参議さんたちの勝負

4章

 陸軍卿山県有朋は、佐賀の反乱の兵糧や軍備。第二陣の配備について話し合うため内務省を訪ねた。
 内務卿室には、なぜか泣き喚く伊藤がおり、それを無視して黙々と仕事をしている大久保の姿がある。
「山県陸軍卿」
 低く唸る声音には、多少苛立ちが含まれている。
 何かあったな、とすぐに思い至ったが、とりあえず長州閥の一員として伊藤の異常さに注視する。
「いかがしたのだ、伊藤」
 声をかけると、顔をあげた伊藤の目はどこか遠くを見て、涙を落とし続ける。正気とはとても思えず。ため息をついた山県は、大久保の苛立ちもこの伊藤の在り様か、と思った。
「目を覚ませ」
 頬を力を込めて引っ叩き、ついで伊藤の額をピンと指で打った。
 伊藤が今のように乱れる時は、決まって木戸が関わっている。
「なにがあった、伊藤」
「や……山県?」
「なにを情けない顔をしている。これ以上の醜態を内務卿にみせるな」
「山県! 木戸さんが……木戸さんがおかしいんだよ。それもすべてそこの内務卿さんのせいでね」
 くわっと牙をむく伊藤の姿を無視し、大久保は書類を見据えている。
「おかしな賭けをしてくれたおかげで、木戸さん。少しばかり厄介な時期の桂さんに戻っちゃっているんだ」
「きちんと順序立てて説明しろ」
「だからさ。そこの内務卿が、木戸さんに桂小五郎を見たいと言ってくれたおかげで、木戸さんは演技なのかそれとも素なのか……桂さんに戻っちゃっているんだ」
「木戸さんは木戸さんだ。だが……桂さんと言うとどのあたりの昔に戻っている」
「物言い、雰囲気。あの冷ややかさは特に誰もを拒絶した……高杉さんが亡くなった時に近いかなって」
「大馬鹿者はおまえの方だ」
 そこで山県は、提案書を大久保に突きつけ、検討しろ、と目で告げ、そのまま踵を返す。
「や、山県」
「木戸さんのところに行く」
「僕も……」
「おまえは内務卿に非礼を詫びていろ」
 そのままの勢いで山県は内務省を出、廟堂に向かう。
 追ってくるかと思えた伊藤の姿がないことに、おそらく木戸に何かしら狂いかねない言葉を言われたのだろう、と検討をつけた。
 廟堂に入り、木戸の仕事部屋に駆ける。
「木戸さん」
 誰もが木戸と桂は別人格のように捕えるが、当然のことだが同一人格である。
 単に木戸が、昔の意識を心の奥底に鎮め、ほぼ感情を抑え込んで、この世にも人にも執着をなくしているに過ぎないのだ。
 その木戸を「桂小五郎」に戻すとすれば、感情の放出しかなく、封じたはずの「敵」に向ける憎悪が体を包み込んで、息をつくこともできないほどに苦しいだろう。なによりも桂小五郎にはあり、木戸孝允には決して手に入らぬものがある。
「木戸さん。そこにおられるはず。今すぐ鍵を開けていただきたい。木戸さん」
 何度、呼びかけようとも、扉を叩こうとも、内部よりの反応はない。
 いささか躊躇はしたが、合鍵を内ポケットに入っている黒手帳より取り出し、ガチャリと扉を開けた。
「……木戸さん」
 ソファーに沈んでいる木戸は、山県の呼びかけにピクリと反応する。
「木戸さん」
 もう一度、名を呼ぶと、恐る恐る顔をあげた木戸は、その黒曜の瞳に明らかな歪みを宿している。
「貴兄は木戸孝允だ。桂小五郎の心情に戻さなくともよい」
 昔に心を戻すということは、それは同時に傍らに幼馴染である高杉晋作が居たころの思いに戻るということだ。
 あの高杉が死した日。その哀しみと喪失に耐えかね、木戸は高杉に対する感情の一部を封じた。愛しくて、大切で、片翼とも言えた高杉の喪失に、心は耐えられなかったと言ってもいい。
『桂小五郎という名は、常に晋作とともに在った。この名は……晋作とともに死んだ』
 あの日より木戸は変わった。封じた感情により変わらざるを得なかったとも言える。
「貴兄は貴兄のままでよいのだ」
 思いだしてはならない。封印を解いてはならない。
 桂小五郎の昔に戻れば、喪失の苦しみに耐えられず、木戸は狂うしかないのだ。
「なにを言っているのだい、狂介。私は……大丈夫だよ」
 そうして無理をして笑うたびに、ひとつひとつ心に罅が入っているかのように見えた。
「木戸さん」
 ゆえに山県は両腕をもって抱きとめる。
「よいのだ。桂さんに戻らなくともよい」
「そうはいかないよ。私は演じなくては……私は「私」を演じる」
「貴兄に演技など無理なのだ。……今の貴兄は桂小五郎に戻ることはできない」
「……大丈夫だよ」
「あの男がいない今、どうやって桂小五郎になれるというのか」
 ピクリと跳ねた体を力を込め支え、山県は止めの一言を告げた。
「その名はあの男の死とともに死んだのであろう?」
 木戸は名うての外交官であり、駆け引きはお手の物であるが、自分に自分を偽ることができるほどに器用ではない。
 今、桂小五郎を本気で演じるとならば、鍵をかけた心の封印を解くしかないのだ。
 だが、それは無謀に等しい。例え封印を解いても、桂時代を培った片割れが傍らには居ない。
 ……物言い、雰囲気。あの冷ややかさは特に誰もを拒絶した……高杉さんが亡くなった時に近いかなって。
 伊藤がそう表現した通り、演じられるのは桂小五郎という名を捨てたその時点。
 心を開放したとしても、決して本当の桂小五郎には戻りはしない。
 この世に高杉晋作という男が居ない以上、本当の意味での桂小五郎という男も存在はしないのだ。
 なんとももどかしく……越えがたき壁のような存在。
 わずかに震えつつも、その黒曜の瞳からは歪みは払しょくされ、まっすぐな目で木戸は山県を見た。
「私は自分を演じる。賭けに乗ったのだよ。この賭けに勝てば……」
「なにを賭けたのだ」
「あの大久保さんの、おかしな勘違いをね。正すことを」
「……それは無理だ。賭けに勝とうとも、おそらくは何かしら言いがかりをつけて迫ってこよう」
「そうならぬように萩に戻ろうと思っているのだよ」
「木戸さん」
「萩に戻ったならば……そのまま佐賀に赴いて江藤くんを止めねばならない」
「それも無茶だ。山田が佐賀に赴くことになる。あの山田だ。反乱などあっという間におさまる」
「……狂介……」
「江藤のことは諦めていただきたい。ゆえに……貴兄はもう無理をすることはない。貴兄は木戸孝允だ。桂小五郎にならなくともよい」
「私は負ける賭けはしないよ」
 フッと微笑んだ木戸は、山県の腕より抜けだし、そして笑う。
 どこか憑き物が落ちた顔をしていた。
「狂介のおかげでどうにか私は踏みとどまれそうだよ。そう……私は戻そうとした。桂小五郎の私に戻ろうとして……違和感ばかりがした。昔のように敵を徹底的に憎もうとして、けれど昔のように憎み切れない。哀しいくらいに……敵の傍に居すぎたから感情が先に出る。大久保さんを……ただ憎むだけではいられない」
「……貴兄は優しいゆえ」
「中途半端なんだよね、けれど、分からせてくれてありがとう。私は桂小五郎に心まで戻すことはできない。ならば……」
「はい」
「演じるしかないと言うことだね」
 にこりと笑い、木戸はそのまま山県の背広の袖を握り締める。
「三日の間、大久保さんが……俊輔が私を桂小五郎と疑わぬ徹底した演技をすればよい」
「貴兄はそのように器用ではない」
「けれど、あの大久保のおかしな求愛より逃れられると思えば、私はなんでもしたい気持ちになるのだけど」
「………」
「あの求愛にどれほどに迷惑しているか知っているはずだよ、狂介は」
「だが……いかがする」
「暗示をかけて欲しい」
「………」
「簡単だよ。おまえが私を桂さんと呼んでくれればいい」
「………」
「それだけで私はしっかりとした仮面をかぶれる。自分の暗示では、結局は過去の自分にとらわれてどうにもならないから。おまえに頼む」
「………そこまでして大久保の求愛より逃れられたいのか」
「当然だよ」
「分かった。ならば……桂さん」
 久々に呼んだその名は、胸にチクリとした鈍い痛みをよぎらせた。
 その名で呼んでいた時、木戸の傍らには天上天下唯我独尊という不遜なまでに自信に満ちた高杉晋作が居たのだ。
「私は私を演じきる。これは遊び。ならば……遊びゆえに……」
 先ほどまでの脆さと歪みが消え去り、山県の目の前には冷ややかな風情だが、その黒曜の目に優しさと強さをたたえた青年があった。
 勝負師の目となっている。
「ところで狂介。本日の宵はあいているかい? 勝先生と会う約束をしているのだけど」
「……勝さんとですか」
「そこに大久保さんも一緒するというから、少し困ったことになると思うんだ。だから狂介も一緒に来てくれると嬉しいのだけど」
「……貴兄が望まれるならば」
「ありがとう」
 その微笑は、やはり「木戸」というより「桂」に近い気がした。
「覚えておいて欲しい。私は貴兄が貴兄であればそれでいい」
「そう言ってくれるのは狂介だけだから……ゆえにおまえに頼んだのだよ」
「……桂さん」
「うん?」
「さっさと勝負を終わらせ、どこかの料亭で祝杯をあげさせていただきたい」
「そうだね」
 にこりと笑ったその笑みは、冴えわたった月光の如し光。
 勝負師となった時、この木戸には「負け」はない。敗北をするならば相討ちを遂げる覚悟が常に胸にある。
 やれやれと思ったが、ここ数年、儚いまでに命に執着がなく、たゆたうように穏やかであった木戸しか見ていないので、今の木戸は妙に新鮮で、そして哀しい。
 どれほどに泰然と立ち、颯爽と駆けようとも、
 その横にあった桂小五郎の絶対の味方はなく、
 山県自身、傍らに影を見る気分になり、いたたまれなくなる。
「大丈夫だよ、狂介。三日だけだから……」


参議さんたちの勝負 -4

参議さんたちの勝負 4

  • 【初出】 2011年3月31日
  • 【修正版】 2012年12月14日(金)
  • 【備考】