温泉に連れていって




「私を温泉に連れていっておくれ」
 そう言って、木戸孝允はジーっと己の顔を見つめている。
 これは今に始まったことではない。昔から木戸は時間ができると、誰かしらを温泉に誘う。大の温泉好きとして知られている男だ。
 明治六年八月、およそ一年半に及んだ洋行より単身戻った木戸は、洋行における報告書の提出をし終えた足で、陸軍省の山県を訪ねてきた。
 珍しいこともあるものだ。日々、顔を合わせてはいるが、こうして陸軍省を木戸が訪ねてくることは稀と言えた。
 また何かが起きたか。
 それとも木戸ら使節団が洋行の途中に留守政府がまとめたかの「朝鮮使節団派遣」について己の意見を探りに来たのかと思ったのだが、
 木戸が口にしたのは予想の範疇を超えたとんでもないことだったのだ。
 思わず山県は「はぁ」と茫然としてしまった。
「異国にも温泉や公衆浴場はあったけど、やはりこの国のものがいちばんだと思うのだよ。一仕事終えたし、大久保さんは富士山に登るというから、なら私は温泉にでも行こうと思ってね」
 そこで洋行前に山県が「戻りましたら温泉にでも」と口にした言葉を思い出したらしい。
「一応は待機命令が出ているから、あまり遠出はできないのだよ。草津や鬼怒川、那須や伊香保あたりが良いかなって」
「貴兄、参議として……」
「そう、一応は私は参議だけど、現在の留守政府の方針は意に沿わないことばかりで、このままだと悲観にくれそうだよ。それにね」
 木戸は穏やかに微笑みつつ、
「結局のところは全面戦争になる。けれど私一人ではどうにもならない。それは大久保さんも同じだから、今は騒ぎ立てないように東京を離れたのだと思う。勝負は使節団が戻る九月。つまりは岩倉右大臣が戻らないと話にならないと言うことだよ。駒がそろわないとね」
 どうやら冷静に木戸は政府の情勢を見ているようだ。
「おまえも……考えは同じだと思うけど」
 西郷が主張する朝鮮使節団派遣問題には、必ず陸軍の軍務を預かる山県の協力が必要となる。薩摩を中心とする軍部が暴走しようとも、最終的には陸軍省を預かる軍政の頂点が頷かねば何もできないのだ。
 山県としてもこの時期に、自らの主張を表明するのは避けたい。
 心はきまっている。反対だ。今は内政に力を注がねばならないし、またようやく公布した徴兵令のもと鎮台を強化しなければならない時期とも言える。朝鮮などに大事な兵を割けはしない。だがそれを今、表立って主張することは、山県の政治感覚が「非」と告げている。
「陸軍卿はお忙しいかな」
 木戸がそれを踏まえた上でのこの誘いなら渡りに舟だ。
 確かに多忙ではあるが、出張か地方視察にかこつければ問題はない。いや、昨今は無休で働き続けた山県だ。この辺りで休みを取ろうとも誰にも文句は言わせない。都合がよいことに先日陸軍大輔に西郷従道を任命しておいた。彼ならば己が数日間いなくとも、それなりに仕事をこなすだろう。
(昼行燈でもあるが……)
 今はそれほど急務もない。雑務ばかりならば戻り次第、山県が処置する。それに政府からして「使節問題」で揉めているのだ。これ以上の軍政の問題は机上に上がってこないと思われた。
「……草津ですか」
 木戸はコクリと頷く。
「草津はいささか遠い。もう少し近場の……白久温泉などはいかがか。かの平将門が湯治したともいわれ秩父七湯に入るはず。近くには三峯宮という由緒正しい神社もあり、貴兄の目を楽しませてくれると思うが」
「あの鹿の湯だね。一度は行ってみたいと思っていたのだよ」
 見るからに目を輝かせて、にこりと木戸は笑った。
「私はしばらくゆっくりするつもりだけど、おまえはそうはいかないね」
「陸軍省には、たまに戻れば良いと思います」
「それは陸軍卿として問題ごと」
「私がいれば、必ずや軍部が騒ぎ出す。こういう場合はいない方がよい」
 木戸は満足げな顔で、すぐに頭を「温泉」に向けて切り替えた。
「せっかくだから、三峯神社や秩父の名所も歩こうかな」
「貴兄は湯治が良かろう。しっかりと体を休め、それから美味しいものをたんと食して……」
「秩父湖まで足を伸ばすのも良いしね。それからあのあたりは温泉もなかなか多いし、秩父七湯をすべて巡るのもなかなかに……」
「木戸さん」
 山県はその暗闇の瞳で木戸の顔をジッと見る。
「暗殺の対象にならぬように大人しくしていてほしいのだが」
「大丈夫だよ。きちんと東京に居るように見せかけるし。それに……」
 懐からは短刀を取り出して、鞘を優しく撫ぜ、
「これと共に愛刀も持っていくよ」
 旧士族の風体で赴くと木戸は言っている。それが一番に目立たないかもしれない。
 だが端整な顔をしている木戸は、目立たないように装っても必ず目立つ。ましてや老人や女子どもの中にあっと言うのに溶け込んでしまうといった特技も要している。
「出発は」
 尋ねた山県に対し、木戸はにこりと笑って「明後日」と答えた。


 山県の任務は、「湯治」における木戸の監視でもあった。
 木戸という男は昔から温泉好きで、ついつい長湯をしてのぼせあがるということが多い。それを戒め、適度な回数と時間を指示し、ついでに食事に関しても厳しく監視する。放っておくと、ほとんど食事を取らない木戸だった。洋行の際は伊藤や山田が厳重に監視していたようだが、その二人よりも厳しい監視人がついて木戸の顔色も曇る。
「ここは山の幸が美味い。よろしいか木戸さん」
 目の前に並ぶ夕餉から木戸はプィッと視線をそらした。
「私は伊藤や山田ほど甘くはない」
 木戸もそれは百も承知だ。山県ほと融通の効かない男もいない。このまま食事を無視したら、いつもの十八番が飛んでくるだろう。
「……食さぬと言うならば……」
 ほら、きた。
「口移しと言うのかい。それを口にすれば私が言うことをきくと」
「聞かずとも良い。私は有言実行するまでだ」
 これは紛れもない脅しだ。そしてこれに屈服するのを悔しいと思いつつも、結局は木戸は従わざるを得ない。
 山県はやると言ったら必ずやる。
 過去に本気で口移しで食事をさせられた時から、木戸はこの件については逆らわないようにしようと決めていた。
 仕方なしという顔で膳箱に乗る夕餉に箸をつける。せめて名物の蕎麦だけなら良かったのに、と色とりどりの山菜が乗った膳を睨みつけてしまった。
 昔から食が細い木戸だが、この頃はさらに細くなったような気もする。
「貴兄は少しばかり肉付きをよろしくした方がいい」
「……おまえは私と食事を取るときは、いつもそればかりを言うね」
「あまりに細すぎると心配ゆえ」
「ものは言いよう」
「……今、貴兄は私を誘ったことを後悔していよう」
 その通りだ。山県を連れてきたならば、徹底して規則正しい生活となることを分かっていたはずなのに、気付いたら山県を誘ってしまっていた自分。失敗でもあるが、こうして人知れず二人だけで温泉に入り、しんみりと語るのも悪くはない。これで山県がもう少し監視を解いてくれれば言うこともないのだが。
「けれど私はおまえとゆっくり湯につかって話をしたかった」
 それはこれから勃発するだろう政府を二分にしての政争の話ではない。異国で見てきたことや触れてきたもの。自分自身の思考において変化したことや、学んだこと。その話し相手にこの山県を選んだことを木戸は後悔はしていなかった。
「私も貴兄とは話したいことは多くある。だが、その前に」
 きちんと食事はしてもらう、と狼のように鋭い目で睨みつけられた木戸は、さながら耳がたれ下がった兎のように小さくなってしまった。


 数日後、山県は東京に戻っていった。週末になればまた顔を出すと言ってはいたが、一人になるとやはり妙に寂しい。
 山県という男は饒舌という訳でもない。どちらかと言うと寡黙だ。会話と言っても木戸が一方的に話している方が多い。それでもきちんと山県は頷く。今の木戸には、話しを聞いてくれる人が必要だった。ゆえに山県を選んだ。会話が弾む男ではないが、話しを折る男でもない。余計な口はさみをすることもない。されど山県には仕事がある。
 仲良くなった湯治客と、囲碁や将棋をして徒然を慰めることにした。
 監視の目がなくなったことを良いことにいささか長湯し過ぎてのぼせてしまうことが多くなった。食事もさほど欲しないが、なぜか山県の顔が浮かんで仕方なく木戸は食す。
 そんな中、極力考えないようにしていたが、今頃東京はどうなっていようか、とやはり頭によぎる。
 使節団の到着は九月半ばと聞いており、そこから留守政府との本格的な政争に突入することになるのは分かっている。
 薩摩の一方の領袖の大久保も、今は精気を蓄える時と思ってか、富士に赴き、東京には未だに戻っていないらしい。
(私も気力を蓄えないとならないと言うのに)
 洋行より戻って以来、木戸の体調はとみにおもわしくない。
 こうして湯治客として体を労わり休めてもいるが、時に激しいだるさが体を襲い、一日中、部屋で横になっていることもあった。
 体が不調を訴えると、頭によぎるのは悲観的なことばかりだ。
 政府とは遠ざかる意味でこの秩父を訪れたというのに、一人になるとやはり考えてしまう。
 この国の行く末を。政府間が二派に分かれて争った末の、末路を。
「私は……」
 これは何が正しいか、間違いなのかの話ではない。
 それぞれが己の描く未来を賭けての勝負となろう。
 その場に自分はきっと加わることはできない。
 体調のこともある。
 そしてこれが一番の懸念だ。
 軍部が関わっている以上、薩摩の西郷と長州の木戸が真っ向からやり合った場合は軍が二派に分かれて動くこともありえる。
 政治的判断をするならば、今後の政府の行く末を争うその評定に、長州の首魁である木戸は加わってはならないのだ。
「なんとも首魁とは詰まらないこと」
 笑いたくなった。ひとりぽっちの座敷では笑いだすと、その声が耳に淡々と帰り侘しくなるため、笑わない。
 体の療養のために秩父に来ていると言うのに、この悲観的な思考が木戸自身を追い落とし兼ねない状態となっていた。


 金曜の夜、山県が顔を出した。
 仕事を終え、馬車を飛ばして駆けつけたらしい。
 その日は昼に一度温泉に入って以来、部屋に閉じこもって木戸は横になっていた。
「お加減がよろしくないのか」
 山県に問われ、これには素直に頷く。
 東京の情勢が気になり、眠っていないことも白状した。眠ると決まって夢を見ることもポツリと告げる。
 留守政府側が勝利したならば、西郷が主張した通り、自らが単身朝鮮に乗り込んで開国をせまろう。受け入れられない場合は、西郷はその場で斬られるつもりだ。自らの命を落として、国家に朝鮮に軍を渡航させる大義を作る。例え朝鮮一国との戦争に勝利したとしても、待ち受けるのは西洋諸国との一戦に他ならない。  例え西郷が国の将来がため、いずれ訪れる連合諸国との脅威を守るための朝鮮使節団だと主張しようとも、西欧を視てきた木戸にはそれに頷くことはできなかった。
 国が西洋の猛火に焼かれ植民地となることを想像しては苦しみ、胸が悲鳴をあげる。
 または洋行組が勝利した際、西郷を信奉する桐野ら近衛隊がいっせいに宮城にて蜂起する可能性も捨てきれない。
 この勝負、どちらに転んでもこの国は衰退するのではないか。
 暗闇の中でありとあらゆる先を考え、木戸は悲嘆にくれてしまっていた。
「明日は他の湯に足を伸ばすとしよう」
 淡々とした口ぶりで山県が言った。
「貴兄に大切なのは、今は考えないことだ。そのために東京を離れたというに、これでは何の効果もない」
「けれど狂介……私は……」
「あの大久保が富士の登山を決めたのは、おそらく貴兄と同じ心情だからではないか」
 できる限り何も考えないように。
 勝負は岩倉が戻ってからと決まっている以上、無駄に悩んで疲弊することは避けたい。
 ならば考えぬために何をすれば良いのか。
 大久保は体を使って登山を決めたのは、この極地において何一つ情報を入れないためとも考えられた。
「貴兄は今、休暇中だ。できる限り考えぬための休暇だ」
 その通りだ。これには木戸はコクリと頷いて、山県の横顔を見つめる。
「明日は鳩の湯に行くよ」
「では明日は早くに」
「そうだね。鳩の湯と梁場の湯にも行ってみたいと思っていたのだよ。それに秩父は自然が美しいところだから渓谷を見に行くのも良いね。まだ三峯宮にも詣でてもいないし」
 先ほどまでの悲観がどこかに飛んだかのように、木戸の頭には楽しい発想が湧き出てくる。
 やはり話し相手がいるのはいい。一人だと余計なことを長々と考えるが、こうして会話をする人間がいると途端に心が軽くなる。
「狂介」
 五歳年下の後輩の無表情な顔を見据えて、
「おまえが一緒にいてくれて、本当にありがたいと思っている」
 心のままの言の葉を口にして、そのまま木戸は褥に身を任せた。
「秩父七湯、三日かけて制覇をするのも一興だ」
「それはいいね。……それから狂介。湯に入ってくるといいよ。今の時間ならきっと人はほとんどいないからね」
 鹿の湯の温泉はやや白濁としていて、肌触りがよく滑らかな湯で知られている。硫黄の匂いもそれほどきつくなく入りやすい。
 山県は下に下り、湯に入る前に女将を捕まえ、七湯についての話しを念入りに聞くことにしたようだ。
 木戸のまぶたは重い。数日ぶりに夢を見ない眠りに入れるような、そんな気がした。


 三峯宮には馬車で飛ばしても、およそ三時間はかかるだろうということで、途中の大滝温泉で一泊をし、それから三峯宮に参ることにした。
 洋行の時とはまったく赴きが違うこの旅に木戸は上機嫌である。
「三ツ鳥居が見れると思うと心が弾むよ」
「貴兄は寺社仏閣など霊験あらたかなものがお好きなようだ」
「おまえは好きではないのかい」
 それには山県は答えず、二人はゆっくりとして歩調で歩いていく。
 どことなくはしゃいでいる木戸の姿を見つめ、あまり無理をさせてはならないと思いつつも、こういう気分転換をさせなければ、奈落の底に落ちかねないほどに政変について考えるだろう。いずれ木戸が憂いている事態は必ず来る。 それまでは大いに楽しいことに没頭してほしい。
「……ねぇ狂介。今回は秩父七湯をめぐるけど、次は私は有馬に行きたいと思っているよ」
 それは次回の約束と受け止めればいいのだろうか。
 この一月後には政変の中に巻き込まれる木戸の身を思い、山県はこの時「承知しました」とだけ答えた。まさかこれより一月後に、己がこの木戸を連れて有馬に赴くことになろうとは夢にも思いはしなかった。

 この後、八月末まで秩父にとどまった木戸は、七湯を十二分に堪能したからか体調も少しは回復し、山県に連れられて東京に戻った。
 使節団が横浜に帰着したのは九月十三日。
 後に明治六年の政変と呼ばれる廟堂における対決まで、これより一月あまり。
 水面下での戦いがここから始まる。


温泉に連れていって

温泉に連れていって

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2012年2月1日
  • 【修正版】 2012年12月15日(土)
  • 【備考】山県有朋命日追悼作品