。坊ちゃんは猫がお好きなのです。そう頭ごなしにおしかりにならずに」
つかさず間に友蔵が入った。
「友蔵。おまえが小五郎を甘やかすゆえに、このように物分りが悪い甘ったれた子どもとなるのだ」
「坊ちゃんはお優しいお子です。そのお優しさをどうしてのびのびと伸ばして差し上げられないのですか」
「だまれ」
義兄の一言にビクリと肩が浮き、恐る恐る目を開けたが、小五郎は視線を伏せて「ごめんなさい」とだけいった。
「分かればいい。さっさとその猫など放り出せ」
「義兄上。猫さんは弱っていて」
「そのようなことを知るか。ここは医者の家だ。そのようなところに獣があるなど許されぬこと。……医者の息子がそのようなことも知らぬか。良い。その猫がそのように可愛いなら、猫と一緒に出て行け」
草履に雪の冷たさが滲み、足袋を履いていない小五郎の小さな足は震え始めている。
寝巻き姿で、友蔵が綿の上衣をかけてくれたが、体は冷え切っていた。
腕の中の猫は命の灯火を教えるように温かく、だが鼓動の音が徐々に小さくなってきているのが小五郎には分かった。
(猫さん……猫さん)
腕の中の子猫の小さな命は、この雪の中に落とされるだけで消えていくような、そんなはかないものに映る。
重たい雪が、ゆっくりと降る。
小五郎の体温も、子猫のぬくもりを奪うかのように、降る。
身の温度を全て奪い去るかのような冷たさから、せめて子猫だけは守ろうと両腕で小五郎は必死に守った。
「おまえに行く場所などこの家の他にあるはずがない。さっさとそのネコを放り出して、家の中にあがれ。厄介者に風邪など引かれたら、さらに厄介だ」
「だんなさま。坊ちゃんにあまりなおっしゃりようで」
「友蔵は黙っておれ」
剣呑な空気は、純白な雪の白の中ではそぐわない刃に等しい。
この場の空気が、心の痛みが、今弱っている子猫をさらに弱らせるような気がして、居たたまれない思いが小五郎の小さな体を動かす。
「……坊ちゃん」
ゆっくりと庭戸を引き、小五郎は子猫を抱いたまま家を出た。
「待ってください、坊ちゃん」
「放っておけ。この寒さだ。すぐに根を上げて戻ってくる。……追ってはならぬぞ。少しは物分りのよい子どもになってもらわねば、どこまでも厄介だ」
猫さん、と小五郎は何度も語りかけた。
ごめんね、温かな家の中に置いてあげられなくて。
せめてこの腕の中で温まって。少しでも寒くないように自分が抱きとめているから。
ごめんね……厄介者の自分で。ごめんね……あの家に自分は居場所がないから……猫さん一匹快方してあげられなくて。
ごめんなさい……。
小五郎は歩きながら、いつのまにか誰に謝っているのかも分からない気持ちに苛まれていた。
「……カツラしゃん、カツラしゃん」
その時に声がかかったのだ。
近所の神社の敷地内で、どうやら雪だるまを作っているらしい高杉晋作が、一目散に駆けてきた。
晋作は当年三歳。生まれたときから小五郎は晋作を知っており、晋作も物心つく前より小五郎に懐いていた。
「今、おっきな雪だるまを自分がつくっていたの。おおっきいの。かつらしゃんに見せたくて」
目の前に立ち、大きく両腕を広げて、ポテッと足下に抱きついてきた晋作は、小五郎の手の中にある猫の存在に気付いて「あわぁっ」と奇声を発し、小五郎の左側に移動する。
「猫……自分、猫はだめ」
小五郎は子猫の頭をなぜ、さらに猫が弱ってきたことに気付き、唇を強く強く噛み締める。
「かつら……しゃん?」
「晋作……私はいかないとならないところがあるから、今日はこれでお別れだよ」
ごめんね、と頭を撫ぜると、なぜか晋作は小五郎の袖を引っ張り、
「カツラしゃんちゅめたい。ちゅめたいよ。家、いこう? あたたまるの」
強引に引っ張られ、小五郎を一心に見つめる幼い大きな目に、ドクリと胸が跳ねた。
腕の中の子猫のことも気がかりである。
小五郎は晋作に引っ張られるままに、弱弱しい足取りで高杉家に門を潜ることにした。
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