人形になった参議

1章

 その日、幕末の京都以来の友人で主治医の如し存在である林東吾の診療所を木戸孝允は訪れていた。
「なにを作っているのですか、東吾さん」
 東吾は本業は何なのか、未だに分からない男である。
 語学をやらせれば数日で一ヶ国語は覚え、外交官よりも流麗な発音をし、楽器を奏でさせればその音色も技巧もすばらしく、宮中の楽師にと声がかかったほどだ。勉学にしろ医学にしろ一度見ただけですべて覚えるというなんとも羨ましい頭脳を持つというのに、東吾は持って生まれた頭脳を世間のために使うのは好まない。
 この端麗な美貌の青年は、人のために頭脳を使うのではなく、自らの好奇心のために使うのである。
 だが今の肩書きは一応は医者のようだ。こうして診療所も開き、毎日患者が並んでいる。
「飴ですよ」
 されど東吾という男は、まじめに診察をする男ではない。
 よほどの緊急を要する患者が来ない限り、自らの気が向かなければ診療をしようとはしないのだ。
 名医として名高く、その美貌からも診察を願う患者は並んでいるというのに……一日診察をせずに科学の実験などもしている。これで患者が逃げずにいるのが不思議だ、と木戸は毎回思うのだった。
「診察をしなくていいのですか」
「木戸さん。なに、どうせ私の顔目当ての患者が多数というもの。それらに付き合うほど私も暇ではありませんよ」
 飴など作っているほど暇なようだが、東吾が今の台詞をサラリというと実に忙しそうに聞こえてしまう。
「それにこの飴はなかなかに難しいんですよ。三百年ほど前に作ったときは……結局は失敗に終わりましたから」
「はい?」
 今、三百年前という言葉が聞こえたが、木戸は無意識に幻聴だろう、と決め付ける。
「美味しいですよ。甘くてそこらで売っている飴などと比較もできないほどのものだ。……さてさて実験台は……」
「私がいただきますよ」
 木戸がニコリと笑うと東吾は微かに首を横に振った。
「天下の参議を万が一の場合にはさせられないですよ」
「大げさですよ、東吾さんらしくない。飴でしょう、これは」
 木戸は出来上がった七色の虹の色を持つきれいな飴に見惚れた。
「確かに飴ですけど……」
「なら大丈夫ですよ。なにやら舐めてしまうのが惜しいほどのきれいですが、ひとつ……」
「あっ……木戸さん! それは……まぁなるようにしかなりませんね、これは。どうなろうと楽しんでください」
 苦笑する東吾を横目で見つつ、口に入れた瞬間……確かに今まで口にしたどんな飴よりも淡くとろけそうな感じで、木戸はおおいに気に入りニコリと笑ったそのとき、東吾は世にも恐ろしい宣告をくだした。
「それは身体が小さくなる飴なんですよ」
 それはなんの冗談、と言おうとしたそのときには、視界は揺らぎ始めた。
「エッ」
「遠い昔から密かに改良を続けてようやく出来上がったんです。三百年前に信長殿を実験台にしてひどい目にあわせたので、完璧に改良はしてありますが。あのときのように小さくなるにつれ記憶も若返っていくということはないはずですかね」
「は、はい?」
 視界がみるみるゆがみ、不思議な感覚で今まで視界にあったものがみるみる大きくなっていき……。
「東吾さん……」
 瞳に映る東吾の漆黒の瞳は、冷たく笑んでいる。
 すると目の前が急激にゆれ、意識が遠のいていく感触が到来した。
「きちんと説明は受けてから食べ物は口にした方がよろしいようですね、木戸さん。まぁこんな体験は人間は一度たりともできないかもしれないので、貴方が経験しておくのもよいかもしれませんよ」
 東吾の声が耳に、より大きく聞こえたかと思えば、
 木戸は自らの手を見、そして見上げる同等の背丈であった東吾が巨人のように大きく目に映ったのだ。
「東吾さん、巨人ですよ。どうしたのですか」
 驚愕の声をあげれば、東吾はヒョイと屈みそっと木戸の身体を右手で掴み……左手にちょいと乗せた。
「貴方が小人になった。ただそれだけのことですよ、木戸さん」
 冷酷な表情がフッと穏やかに笑い、人差し指でそっと木戸の頭を撫でた。
「四寸ほどの背丈というものも楽しいものですよ。ついでにこれから元に戻る飴を作るのでしばらくはその姿を楽しんでください」
「困ります。あっペンはもてるでしょうか。私には決裁しなくてはならない書類が……そういえば今日までのが一枚。東吾さん廟堂に至急戻りたいのですが」
「その姿で行かれるのですか。それも一興というもの。楽しいですね」
 背丈が四寸ほどという実感は無いものの、木戸の頭に最初に浮かんだのはやはり「仕事」のことだった。
「これが羽ペンです。持って見ますか」
 机の上に乗せられ、渡された羽ペンを木戸は両腕で支えようとも重くて体が倒れそうになるので、身体全体で支えるとようやく立っていられた。
 紙の上に必死に文字を書こうとするが、棒線を引くだけで五分は要した。
「疲れたでしょう」
 東吾は微苦笑をしている。
「……仕事が……仕事が……」
「貴方は相変わらず仕事の鬼ですね。仕事などできるときについでに気が向けばやればいい。人生楽しむのが一番ですよ」
   今日中に出さねばならない書類が頭をかすめ、続いてどうやら自分が書類に決裁のサインをするのが困難だという現実を受け止める。
 とにかく廟堂に行かねば、と木戸はまずは思った。
「東吾さん……すみませんが、廟堂までお連れいただけますか」
「貴方は本当に……木戸さんらしいですがね。では参りましょうか」
 東吾はすぐさま診療所に「休館」と札を出し、背広をヒョイと羽織った。
「右腕に抱えさせてもらいます。それとも手に乗っていますか」
「手乗り人形のようですね」
「それも貴方ならなかなかに一興というものですよ」
「目立つのは避けたいので……」
「では抱えていきましょうか」
 そっと抱かれるように東吾の胸元に抱かれ、木戸は瞬きを何度も繰り返した。
 今まで不可思議なことを何度も経験したが、まさか身が小さくなろうとは不可思議を超えている。
 記憶が子供時代まで戻ったり、人間ならざるものに取り付かれたり……妖怪類のお知り合いを持ったこともある身だが、まさか自分が四寸ほどの人形も同然の身となったなど、そう簡単にはすべて受け入れられそうもない。
 だが他の人間に比べれば不思議や重大事に慣れすぎて神経が麻痺しているため、それほどの驚きも受けずに平然としていられる。
「人形のようになっても貴方は可愛いですよ、木戸さん」
 そんな東吾の声が聞こえないほど、木戸は「仕事」のことで頭がいっぱいだったりした。


 東吾は「政治家」に代表される「権力者」は好きではない。
 できれば近寄りたくも無く、係わり合いにもなりたくはない、と思っていたが、幕末の京都で出会った木戸孝允という男は東吾という人間の「好奇心」を擽るのには十分な素質を有していた。
 まったく飽きはしない人間だ、木戸という人は。
 そしてこの男のためになるならば、少しは協力しようという心にさせてくれる。
(そうでないとこの俺が……廟堂になど足を向けることはなかろう)
 フッと冷たく笑い、東吾は四寸の人形の如し存在になったミニ木戸を抱えて廟堂に入った。
 木戸孝允の使いと口にし、身分証明などに時間は費やされたが、それでもすんなりと中に入れてくれたのは驚きだった。
「どこに行けばいいのですか」
「はい、そこの角を左に曲がって真っ直ぐ行くと木戸孝允室と書いてありますので……」
「そんな必要はないようですよ、木戸さん」
 東吾は奥より暗闇を背負って歩いてくる人間に目をむけ、ニヤリと笑っておいた。
「案内人が自ら現れてくれたようです」
 今日も黒い背広を一部の隙も無く着込んだ暗闇を背負っているかのように重い風情の男は、冷徹な顔のまま東吾の前に姿を現した。
「陸軍卿」
 と、声をかけるとその人物は東吾の前に立ち相変わらず永久凍土を思わせる冷たき表情を見せた。
 陸軍卿山県有朋である。
 腕の中の木戸はピクリとも動かず、まるで静観しているような構えだ。やはり非現実など全く信じようとはしない山県の前で、自らが人形のように四寸ほどに縮んでしまった、という事実を説明することは難しいと思ったのか。
 だが目敏く山県の目は木戸に向き、無意識なのか吐息をこぼした。
「貴兄という人は……」
 と、東吾よりそっと木戸の身体を左手で持ち上げ、右手にヒョイと乗せた。
「貴兄は非科学的なことの申し子のようだ」
 ハッとした木戸は大きく瞬きをし、そして小さな声で「分かるのかい」と尋ねる。
「分からぬはずがなかろう。……医者殿、木戸さんは私が預かる。早急に元に戻す薬を考案されよ」
「はなから私が要因と思われるのも面白からずなのだが」
「医者殿の他に、いったい何者がこのような不可思議な現象を生み出せようか」
「確かに」
 東吾は楽しげに笑って見せた。
「よい薬だな。陸軍に提供してみないか」
「それを敵国にばら撒いて進軍を楽にするか。それとも陸軍の意に沿わぬものに使う凶器にするか」
 山県有朋は多少無表情を冷たくし、東吾を見据えてくる。
「私はこの国の権力者には木戸さん以外は関らないと決めていてね。特に陸軍卿はまさに権力の亡者ゆえに」
 声を立てて笑っておいたが、東吾はこの山県は「陸軍」のためならばそういうことは眉ひとつ動かさずにすると思っていたりする。
 そういう男は嫌いではない。
(凶器というのは……どの時代でも惨いものだな)
 この国に初めて鉄砲が伝わったとき、兵器はまさに凶器に変わった。
 徳川幕府のもとに二百数十年封印されていた凶器は、恐ろしき力を伴って時代の転換期に加わった。
(織田信長の如し男が現れ……凶器を自由自在に使う力があったならば……この国はどうなろうな)
 まぁ織田信長は始めより鉄砲は【凶器】としか見ていなかった。
 同時になんとも楽しい「遊び道具」の如し目をして見ていたものか。
 山県の手に乗っている木戸は、落ちないように屈んで山県の端正な中指にしがみついている。
 そのさまが「手乗り人形」という感じでなんとも愛らしく、つい微笑んでしまいそうになる。
「できるだけ早く作ることにしよう。貴重な経験になるようなのでその姿で楽しんでおいてください。世の中は遊びですよ、木戸さん」
 さっさとこんな廟堂など後にしよう、と東吾は身を翻した。
「東吾さん」
 木戸の今は人形サイズになっているために、なんともかほそい声音を東吾の耳はとらえた。
「それでも遊べないのが貴方でしょうがね。ほどほどに仕事をなさいな。決裁のサインをするだけでも非常に大変そうですけどね」
 まぁそこは木戸の姿を考えることもなく……非現実的現象だというのに気付いた山県がなんとかするだろう。
 東吾は軽く手を挙げて、その場からゆっくりと離れていった。
 頭の中では「元に戻す飴」の科学的方式がめまぐるしくまわっている。
「人形になった参議。それはそれで一興」
 その小さな声音は、ただ声の主の耳にだけ流れ……すぐに消えていった。


「山県」
 と、木戸はいつもの何十倍の大きさに見える山県の暗闇の瞳を見つめた。
「その非現実的な姿を人に見せることはよした方がいい。……とりあえずは」
 そっと山県は木戸の身体を片手で持ち上げ、自らの背広の胸ポケットに入れた。
「山県!」
 ちょうど木戸は顔だけはポケットから出る。両手も出してみると、以外と広く感じる胸ポケットである。
「そこに入っていていただく。ちょうどよい。これならば……逃げられまい」
「なっ……」
「そんな姿で廟堂をうろつかれては危険だ。だれぞに踏み潰されかねない。貴兄はここに入っているといい」
「私は仕事を……」
「そのようなもの、伊藤にでもさせよう。我が身の安全を一番に考えられるといい」
 不本意だ、と叫ぼうとして、先ほどから自分が精一杯の大声を出していることもあり声が枯れて発声できないことに気付く。
 喉が痛い。ガラガラにもなっている。
 少しだけ寂しくなって下を向くと、山県の中指が木戸の頭を撫ぜてくる。
 山県と視線を重ね、木戸は柔らかく笑んだ。
「……私の不注意だから……仕方ないね。……迷惑をかける」
 山県の胸ポケットはほんのりと温かく、少しだけ冷めた身体も寂しき心も温めてくれた。
「あまり私に心配はかけないでいただきたいものだ」
 歩き出した山県は、できるだけ振動をかけないようにしているのが分かった。
 この男は徹頭徹尾無表情で喜怒哀楽など喪失している冷酷な男などと言われているが、時折自然に優しさを見せる。
「……私は少しだけ疲れた」
 木戸はそのまま目を閉じてみた。
「少しだけ寝ている」
「その方が危険ではなく、私としては安心だ」
 胸ポケットは眠るのには適した温かさで、人形の如し背の小ささに順応してしまったのか、まったく窮屈もなくポケットの中を木戸は棲家にできそうだ。
 山県の心臓の音が聞こえてくる。
 少しだけ安心して、木戸は眠りに身を任せることにした。


「人形か……」
 山県は胸ポケットにおさまったミニ化している木戸の姿を凝視する。
「貴兄は……なにゆえに不可思議なことばかりを引き寄せるのか」
 まして好奇心の虫である木戸だ。このままおとなしく山県の胸ポケットにおさまっているとはどうも考えられない。
 ミニ化するという二度と経験できないこのときを有効にいかすために、このままの姿で廟堂をうろつきかねないのだ。
(しばらくは見張っておらねばなるまいな)
 スヤスヤと安心したように眠る小さな木戸は、無邪気そのものの顔をしている。
 安心しきった表情を見つめ、もう一度だけ木戸の頭を撫でてみた。
 どんな姿であろうと木戸孝允は木戸孝允だ。
 長州のただ一人の保護者にして守らねばならない存在に違いはない。
 木戸の仕事はすべて何らかの理由をつけ伊藤にでもさせればよいのだ。
(そういうことでしか役に立つまい、あの男は)
 などと山県は思っていたりする。


 人形の如し小ささになってしまった参議木戸孝允。
 これより数日間、世にも不可思議な冒険が展開されていく。


▼ 人形になった参議 二章へ

人形になった参議1-1

人形になった参議 1

  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】