追憶 ― 思い想う ―

前篇

 明治政府の政の中心たる「廟堂」
 ここは政府の中心派閥「長州」の首魁である参議木戸孝允の私室。参議には各々に一室与えられている。
 木戸は窓辺にそっと近寄り、時さえ許せばそこから外を見ている。
 明治四年、春のはじめ。先月には薩摩長州土佐からなる親兵が編成され、新政府の「兵」というのが作り出されている。これは新政府にとって大きな一歩と言えたのだが。
「東京に……梅が咲いたよ」
 この年の七月には薩長が勢力を尽くし為した一大事業「廃藩置県」が断行されることになり、各藩とりわけ西国の雄薩摩藩と政府の間に緊張が走ることになる。その前兆がすでに政府の中にも表面化しているというのに、その中において木戸は当事者でありながらも、一人まるで蚊帳の外のように外ばかりを見ている。
「おまえは梅が好きだったから」
 萩の地で見た梅と、今目の前に咲く東京の梅にはなにか変わりがあるのだろうか。
 窓を開け、届くはずもないのに、梅にむけて手を伸ばす。そうすれば失ったものに近寄れる気がして……馬鹿だと自嘲がもれる。
 今年の春を迎え、彼を亡くしてもう四年が経つというのに、いつまで経っても木戸の心から、彼は消えることはない。
 失ってからの方が心の中で重い存在となったともいえる。
(おまえは光で……私は光に向けて必死に手を伸ばす名もない草花)
 光のおまえが逝って、数多くある草花の私が今ここにある。
「……しんさく」
 慶応三年四月十四日に逝った高杉晋作の面差しを、今も木戸は無意識に探して探して……足掻いていた。
「晋作」
 胸元の裏ポケットには彼の形見の短刀と、渡されたお守りが肌身離さずおさめられており、
 彼のことを思い浮かべるだけでも、胸は熱くなった。
 衣越しに感じる短刀の冷たい感触。それは喪失に直結し、内側より握り締めて、木戸は耐えるのに疲れたかのようにその場に身を崩した。
 この場に人がいなくてよかった、と心から思う。人が見ればきっとため息をついて、そして悲しい目で自分を見ることを知っている。
『木戸さん、いつまで高杉さんたちに捕らわれているのですか』
 伊藤に何度言われただろう。井上などは『桂さんよぅ』といたたまれない顔をするのだ。
 彼らは未来に思いを馳せ、自分は過去に思いを封じている。
 その明らかな差は決して埋まらないことに、どうして誰も気付かないのだろう。
 長州の首魁として過去に死した人の死を無駄にせぬために、この国のために働きに働く。
 人はそんなことを簡単に言う。
 それが死した人のためだ、と当たり前の顔をして言う。
 どうしてわかる? 死人がそれを望んでいるとどうしていえる? 死した人間がなにを思っているかなど永遠にわかるはずもないではないか。
(私は……ダメだ)
 みんなが言う言葉を十二分に理解しているというのに、けれど納得できるかと言えば別の話しとなる。
 生き残った命。「生きて生きて……必ず大望を」と託されたこの身。
 ……けれど私は……おまえたちが忘れられない。
 屍を乗り越えて生きることなど、私にはできそうにない。
「晋作……晋作! 晋作……」
 手を伸ばそうともその手は空を切るばかりだ。
 伸ばせば届いた幼馴染のやさしく温かな手。「桂さん!」と握り返されるのが当然だった日日。
 二度と戻らぬことを承知しながら、それでもこの手を伸ばすのは……滑稽かもしれない。愚かなことでしかないかもしれない。二度と帰らぬと知りつつも、この手を伸ばせばいつか触れてくれるのではないか、と一握の期待が胸によぎる。
『桂さん』
 そう呼んで、この体を抱きしめる幼馴染の熱を、もう一度だけ知れれば、少しだけ強くなれるかもしれない。
「身勝手でごめんね」
 顔をあげれば遠くに梅が見える。
 質実に咲く赤。椿の色とも、牡丹の色ともちがう赤。木戸はあの梅の「あか」がとても好きだった。
 梅見を共にした幼馴染の顔を思い浮かばす「あか」は、今は嫌いだ。
 少しだけ気分を変えるために木戸は窓を開けて、大きく空気を吸い込んでみた。清冽した空気は心に「ゆとり」を持たせ、目頭の熱さをも取り去っていく。
「まだ大丈夫だよ」
 もう少しだけ自分を保って、どうにかこの国のために生きてみせる。
 生きて、この国の行く末を見届けて、見尽くしてこの身はなんの役に立たなくなったら、そちらに迎えて欲しい。
 ……手を差し伸べて、おまえを呼ぶのも許しておくれ。
 差し伸べても握り返してくれないけど、この手を差し伸べるとおまえがそっと触れられずとも手を添えてくれているような。そんな夢見がちの気分にさせてくれる。
(いつまでも頼ってばかりの私を……許しておくれ)


「木戸さん、まだ春風も冷たいですよ」
 伊藤がその部屋に戻ったとき、窓は開放されており冬から春に移り変わる際の冷たいが柔らかな風が頬を刺す。
 木戸は本人はあまり自覚していないようだが、体がめっぽう弱いのだ。冬から春にと季節が和らぐこの時期は、昔からよく熱を出した。
「この季節の風はとても心地よいのだけどね」
「体には良くありません」
 バタンと英国風に作られた窓をきちんと閉め、木戸の傍らに伊藤は進んだ。
「ご自分のお体を大切にしてください。木戸さんの体は我が身一つのものではありません。この国家全体の……」
「聞き飽きた言葉を言うね」
「木戸さんは自分の身の大切さを理解していない」
「大切? 私が?」
「貴方は……」
「俊輔、よく覚えておきなさい。いざ仕事に関しては自分だけができる、という思い上がりをもってはいけない。必ず代わりなど何万といるのだから」
「木戸さん!」
 こういうときの木戸を伊藤は殴りつけたいと思い、その衝動を下唇を噛んで必死に抑える。
 どうしてこうなのだろう。この人は「自分など」と自らを過小評価し、決して一握の驕りも抱かない。
「長州には貴方の代わりなど一人としていません」
「いずれわかるよ」
「そうやっていつも! だから貴方は……今の貴方の姿を見たらどれだけ高杉さんが悲しむか」
(僕は……いつもこうだ)
 口走ってから必ず後悔する。もっと考えて落ち着いて物を言えばよかったと自己嫌悪に陥る。
 言ってはならない言葉は把握している。木戸の前で「高杉」の名は一番の禁句で、その名は悲しみしか持たせないというのに、それでも激昂すると言ってしまうのだ。
 あの長州の奇才高杉晋作を、今際の際まで不安に苛まさせ、最期の最期まで「桂さんを頼む」と言わせた木戸孝允。
 あの高杉がいつも誰にも向けない無邪気な笑顔で「桂さん」と呼んで追いかけて。ただ一人の特別だと周囲を憚らずに公言して、決して離さなかった木戸孝允。
(貴方は高杉晋作の……特別なのですよ)
 木戸がこう「自分など」と自らの価値を貶め、代わりなどいくらでもいる、と平然と言ってのける姿など見たくはない。
 風のように颯爽と駆けた長州の貴公子桂小五郎は伊藤の憧れだった。時に策士で、時に子どものような顔をみせ、時に決して信念を曲げずに、けれどやさしいこの人は憧れで、飾りない敬愛を抱き、そして羨ましかった。
 その桂の傍らに平然と並ぶことが許された高杉晋作に向ける感情も、伊藤はどこまでも尊敬と憧憬と親しみ。いつも限りない思いを二人に寄せ、二人の背中を見ながら駆けていきたいと願った。
 だが今はどうだ。高杉は消え、伊藤が慕った桂小五郎は名を改め木戸孝允と名乗って以来、人が変わったように儚く、現実味がなく、あの国の革新にかけた揺るぎない信念も情熱も、今では一陣の風にかき消されたのか。脆くなりすぎた。
 同士を失った心の疵はそれほどに重いですか?
 貴方だけではないのですよ、大切な人を失ったのは。
 どうして屍を乗り越えて、死したものたちのためにも、死した人たちの思い描いた国のためにも、自分が生きて実行しようとしない。
 木戸は……今の木戸の姿は伊藤を苛立たせ不安にさせ、言いたくもない言葉を言わせる。
「高杉さんだけじゃない。貴方の義弟の来原さんも、周布先生に松陰先生も。久坂さんに栄太に入江さん……」
「…………」
 木戸は遠い目をした。
 その目に伊藤は映っていない。暗闇の瞳に映るのは、木戸の望むものであり、、今はこの世にないものばかりといえる。
「いまの貴方はもう長州の桂小五郎ではない。今の貴方は……いったい誰ですか」
 たゆたう視線がゆっくりと覚醒するように伊藤の前に降り立った。
 怒りでもいい。なにか活力のある言葉が聞きなかった。木戸が「長州の首魁」と思える言葉を心から望んだのはこの時が最期であったかもしれない。
 ツーッと木戸の右目より一滴流れ出でた涙は何の感情だったか。
 その涙が頬を伝い、ポトリと落ちていったそれは……なんの意味があるのだろう。
 思わずポカンとした顔で伊藤はどこまでも涙の行く末を辿った。
 消え去ったときに胸に去来したのは、怒り半分、悲しみ半分である。
「貴方の心の中に僕たちはいないのですね」
 矛盾した感情を必死に握り締めて、伊藤は逃げるだけが精一杯だった。
 このまま木戸の傍にいればさらに傷つく言葉をいってしまう。また泣かせてしまうかもしれない。苦しめて、傷つけて……涙を流させた。
(僕は……)
 あなたの心を誰よりもわかっているつもりだというのに、
 どうして僕はいちばんに言ってはならない言葉を言ってしまうのだろう。
 儚げな木戸の姿を見るたびに、胸によぎるこの悲しみをどう胸におさめればいいのだろう。
 憧れて、誰よりも憧れて。尊敬し愛した誰よりも前を駆けてくれる木戸孝允。
(僕は今のあなたのようにならない。僕がなりたいのは……昔のあなたでしかない)
 腹立たしく、苛立たしく、悲しく、苦しく……けれど。
 きれいだった……あの涙に自分はドキリとした。


 兵部小輔山県有朋は、木戸の顔を見るために廟堂の廊下を歩いていると、前方から駆けてくる伊藤の姿が見て取れた。
 呼び止めるつもりもない。立ち止って話をする間柄でもなければ、そんな動作ひとつ面倒であり、話をすれば角突き合わすだけともいえた。
 そのため山県は視線も合わさずにすれ違うつもりだった。
 が、思いもよらず伊藤がすれ違いざまに山県の背広の袖を引いたのだ。
「…………」
 山県は足を止め、並んだまま下を向いたままの伊藤の顔を見る。
 時折あるのだ。こう……致し方がないときが。
 吐息をひとつ落とし、反対側の手で伊藤の肩をポンと叩いてみた。
 不思議なものだ。本当に弱りきったとき、伊藤はその顔を誰にも見せない。親友の井上になきつくこともしなければ、伊藤に懐いている部下に見せることなど決してない。
 おかしな所で弱味を見せるのが嫌いだというのに、どうしてだろう。
 昔からだ。犬猿の仲と言われる山県にだけ見せる。
「木戸さんか」
 それだけを尋ね、伊藤もコクリと頷いた。
 他の人間に弱りきった顔を見せれば立ち直れない伊藤。だが己に見られたとなれば発奮し、その力ですぐに立ち直れるといったところを山県もよく理解していた。
「僕……また傷つけることをいったからさ。また泣かせたから……。だから……ちゃんと見てきて。それから食べなくなるかもしれないから、ちゃんと……」
「伊藤」
「僕ね……おかしいよね。木戸さんの涙を見るたびに怒りもするし悲しいし。傷つけて、けどさぁ。あの涙を見ると僕の方が弱くなる気がする」
「おまえは弱くはない」
「山県に慰められるの? この僕が」
「冗談ではない」
 山県は伊藤の手を振り払い、そのまま木戸の私室に向って足を向けていく。
「山県」
 呼び止める声だったが山県は無視した。
「僕は確かに弱くなってはならない。僕が弱くなったら、今以上に木戸さんは弱くなるから」
 当然のことをなにを言っているのか。
 山県は木戸の私室の前に立ち止り、扉を三度叩いた。
 中よりの返答がない。静寂だけが立ちのめる場を撃ち破るために扉を開ける。
 木戸がいた。
 窓の前に立ち、遠い目をして外を見ている。
 山県の存在はその目に入っていなかった。


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追憶 ― 思い想う -1

追憶 ― 思い想う ―

  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】