手と手の間の壁




 その場に通りがかったのも偶然ならば、普段ならばさして気にも留めぬ光景を無視しなかったのも偶然と言える。
「木戸さん、大丈夫だよ。僕につかまって……木戸さん」
 陸軍少将にして東京鎮台司命長官たる山田顕義の悲壮な声がその場に響いた。
「……市……」
 いつもならば「仲良しこよし」の長州閥など視界にも入らないというに、本日は内務卿大久保利通はあえてその場を通り過ぎず足を止めた。
 わずか先には屈んでいる山田が必死に彼の腕を取り自らの肩にかけ、どうにか立ちあがろうとしている姿がある。その山田が支えている彼……木戸孝允はうずくまったまま動く気配がない。
 昨今は左半身にわずかに支障が見られる木戸である。人には気付かれぬようにいたって普段と変わらぬ優雅な足取りを見せているが、大久保の目にはそれは多大な無茶に映り、いつ倒れるかと密かに気にはなっていた。 だが幾分かは自業自得と思わなくもない。木戸は、数ヶ月前に九段坂で馬車の横転事故を起こした際、身を痛打している。後に言う明治六年の政変の最中だったため、政局に身の負傷が関るのを避けるためにひたすらに事故は押し隠し、まともに医者に診せなかったことが本日の身体となった要因だ。医者嫌いの薬嫌いで知られる「医者の息子」たる木戸は、自らの体に無頓着過ぎる。
 大久保は何一つ表情を変えることなく数歩前に足を進めた。気配に気付いた山田が振り返るが、その彼の円な垂れ目を一切見ることなく、山田が必死に支えている木戸に、
「木戸さん。意識はありますか」
 まずは尋ねた。
 おそらく意識が朦朧としていたのだろう。呼吸が力なく繰り返されるばかりで返答は一つもない。木戸の額には無数の汗が浮かんでいる。
 見るからに芳しくない容態だが、確実な意識を確かめるため、大久保は木戸の頬を軽くだが叩いてみた。
「大久保さん」
 山田の非難の声は鋭い。まるで大久保の手より守護するといった体で、いっそう木戸の体を両腕で支えようと力を込めているが、彼の体格では今にも支えられている木戸諸共に床に倒れかねない状況だ。
(手がかかる)
 大久保は両腕で木戸の体を持ち上げようと、木戸に向け手を差しのばした。目を剥いた山田が木戸は渡さぬと抱きしめているが、それに構っている暇はない。このような容態の人間が廊下にうずくまっているなど甚だ迷惑至極なことだ。しかも通行人の邪魔ともなる。
「山田君。今は部屋に木戸さんを運ばねばならないのではないかね」
 長州人の木戸に対する独占欲は見上げたものだと感心もしていたが、今この状態では呆れるしかない。意地でも「薩摩」の大久保に触れさせるものかと木戸を抱きとめる山田が、非常に滑稽なものに見えた。
「僕が運びます」
「君の体格では無理だ」
 長州人の間では山田の「背丈」の話題は禁句としていることを大久保は知っている。そのため「体格」と表現したのだが、五尺に満たない背丈の山田は明確に「不機嫌」を顔に表し、大久保をさらに荒んだ目で睨んできたが、ことの状況を認めてか木戸を抱きしめる手を緩めた。
 ようやく大久保の両腕の中に抱きかかえられた木戸は、目は薄く開けているようだがその瞳に大久保を映してはいない。長いまつげが震え、徐々にその呼吸がか細くなっていることも知れた。
「木戸さん、木戸さん」
 山田が何度も大久保の腕の中にある木戸の耳もとで名を呼ぶ。
 とりあえずは部屋に運び、その後医者を呼ぶなり、馬車に放り込んで自宅に戻すなり対処すればいい。それは政府一木戸に過保護な伊藤博文が為すだろう。
 木戸の仕事部屋にできるだけ早急になおかつ丁重に運んでいる大久保の傍らには、ぴったりと山田が引っ付いている。
 こうして並ぶとちょうど大久保の肩下に山田の頭がようやく届くかといった背丈だ。一尺以上の身長の差が歴然として知れる。これでは大久保より僅かに背が低いだけの長身の木戸を抱きかかえるなど無謀極まりない。
「!」
 大久保の考えを読んだわけではないだろうが、見上げるように山田は大久保を見据え、激情を必死に抑えるために唇を噛み締めた。イライラとした不機嫌さと、そして悔しさを滲ませたその瞳が実に印象的だ。 こういう「悔しさ」は人の能力の差異ならば、努力は怠らぬ山田ならば必死に自らの力を磨いただろう。だが生来より生まれ備わった力たる「体格」についてはどう足掻こうともお手上げだ。こうして今までも長身のものを山田は「憎悪」を込めた荒んだ目で見てきたのだろうか。
 今、その眼光が刃となるならば、当にこの心臓は貫かれているだろうと思わせるほどの剣呑を受けてなお、大久保の足取りは一切揺るぎがない。山田がこうまで剣呑を向ける要因が腕の中の木戸にあることを認識しようとも、一度は抱きかかえた者だ。 今ここで放置しようとはさすがに思わなかった。
 角を曲がれば部屋にたどり着く。もうすぐだ。
 それにしても、成人男子と思えぬほどに華奢で、これが本当にあの江戸三大道場たる練兵館の塾頭を勤めた「桂小五郎か」と疑いたくなるほどに細心の木戸は腕にさほど体重がかからない。軽すぎる。茶の背広を優雅に着こなすこの男は、衣服をとけばその下は皮と骨だけではないかと思わせるほどに、柔らかみが感じられない。
 山田が先回りをし、木戸の部屋の扉を開ける。そのガシャリとした音に過敏に反応したのか、木戸は体をわずかに震わせ、そのままゆっくりとその黒曜石の瞳に大久保を映したのだ。
「えっ………」
 青ざめた血の気のない顔には驚きと狼狽。構わずに部屋の中に入ると、今までの脱力感が何処にいったのか。あからさまに腕の中で木戸は暴れた。
「下ろしてください。……なぜ、私が……大久保さんの腕に……」
 だがその体調不良は隠しようともなく、声は小さく、しかも掠れている。しかもすぐにゼハゼハ荒れた呼吸を繰り返した。
「ソファーにおろしますので、暴れずに大人しくしていらっしゃい」
 混乱の途を辿っている木戸は、一先ずピタリと動きを止め、落ち着くと自らの体調の悪化さを認識してか肩で息を吸い始める。
 木戸の仕事場にあるソファーは幅が広く、ましてや人一人がゴロリと横になれるほどのつくりとなっている。山田などはこのソファーを気に入り、木戸の部屋に遊びに来てはこのソファーでゴロゴロしているほどだ。
 言葉のままにゆっくりとソファーに木戸を下ろす。あえて体を横たえさせ、起き上がろうとする体を押さえつけた。
「無謀はおよしなさい。体は限界でしょう。まずは楽にしたらいかがですか」
「私は……大丈夫です」
「そのお言葉は、今にも倒れそうなその青白い顔に生気を満たしてからおっしゃい。水を飲めますか」
「………」
「医者がよろしいですか。それとも……」
「だいじょうぶです。大久保さんの手を煩わせることはありません」
 ギスギスとした緊張感が二人の間に漂うのはよくあることである。 「木戸さん、水、もってくるね。それから今日は早退した方がいいから、馬車を手配するよ」
 山田がそそくさと動き始めた。
「あっ……市。ありがとう」
 大久保には全く素直に対応しない木戸だが、山田には無理にも表情に笑顔をつくって「ありがとう」という。
 この扱いの差に重いため息が漏れそうになった。普段ならば木戸はこうまで大久保に素っ気無いことはない。むしろ長州の首魁として礼儀を尽くし、敬意をもった接し方をし、その物腰は温厚にして礼節を弁えている。その木戸らしくないこの対応に、大久保は思い当たるところがあった。
「それほどに私に弱った姿を見せたのが、羞恥なのですか」
 木戸はすぐさまに今までの朧な瞳ではなく、あからさまな嫌悪を含んだ目を向けてくる。どうやら図星のようで、その露骨な感情に大久保は口元に笑みすら浮かべた。
「……私は、貴殿のその冷たい……笑い方を好ましく思えません」
「失敬。貴公は実に素直な方だと思いましてね」
 私が?と首をかしげた木戸だが、いささか喋りすぎたようである。乾いた唇に色はなく、何度か咳き込んだ後、ソファーにぐったりと身を預けた。伸びた前髪がその瞳を隠すので、大久保が手を伸ばしわずかに前髪を払う。
「それほどに気に病むことはないでしょう。貴公は私の同僚にして、唯一の対等者です。敵ではないのですから、相手に弱さを見せようと……」
「敵ではない?」
 すると無理をして木戸はクスクスと笑い、すぐさま咳き込む。
「面白き冗談をお言いになりますね。私らは天敵。時に妥協し協調し合おうとも、一番の関係は天敵だと心得ています」
「つれないことをおっしゃる」
「大久保さんも……笑えない冗談を顔色一つ変えず言われますね」
「冗談? 私は本気で言っていますが。貴公は私を裏切ることのないただ一人の同僚。違いますか」
 天敵、とはっきりと言い切る木戸の頬にはわずかに赤味が差してきている。あの死人のように青ざめた白い顔ではなくなった。これが「敵」と対峙するための気迫だとするならば、大久保はとても笑えそうにない。
 そこへお盆に湯飲み茶碗を五つも乗せて、山田が戻ってきた。
「木戸さん、水だよ。どれだけ飲んでも大丈夫だから」
 お盆ごと差し出され、木戸は「ありがとう、市」とこれが体が思うように動くならば、きっと山田の頭をよしよしと撫ぜただろう。気さくな笑顔も見せた。子ども扱いが大嫌いな山田も、この木戸に頭を撫ぜられるのはどうしてか嬉しいらしい。
 緊張感ある雰囲気が一瞬にして柔らかな春の空気に変わったところで、木戸はわずかに半身を起こし山田が差し出す湯飲み茶碗に手を伸ばしたので、あえて大久保は木戸が手に取ろうとした茶碗を取った。
 目をきょとんとさせる木戸に、
「飲まして差し上げます」
「……はい?」
「横におなりなさい。起き上がるのもお辛いでしょう」
 強引にソファーに埋めると、怪訝な瞳が複雑な狼狽を滲ませて大久保を見た。揺らぐ木戸の黒曜石の如し瞳は実にきれいで、この目に見惚れる人間が多いのも頷ける。表情なく泰然とあればその目は毅然と冷たく映え、にっこりと笑えば穏やかにやさしく慈しみすらも人に見せる。
 移り変わるこの目に自らの存在を映させたい、と大久保は思わずにはいられなかった。この国で、この政府において、唯一自らと対等に立つ一方の長。誰もがつい目で追ってしまう奇麗にして優雅な貴公子。共に手を取り合い政府を前進させねばならないはずの木戸は、大久保を「天敵」と即答で言った。
 不安げに見上げてくる木戸は、前々からだがこの大久保の心を波立たせる天才で、思うが侭にならない一番手ともいえる。政府では大久保と木戸をこの新政府の「父と母」やら「夫婦」やら「爺さんと婆さん」などと揶揄して呼ぶが、それは言いえて妙だ。夫婦というならば、世の中夫が一番に思いのままにならないのが妻であり、一番に生涯において戦わざるを得ないのも妻ではないか。
「口移しでよろしいですか」
 冷淡に大久保が一声発すると、木戸は何度か瞬きを繰り返し現状が飲み込めないらしくポカンとしたが、傍らの山田が「うぎゃあ」と叫んだ。実に騒々しい男だ。
「な、なにを考えているんだよ、内務卿。く、口移しなんて」
「君が口移しをするかね、山田君」
「ぼ、僕は……差し迫ったときにはするかもだけど、今は。ダメだよ。特に内務卿はダメだよ。内務卿は長州人ではないから」
「それは差別ではないでしょうかね。長州も薩摩もない国家を築いていこうというのが理念のはず」
 山田は見るからに動揺し、何を思ったか。まずは大久保の手の中にある茶碗を奪い取った。
「木戸さん、はい」
 口元に湯飲み茶碗を僅かに傾けて寄せると、木戸はようやく茫然から立ち直ったらしく体を横向きにして右手で湯飲み茶碗を手にして水を飲み始めた。
 唇が僅かに潤い、咽喉を爽やかな水が通ったからか呼吸もわずかに楽になったようである。
「……大久保さんが人をからかうなど思いませんでした」
「からかい?」
「口移しなど……」
「……本気ですが」
「はい?」
「本気であることを証明いたしましょうか」
 またしてもポカーンとなり、だが木戸は続いてぶるぶると頭を左右に振る。そしてわずかに表情を険しくした。
「……私を苛めないで下さい」
 ようやく木戸は「苛められている」ことに気付いたらしい。
「えっ? 内務卿、木戸さんを苛めているの」
 山田はテーブルにお盆を下ろし、こちらもあからさまな嫌悪感を持って睨んできた。表現するならば今の山田は、ネコが総毛立てて威圧してくる雰囲気に似ている。木戸は飼い主ではないだろうが、山田曰く大切な木戸に、害にしかならないと判断している大久保を近寄らせないために必死だ。
 二十代後半の年齢のはずだが、童顔で可愛らしく顔つきからして「小憎たらしい」という感が否めない山田は、誰がどう見ても軍服を着ている少年にしか見られない。またその五尺に満たない背丈も加わり年齢よりは十は若く見せ、時に廟堂を歩いていても「御父様の御用時でも」と本気で尋ねられるらしい。木戸も年よりは数段若く見られる人間だが、山田と並べば親子と見ることもできなくもない。
「どうして木戸さんを苛めるんだよ」
 ネコが挑みかかってくる一瞬前の風情そのままの山田に、大久保はあえて木戸の足が乗っかるソファーに浅く座り、
「貴公、私を天敵だと仰ったので」
「……それが何か」
「天敵とはこういったものではありませんか」
 大真面目に大久保は木戸の目を見てこたえてみた。
 木戸は熟考する構えになったが、山田はそこで声を出して笑い始めてしまった。なんとか笑いを止めようとしているが、それも適わない。
「なにそれ。内務卿、それ本気でいっているんですかぁ。それって……それって」
 腹を抱えて笑い出したので、大久保としてはそれほど自分は楽しいことを言っただろうかと怪訝な眼差しを山田に向ける。
「天敵じゃなくて……それって苛めっ子なだけだよ」
「そうだよね、市。どう考えても……これは。……まさか大久保さん、これも何かの罠とか策謀とかではないでしょうね」
「木戸さん。貴公もいいかげん疑い深い」
「大久保さんについては一にも二にも疑ってかからねばならないと思っていますので」
「それが同僚に言われるお言葉ですか」
「同僚……えぇ同僚としては頼りにしておりますよ」
 にこりと木戸が笑ったので、大久保としては胸元にあったなにか「面白くない」煮え切らない思いがふと消えた。
「なに? 大久保さん。もしかして木戸さんに天敵って言われたのが面白くないの? 自分はちゃあんと協調的な相棒みたいに思っていたものを、それは相手に通じていなくて、しかも天敵なんていわれて……もしかして怒っていたりして」
「そうなのですか」
 体調の悪さを物語る冷や汗は頬に滲まなくなった。熱を測ろうと手を額に伸ばすと、山田が目敏くその手を払ってニタリと笑う。
 変わらぬ冷ややかさで山田を見据えると、ビクリとなった山田はつかさず木戸のもとによるので、あぁそうか、と大久保は思った。
「確かに面白くないようですね」
 山田には微笑んだというのに、自分には素っ気無い木戸の態度が面白くなかったのだとようやく気付いた。
「……別に悪い意味で天敵と使っているのではありません。けれど……この言い方は私は気に入っているのです」
 山田が心配げな顔をしたが、木戸は大丈夫、と穏やかな顔をして答え、体を起き上がらせた。
「喰うか喰われるかの間柄ならば、喰われないために私は気力を振り絞って立つ。大久保さんに弱味を見せて喰われぬように、頑張ろうと思える。そう思えるのは貴殿だけですから、大久保さんは私の天敵です」
「迷惑ばかりをかける天敵ですね」
「大久保さんも私でなければ、あえて構わずに放っておくでしょう。それが私であるために、突き放すこともできず、放置することもできず。辞表を出せば留めるためにあの手この手を尽くし、逃げれば追う。けれど私の言うことはほとんど棄却して、私が悲しんだり悔しがれば悠然と笑われる。見事な天敵関係ではありませんか」
「あくまでも天敵ですか」
「はい」
「それ以外の言葉ではどう表現しますか」
 木戸はその黒曜石の瞳を僅かに伏せ、どこか楽しげに悪戯めいた光をその目に宿す。なにかを定めた目をし、スッと見上げるように大久保と視線を合わせてきた。実にいい。この目にそそられる。この目に惹かれた。そしてこの目ゆえに甚振り、この目と公的に心中するのもまた一興と思えてしまう黒曜石の瞳。
「不倶戴天の敵」
「もうよろしいです。貴公こそ私をからかっているでしょう」
 いいえ、と木戸は頭を振り、静かに笑む。
「信頼はしても信用してはならない同僚と思っております」
 それも本音であり、天敵も不倶戴天の敵も木戸の本音だろう。
 実に厄介だ。こうまで自らが振り回され、迷惑を掛けられ、それでも追わずにはいられない長州の首魁。
「……そろそろ馬車も門前に着いているでしょう。木戸さん」
 ソファーより立ち上がり、大久保は木戸に手を差し出す。
「まだお一人で歩かれるのは無理でしょう。だが私に抱えられるのも御嫌と見受けられますので」
 そのために手を差し出す。この手に支えられ歩くのならば許容範囲だろう、と暗に目で尋ねた。
「支えるくらいならば僕にだってできるよ。木戸さんは僕がちゃあんと馬車に届けるから、お忙しい内務卿はさっさと持ち場にお帰りになるといいですよ。木戸さん……僕……」
「ありがとう、市。本当にいつもありがとう」
 やさしく木戸が微笑んだので、山田は居たたまれなくなったのか、
「僕がもっともっと背が高かったら、ずっとずっと高かったら、木戸さんがさっき廊下で具合が悪くなったときにすぐに対処できたのに。僕がこんなだから……木戸さん……」
 シュンとなった山田にゆっくりと木戸は右手を差し出し、その頬に触れた。
「馬鹿だね、市は。どうしてそんなことを気にするのだい。私が意識が朦朧としたとき、ずっと傍にいて支えていてくれたのに。私は市がいたからもう少しもう少しと頑張れたのだよ」
 やるせない思いに打ちひしがれる山田に慈しみの表情を見せ、頬に触れていた手は泣きそうな後輩の肩にポンと置かれた。
「でもでも、僕が山県くらいに背が高かったら。もっともっと木戸さんの役に立てるはずだよ。よし、僕、背を伸ばすためにまだまだ頑張る。ぜったいにそのうち山県の背を追い抜かしてやるんだ」
 馬車が来ているか見てくるね、と走って出ていった山田を見る木戸の目はやさしくやさしく、あえて優しさに染められているようで大久保としては気になったが、
「では、大久保さん」
 差し出されたままの大久保の手に、木戸はその手を乗せた。
 素直な反応に大久保は顔には出さないが、いささか驚いた。
「ご足労をおかけしますが、私を馬車までお連れ下さい」
 会釈をしあげられたその顔には、山田に向けたやさしさなど一握たりとも浮かんではいない。
 だが穏やかだ。温厚にして優雅な長州の木戸孝允の顔をしている。
(見事だ)
 と、大久保は一言呟きかけたが、あえてそれを言わず立ち上がった木戸を傍らで支えながら歩き出した。
 今、互いの左手と右手は触れ合っている。互いのぬくもりも鼓動もその手から伝わる。それだけでは足りない。その心までも掴もうとすれば、木戸は優雅に身をかわしてすれ違っていくだろう。
 触れ合うまでの手と手との狭間には壁がある。互いに今まで生きてきた環境と、生きてきた上で身に抱いた感情が壁となり阻む。
 心から受け入れることなど永遠にない。すれ違い、逃げ、追い続けるを繰り返し、木戸いわく「天敵」を続けていくしか二人には道はない。
 支えながら覗き見るようにして木戸の顔を見た。
 真っ直ぐ前だけを見るその黒曜石の目には、濁りはない。
 簡単には手に入らない至高の物ゆえに、対等者として執着するのだろうか。この手より逃れようとするのを追い続けるのだろうか。逃げたければ逃げればいい。どこまでも追い続けて、この廟堂という檻に繋ぎ続けるのも一興。
「大久保さん」
 そこで木戸は足を止めた。
「どうかされましか」
「いえ……私はまだお礼も言っていませんでした。今日はありがとうございました」
 あの一瞬見せた素っ気無さも影を潜め、いつもの木戸孝允の顔に戻り頭を下げる木戸を見つめる。
 木戸の瞳も一心に大久保を見据える。
 互いの瞳だけを凝視し、その瞳に互いしか入らぬのを確認して後、大久保は「いいえ」とだけ答えた。
「私に弱味を見せないですむほど健康となりなさい」
「天敵が健康になったら、貴殿は喰って取られてしまうかもしれませんよ」
「貴公にならば本望です」
 木戸はクスクスと笑い、大久保は何一つ表情を変えぬ鉄面皮である。
 互いの手だけはしっかりと握り締められている中で、その手は決して互いを受け入れない事実を噛み締める。いつかその関係も緩和され、天敵の形も変わって行けるだろうか。
 互いの中にある壁は時とともに風化され、壊れいくことを願う。
「木戸さん」
 手を振る山田に木戸はあいている片手を挙げ、
 わずかにふらついた体を大久保が支えると、それを見て、苦く笑った。
 門前には馬車が停まっている。扉を開け、山田が待っている。
 またしても呼吸が僅かに乱れ、だがそれを大久保に見せぬように必死に普段通りにつとめようとする木戸の意地は、これから先もどこまでも「大久保利通」の前だけは続くだろう。それが天敵とただ一人認める大久保への、木戸としては精一杯な意地の張り方でもあった。
「ここでいいです。ありがとうございました」
 歩くのに全神経を費やし、木戸は一歩一歩ゆっくりと前へ歩を進ませ、自然と大久保の手をすり抜ける。
 その手をもう一度取ろうとしたが、大久保はあえてしなかった。そして身を翻し建物の中に入っていく。わずかに左手に木戸のぬくもりの残り香が感じられたが、それも無視し二度と振り返らずに、歩く。


手と手の間の壁

手と手の間の壁

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2007年5月4日
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】