お雅と桂さん




 明治四年、五月。東京に戻った木戸孝允を、この日、井上と伊藤、それに山縣が訪ねた。
 伊藤は米国への税制調査より戻り、神戸にて井上と落ち合って後に上京したばかりだ。慌ただしさに少し頬などはこけ、やつれた印象を受けた。
「大丈夫かい、俊輔」
 その言葉に伊藤はにこっと笑った。
「少し勉強し過ぎちゃっただけですよ」
「本当かよ」
 木戸と共に山口より戻った井上馨は、一度は神戸で船を降りた。それ以来、どうもこのやつれについては疑惑を抱いていたようで。
「ひどいなぁ、聞多」
「俊輔だからよ。米国で女の調査をしてきたんじゃねぇのか」
「それはない。絶対にない。・・・ありませんよ、松菊先生」
「分かっているよ」
 小さく笑った木戸は「酒を飲もう」と三人を誘った。
「貴兄、三田尻では体調がよろしくなかったはず。酒はよろしくない」
 長州藩時代より山縣の木戸に対する過保護振りは知れ渡っていたが、それはどうやら明治に入ろうとも薄らぐ気配はないらしい。
 これには微苦笑となった木戸だが、山縣の肩をポンと叩いて、
「久々だからね。あまり飲み過ぎないようにするから」
「そうだよ、山縣。四人で会うのは久々だし。それに・・・おまえも飲み過ぎないでよ。おまえって酔わないし見かけ変わらないけど、ある一定量を超えると饒舌となって毒を吐き続けるから」
「どういうことだ」
「知らないのは本人だけ。聞多なんて可哀相に流され侍なんて言われてね」
「そうだ。俺様はおまえさんの毒にあてられ散々に傷ついたぞ。頼むから飲み過ぎるな」
 山縣は樽一つ殻にしようとも平然としているが、妙に毒舌となり、その毒が正論であり図星であるため何人もの男が見事に打ちまかされたらしい。
「・・・ほどほどに飲もう」
 その日は夕暮れ前より九段の木戸邸の座敷で馴染みの四人は飲むことにした。
 久々である。
「貴兄は飲むと胃をやられるゆえ、きちんと食すように」
 と、途中で山縣に盃を奪われ、そのかわりに牡丹餅を渡された時には木戸もげんなりとなった。
「いよっ。明治になっても健在だな、山縣のおかかさま振り」
 酒に強い井上も慌ただしい日程に疲れたのか少しほろ酔い気分になっている。
「山縣がいる限り、木戸さんの食事方面の心配はしなくて済むし。よかったよかった」
「なにが良かったのだい、俊輔。この狂介の過保護振りは私には脅しと同じなのだよ」
 なにせ少しでも食を取らなくなると、無表情で「ならば口移しとする」と言うのだ。冗談だろうと受け流した木戸だったが、一度本気で口移しを実行されてからは山縣の言葉にはできるだけ逆らわないようにしている。
「貴兄がきちんと食事をされればそれで済む」
「人間、どうしても食をとりたくない時もあると思うよ」
「そうは言うが、貴兄の体はすでに貴兄一人のものではないはずだ。公人としての立場を重んじ健康面でも気を使っていただきたい」
「昔からだけど、どうしていつも会えばこうして説教ばかり」
「貴兄が悪い」
「そうです。すべて私が悪い」
 少しばかりその場の雰囲気が剣呑となり、伊藤が「まぁまぁ」と割って入った。
「でも木戸さん。山縣がおかかさま振りを披露するのは木戸さんだけなんですよ。奇兵隊でも面倒見は良かったけど、過保護になるほど面倒を見ることはなかったんですから」
「では俊輔。それを私はありがたいといって享受しなければならないのかい」
 伊藤は「はははは」と乾いた笑いを漏らし、押し黙った。
「まっ桂さんよ。久々で四人で会ったんだ。山縣と喧嘩をするならまたの機会にして、食おうぜ。飲もうぜ。なにせあの船旅。途中まで大久保と一緒で気が滅入ったぜ、俺は」
 東京下向への催促に山口に訪れた大久保に促される形で船に乗った木戸だった。
 もとより東京に戻る所存ではいたが、まさか催促に薩摩の大久保と西郷が顔を出すとは夢にも思わず、これでは逃げられない、と観念した。
「梅くんの元気さだけが憩いだったよ、本当に」
 木戸と共に亡き高杉晋作の妻雅とその一子梅之助も東京に赴くことになり船に乗った。
 梅之助の勉学を優先し、慣れ親しんだ山口を離れる決意をした雅だが、船の中では始終浮かない顔をしているのが、木戸は気になっていた。
 梅之助の方はその他にも共に乗船した熊太郎や七之丞と賑やかに遊んではいたが。
「お雅さんと梅くんの引っ越し祝いじゃないけど、麻布を訪ねようと思ってね。船の中で聞多と話したのだけど、俊輔と狂介も一緒がいいんじゃないかって」
 陽気な伊藤ならばすぐに「いいですね」と承諾すると思った木戸だったが、暗に反して伊藤は少し下を向き、山縣の顔をちらちらと伺っている。
「すみません。僕はやめておきます」
「どうしたのだい、俊輔?」
「・・・あまり奥さんに好かれて・・・。いや・・・というか苦手というか」
 伊藤としては珍しく言い淀み、
「高杉さんの奥方は列記とした長州藩士。上士の家の出身だ」
 山縣が後を引き継いだ。
「それがどうしたのだい?」
 そこで井上が「そうだな」と暗い声で答えた。
「なにがそうだな、なんだい。私は分からないよ」
「俺もだけどよ。まっ桂さんなんかこの問題にはむっかしから無頓着だからな」
 木戸が首を傾げると、ため息をついた井上が説明を買って出た。
「高杉家というのは列記とした上士だろう。高杉は身分など超えた枠組みを造ろうとしていたけどよ。それでも最期まで上士の気風は抜けていなかったと俺は思うぜ。誇り高さは別としてよ。まぁ高杉はわかってやっているから別にいいんだけどよ。 その家族は・・・ちょいとな。見下げているとかではないんだ。ただよ。武士の矜持っちゅうか。なんて言うか。ダメだ。山縣、頼む」
「私は中間の出だ。伊藤もほとんど同様なものだ」
「・・・どうしたのだい、急にそんな話をして」
「松菊先生。僕と山縣ね。高杉さんにお世話になったから、その後、梅之助くんのことやご家族のことを考えて少し差し出たことをしちゃったんだ」
 伊藤は頭をあげず下を向いたままだ。
「これから新しい世になる。封建社会の身分を超えていく。そんな意識があって高揚していたから・・・思いあがっていたんだよね。僕はどこまでいっても中間出で上士の家から見ると成り上がり者で・・・」
「俊輔・・・」
「はっきり言われたんだ。高杉さんの父君に・・・中間や農家の倅に施しは受けたくはないって」
「そんな・・・」
 瞬間、木戸の顔が凍りついた。
「そんなこと・・・」
「時代はまだ全然変わっていないし、封建制度も崩れていないって僕はよく分かった。思いあがっていた。僕もだけど、山縣もなにも言えなかったもんね。その時、お雅さんも横にいて、何も言わなかった」
 武士は食わねど高楊枝という言葉がある。
 その言葉は現実に深く根ざし、武士の誇りや矜持と共に生き続けている。
「すまない、私が気付かなくて」
 木戸はその場で頭を下げた。
「松菊先生が頭なんか下げないでください。これは僕が悪いし、そして世の中が悪いことだから」
 山縣は黙々と酒を飲んでいる。顔を上げた伊藤は何を思ったのか、その山縣の盃にそっと酒を注いでやった。
 それは武士として最下層の立場を経験した二人にしか分からない思いなのかもしれない。
 木戸が高杉家に梅之助のこの後の勉学についての援助を申し出た際に、高杉の父小忠太は喜んで「東京に連れて行ってくれ」と手を握って頼んだ。
 できるだけの支援を約束し、ちょうど木戸の甥の二人が梅之助とそう年も変わらないので良い学友になるのでは、と笑いあったものだ。
『木戸のおじさん』
 と梅之助も昔から木戸には懐いている。
 東京行きに不安な顔をしたその母雅だが、我が子の教育を考えて重い腰をあげた。
『東京には仲間がいっぱいいますから、助け合ってやっていきましょう』
 あの折、少しだけ雅は微笑んだが、船旅中、終始不安が顔にこびりついていたものだ。
「それを言うなら私も医者の倅だね」
 木戸はあえて明るく言った。
「松菊先生は・・・」
「変わらないよ。藩医でも医者は医者。馬廻役の桂家に養子に入ったけど、生まれた場所は変わらない。だから俊輔。らしくもなくうつむかないでおくれ。おまえを培った場所をまるで恥じ入るような顔をしないでおくれ」
「・・・」
「成り上がりで良いよ。徳川幕府ができた際は家康も成り上がり者。おまえが好きな太閤秀吉も同様だね。これからはその成り上がり者が国家を造る。血筋がなに? 身分がなに? そんなものはこれからの国家にはいらないよ」
「桂さんらしいぞ」
 井上は手を打ち、伊藤は少し目を潤ませて笑った。
 医者と言えど毛利家に連なる藩医の家柄であり、木戸は幼くして隣家の桂家に養子に入り、相続した。以来、桂家の当主として「武士」としての教育を受けて育った。
 その中でも「和田の倅」と時には嘲りの目を受けた。「成り上がり者」と嘲笑も目の当たりにしている。
 だがそんなのはわずかなことだ。中間の出身の山縣や、農家の倅として生まれた伊藤はさらに苦しい立場にあっただろう。
「きっと何か誤解があるのかもしれない」
「貴兄は始めより身分に全く頓着していなかった。だがそれは特異なことだ。高杉さんの父君の言葉の方が大部分であろう」
 山縣は盃を伊藤に持たせ、その中に酒を注ぐ。
「私はそんな身分体制に復讐することばかりを考えていた。旧態依然は壊さねばならない」
「狂介・・・」
「久しぶりに会ったんだ、桂さん。辛気臭い話はあとあと。今日は飲もうぜ。俺はしこたま飲みたいんだ。おい、山縣。おまえさんはそれくらいにしておけ」
「なにを言う、流され侍」
「やばい。聞多。少し山縣に毒がまわってきたようだけど」
「黙って山縣に酌をしておけよ、俊輔」
 にぎわいの中にもそれぞれに人は傷の痛みを抱えている。
 せめて身分による痛みや悔しさはいつか消え去るそんな世の中を木戸は夢描く。
 そのために東京に戻った。そして参議として国政の表舞台に立つ。


 六月の末に参議に就任し、国政を担う立場になった木戸はとかく忙しい。毎日のように多くの人々が陳情に現れ窮状を訴え、ついでに注文をつけていく。
『大まかに僕が分別しますから』
 大蔵小輔の伊藤が補佐を買って出た。
『俺も手伝うである』
 佐賀の大隈重信も手伝いによく顔を出す。伊藤が面白くない顔をするので、大隈に対してはほどほどにするように言い添えておいた。
 それにしてもこの嘆願書の山はどう処理すれば良いものか。
 ため息が出るが律儀な木戸はすべて目を通し、これはと思うものには連絡を取るようにしていた。
 その日、九段の自宅に戻ったのは夜四つを回っていただろうか。
「お戻りなさいませ」
 松子がにこやかに迎え、その後ろに娘の好子と高杉の息子の梅之助の姿があった。
「おや、梅くん。遊びにきていたのかい」
 木戸は好子と梅之助を一緒に抱きあげる。二歳の好子とは違い、梅之助は八才。抱きあげるにはいささか重かったが、幼き日の高杉を思い出しギュっとしてしまった。
「木戸のおじさん」
 梅之助はニッと笑う。どこか高杉の面影がよぎり、少し胸が痛くなったが、それを軽く流した。
「お雅さまもいらっしゃっております」
 おそらく梅之助のこれからの勉学の在り方を相談に来たのだろう。
 高杉小忠太にすべて頼まれていることもある。また梅之助同様に多くの子どもたちも預かり教育を任されていた。その手配をする時間はなく木戸の秘書官が動いてくれている状態だ。
 就学先の候補先を選定し、雅に渡したと秘書官から耳にしていた。
「久しぶりですね、お雅さん」
 木戸が声をかけると、雅は深々と頭を下げた。
 高杉の妾のおうのに対しては親しみ気軽さがあるが、雅に対しては昔からよそよそしさがあった。それを伊藤は苦手と表現したのかもしれない。家が近所の木戸であるが、高杉を通して以外に雅と話したことはほとんどなかった。
「そんなかしこまらないでください」
「木戸さまにはいつもご迷惑ばかりをおかけして」
「どんな迷惑ですか? 私はお雅さんに迷惑などかけられたことはありませんよ」
 その夫の高杉にはそれはそれは迷惑をかけられ、ついでに心配で胃を痛めさせられたことが山のようにある。
 だがそれも今では楽しかった思い出の一つだが、雅を見るとそれが思い出ではなく鮮やかに現実として浮かぶのが少し困る。
「夫は木戸さまをとても好いておりました」
「・・・」
「私、結婚した際に最初に言われた言葉は、いっとう好きなのは桂さんだから、いちばんにはできない、すまん。という言葉でした」
 そこに梅之助と好子が現れ、木戸の膝に二人して座った。
 時折、梅之助はここに遊びに来る。木戸の甥である彦太郎や正二郎と遊び、好子の相手をして一日過ごすそうだ。
 一人っ子ゆえにどこかで兄弟を求めているのかもしれない。
 好子と梅之助を見ていると、遠き昔の自分と高杉を思い出す。
『桂さんが好きじゃ。いっとう好きじゃ』
 面と向かってそんな言葉を二っと笑って言う男だった。
 木戸は近所の八歳違いの幼なじみを誰よりも可愛がった。慈しんだ。その思いはいつしか「特別」となり、何よりもかけがえのない半身という思いに至った。
 生涯を共に送ると誓った相手を、見送らねばならなかった時、木戸の心の一部が明らかに壊れた。
「梅くんは、晋作を失った私にわずかな希望を見せてくれます」
 その面影に苦しいまでに心を痛めるが、同時に高杉の面影を濃く宿す梅之助の存在が木戸を癒してもいた。
「私は木戸さまに思い出話をうかがいとうございます」
 雅は木戸の目をジッと見据える。
「夫婦になり六年。ほとんど家にいることはなくあの人は旅立ちました。今となって私はあの人の何を知っていたのだろうと思うことがあります。夫がいちばんに慕った貴方様に、夫の思い出を話していただけないかと」
「思い出・・・」
 高杉の死を認めたくはなく、時に逃げ、今も思い出ではなく現実としている木戸には辛いことだった。
「木戸のおじさん。梅も父上の話しが聞きたい」
 邪気のない言葉がその背を押す。
「ととさま」
 不意に好子がギュっとしがみついてきたので、木戸はその体を受け止め頭を撫ぜつつ、
「私が知る晋作は、いつも私に心配ばかりをかけてくれましたよ」
 少しだけ過去の話をしてみようかと思った。


「松菊先生!」
 さてどこから話そうかと考え始めたころ、その声が聞こえた。
「僕と聞多と山縣が酒を運んできました。今日はしこたま飲みましょう」
 勝手知ったる屋敷である。取り次ぎを待たずに伊藤はどたばたと賑やかに足音が響かせ、あっという間に座敷に顔を出した。
「先生」
 なぜか私的に顔を合わせる時は、伊藤は昔の名残を惜しむかのように「松菊先生」と呼ぶ。
 顔を覗かせた時は満面笑顔だったが、雅の存在を見て伊藤の表情は見る見るうちに蒼白になった。
「お邪魔ですね。・・・ご無沙汰しております、お雅さん」
 ぺこりと頭を下げた伊藤はすぐに引き返そうとする。
「なにやってんじゃ俊輔。俺様は酒瓶担いできたんだ。重いぜ」
 井上が入ってきて、梅之助に「よっ」と手をあげ、雅に「元気そうだな」とひと言呟いた。
 その背後にいる山縣は伊藤の袖を掴んで逃がさないようにしている。
「今、晋作の思い出話をしていたところだから。三人とも一緒にどうだい。聞多はせっかく酒びんを担いできたのだから」
「それいいね」
 井上はよいしょと酒瓶を下ろし「長州の酒だぞ」と笑って、木戸の膝元に座る梅之助を抱き上げた。
「おまえの父親は酒がとっても好きでな。いつもいつも飲んではそこにいる桂さんに怒られてしょげていたんじゃ。父親のようにはならんでくれよ」
「それは大人になってみないと梅にはわからん」
「生意気なガキだぜ。本当に高杉にそっくりで、このぉ」
 井上も梅之助を可愛がっていた。
「二人とも座りなさい」
 木戸は有無を言わさぬ口ぶりで障子戸の前に立つ伊藤と山縣を促す。
 木戸が少しきつめな口調で促す際は、この二人はほとんど逆らいはしない。言われるままに木戸の横に伊藤が座り、その伊藤の横に山縣が座した。
 木戸は松子を呼び、酒のつまみを用意するように言い、部屋の戸だなより盃を取り出す。
「お雅さんは飲めますか」
 これには顔を染めて雅は顔を横に振った。
「酒のつまみは晋作の悪口にしようと思ったのだけどね」
「こりゃあ桂さん。アンタの高杉の話で悪口なんかないだろうが。いいか、梅。このおじさんを高杉は大好きだったんだぞ」
 いつの間にか梅之助は井上の膝に座っている。
「知っているよ」
 梅之助は即答した。
「父上は木戸のおじさんが大好きって言っていたの覚えている」
「そうかそうか。にやけた顔でいっていただろうが」
「う~んとね。真面目な顔だったよ」
「へえぇ」
 わずかに笑みが漏れた木戸は、梅之助にありし日の高杉の面影を追った。
「今の梅くんの年くらいかな。晋作は病弱で風邪ばかりをひいてね。それは家族の皆さんは心配をしていたよ」
「そうなんだ。梅は健康だよ。風邪も引かないし」
 風邪を悪化させ青木兄弟の医学所で診てもらっていたのを思い出す。
「私が見舞いにいくといつも嬉しそうな顔をしてね」
「高杉は昔から桂さんにべったりだったからな」
「そうだね。いつも一緒だったよ。私が私学に通い始めた時にはいつも帰り道で石を蹴飛ばして待っていた」
 待たせたね、と笑うと、二カっと笑って抱きついてきたのは、もう遠い日のこと。
 梅之助を見ていると、あの日に戻ったような気持ちになるのは、明らかな感傷とわかっている。
「生意気で、強がりで、私が病むと泣きそうな顔で抱きついて、ずっと一緒にいてくれた。梅くん。君の父君はとても優しい男だったよ」
「やさしい・・・本当に優しい」
 小さく呟いて雅は両目よりツーっと泪を落とす。
「母上」
 驚いた梅之助が母の傍に行き、心配気な顔を見せた。
 家に戻らない夫をいつも待ち続けた雅だ。舅と姑、小姑に仕え、いつも張りつめた糸の上で気丈に振る舞い、子どもを育ててきたのだろう。
 結婚六年で夫は他界し、その後は残された子どもだけでもという思いが強かったが、その思いが今、どこか切れたような顔をした。
「私の知っている高杉はいつも強気で、家では孝行息子の名の通りに父や母に接しておりました。親孝行で私にいつも苦労をかけると子どものような顔で笑うような」
「お雅さん」
「それは本当の夫の姿ではないかもしれません。けれど、私にはそれが高杉晋作なのでございます」
 少年のころより高杉は親孝行な息子だった。国事に奔走できない理由として父親のことをあげ苦しみ悩んだこともあった。
 それを仲間たちは見てきた。特に村塾で同時期に学んでいた伊藤は知っている。
「僕はいつも高杉さんに足蹴にされていたから」
 ちびちびと酒を飲んでいた伊藤が、はじめて割って入った。
「いつも足蹴反対と喚いても足蹴にされて、団子も盗まれたり、おちょくられるし。でも僕は好きだったんですよ。名前をくれました。俊輔という名も博文と言う名も高杉さんがつけてくれました」
 エヘッと自慢げに語る伊藤を、こちらもやけ酒のように飲み続けていた山縣が一発殴った。
「痛いって山縣」
「・・・・」
「自分は名前を付けてくれなかったからって妬かないでよ」
「妬いてなどおらん」
「でも山縣は素敵な都々逸を高杉さんからもらったよね。わしとお前はってやつ」
「そんなものは忘れた」
「照れちゃって」
 もう一度山縣の拳が伊藤の頭を容赦なく叩きつけた。
「これが・・・一応は山縣の愛の表現なんだよね、もんちゃん」
「俺は知らんなぁ」
 実際に功山寺決起の際に山縣は高杉より都々逸を贈られ、再度決起を促されている。
 その時の都々逸が、
 儂とお前は焼山葛、うらは切れても根は切れぬ。
 というものだ。
「・・・うらやましい」
 雅は小さく笑った。
「そんな風に夫を楽しげに語って下さり、嬉しいですし、羨ましい」
 実際、高杉はこの雅の傍にいるよりも奇兵隊の山縣、力士隊の伊藤と行動をする時が多かった。
 あの小倉城攻略で斃れた際も、傍にいたのは伊藤と山縣だったのだ。
「私は皆さまが羨ましい。けれどそれほどに夫と一緒にいて下されて・・・きっと寂しくなかったと思います」
「お雅さんは寂しそうだけどな」
 井上は酒びんのラッパ飲みを始めた。
「さびしいって顔をしているぞ。いつもそうだった。アンタは良い嫁だったけどよ。家に縛られ寂しくてならんかっただろう。高杉は好き勝手やって死んだけどよ。残されたものはたまらないよな」
 時に井上は簡単に人の図星を言いあてる。それもサラリとした言い方で。
「だからな」
 梅之助を再び抱きよせて、こう言うのだ。
「俺達がたんと高杉の話しをしてやるよ。あんたが知らんことをたんとな。家では孝行息子だったろうが俺達には悪ガキだったぞ。いろいろとネタはあるからよ。だからな。アンタも生きていることを楽しんでくれよな」
 雅に言いながら、その言葉は本当は木戸に言いたい言葉なのかもしれない。
 晋作の死以来、雅は子育てにすべてをかけることで寂しさをどうにか霧散させていた。
 高杉が傍に置いたうのという妾が今でも墓守として吉田のそば近くに住まっている。山縣が自らの寓居をうのに譲ったのだが、そのことに寛容になりつつも、本当はどれほど哀しいか知れない。
 だが、雅にはもう詰る相手はいない。空の上で今も酒でも飲んでいるだろうか。
「良し。三味線ができるのは山縣か。おまえ、都々逸唄え」
「断る」
「おまえしかできんだろうか。三千世界でいいぞ」
「・・・・」
「それともアレか儂とお前は・・・」
「三千世界にしておく」
 こうしてその場は宴会になり山縣が不承不承三味線片手に都々逸を唄い、それに手拍子を木戸が打つ。
 井上と伊藤は訳が分からん踊りを踊り、気付いたら梅之助は雅の膝で眠っており、雅は小さな鈴のような笑い声を立てていた。
 そんな雅が伊藤と山縣に手をついて、
「あの時、父が失礼なことを申しました。本当は嬉しかったのです。父も私も家族全員が。高杉という男の家族を気にかけて下さったこと、それだけで十分でございましたが、口べたな父はうまく言えずに申し訳ありませんでした」
 その言葉に伊藤と山縣は何かしら救われたのではないだろうか。
 伊藤は酔いに酔い酒びんを抱いて、井上の膝を枕にして眠り、珍しくも飲みまくった山縣はそんな井上に説教をしている。
 子の刻が回ったころ、木戸が一人、馬車で帰る雅と梅之助を送った。
「またおいでください」
 木戸が優しい笑顔で誘う。
 雅はコクリと頷いたが、
「私はおうのさんには妬きませんでしたの。それは夫はおうのさんよりもずっと好きな方がいることを知っていたからです」
「・・・」
「そうでごさいますよね、桂さま」
 あえて雅は「桂」と旧名で呼んだ。高杉は死ぬまで木戸を「桂」で呼び続けたことを雅は知っている。
「・・・そうだね」
 高杉の心は木戸も同様といえる。
 愛しく、慈しみ、恋しく、焦がれて、残して逝ったことを憎んで。
 それでも生きていかねばならない木戸は、空を見ては高杉に恨み事を言っては、泪を落とす。
 だが、生きている。生きていく。
「私が妬くのはいつも木戸さまただ一人。お忘れくださいますな。あなたさまだけですのよ」
 その言葉に微笑を持って見送り、木戸は空を見上げて少し右側が欠けた月に呟く。
「いつかすべてを思い出として笑うことができたなら」
 そんな日が来ようとも、
 この心の中にある思いは消えることはない。
 苦しくて、どれほどに傷ついて、傷はえぐられさらに血を流そうとも、それほどの思いを抱いて、木戸は亡くした半身を思う。
「それでも私はおまえが好きだよ、晋作」
 月がちょいと笑い「それでいいんじゃ」とそんな風に言った気がした。

お雅と桂さん

お雅と桂さん

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2013年6月26日
  • 【備考】木戸孝允誕生日記念作品・15万キリリク作品
  • 後に高杉家が貧窮した際に、元老だった伊藤と山縣が支援を申し出ます。その際に雅が「私は高杉の妻であり、武士の娘です。
  • 中間や農家の倅に施しを受ける事は致しません」と突っぱねた話が残ってます。それを少し脚色しました。
  • 元老という権力者になった二人ではなく、貧乏でそれでも恩義を報いようとした明治初期なら対応も違うのでは、と。