月と陽の指輪

前編

 その日もまた太陽の日差しが人の身を焼く猛暑の一日。
 季節は葉月。新暦になおせば十月中旬。暑さもとうに落ち着いているころだろうに、今年は真夏よりも今の時期の方が暑い異常気象だ。
 廟堂では連日評定において「議論」が白熱していたが、その中に重鎮の一人参議木戸孝允の姿はない。
 暑さが病の身にはこたえたのか、先ほど少しばかり涼しい場所で休息する、と出て行ったきりもどる気配がなかった。
 伊藤博文が心配げに何度も扉を見ては、一瞬の逡巡の後に、聞いてもいないだろう議論に耳を傾けている振りをしている。だがよほど気になるようだ。もはや何度目か知れぬ振り返りの後、バン、とテーブルを叩いて立ち上がった。
「申し訳ありません。木戸さんが心配ですので、様子を見てきます」
 長州の首魁たる木戸に対して伊藤の世話好きは有名である。他藩のものは「またか」と思ったが、思えば退出する際の木戸の顔色はすこぶる悪かった。木戸に対して過保護を通り越している伊藤としては放ってはおけない事態だろう。
「私が行こう」
 上席の三条太政大臣に退出の許可を目で訴えていた伊藤を制したのは、陸軍師団の増員についての議題の決議のために顔を出していた兵部大輔山県有朋であった。
「伊藤、私の用は終わった。留まらねばならない用件もさしてない」
 伊藤はさも恨めしげに山県をにらんだが、租税頭たる伊藤の用件はまだまだこれからでもある。
 いたし方ない、というこれぞ不承不承という体で椅子に座した伊藤は、
「山県、木戸さんなんだかおかしな咳をしていたから風邪かもしれない。それから……熱でもあったら必ず部屋の戸棚に入っている薬を嫌がっても飲ませて。あとは……夏ばてとかいって昼食をとってないから、軽めの何かを食べさせてほしい。頼むよ」
 この場にあるものは、一応にいつものこと、と慣れているとはいえ、互いに思ったことといえばこういうことだろう。
 ……木戸参議は子供でもなかろうに。
 体調の心配から食事の差配まで……これでは後輩たちに「子ども扱い」を受けているとしか思えない。
 盆が過ぎても暑さは一向におさまらず、むしろ気温は上昇しているのではないか、と思わせる昨今。
 山県ほど暑さの対策もせぬ衣服を着ている男もいなかろう。今日は廟堂にあるため背広を着ているが、たいていの人間は着崩しているいるというにベストまできちんと着込み、シャツも釦ひとつはずすことはない。ネクタイなどはきちりとしっかりと結ばれている。
 皆が内輪や扇子で身をどうにか涼しくしようと扇いでいる中、暑さなど感じさせない……むしろ山県の周りだけ北国の永久凍土の気でも漂っているのではないか、とすら思わせる冷風に身を包まれ、もとより雰囲気は地獄の深淵の如し闇を抱く者のためか……山県の周囲は実に寒々としている。
 噂だが山県の周囲にあると気温が五度は下がる気がするらしい。そのため夏は山県の傍に人だかりでき、本人としては迷惑至極だという。逆に冬になると傍によるものは極端に減る。この東京の空っ風を伴う寒さをさらに増強させる北国の永久凍土の如し冷風は、人の心をも寒からしめるのだ。
 伊藤に頷き、部屋から出て行く山県を人は思い思いのままに見ている。
「伊藤、山県はあれで暑くないのか」
 右大臣兼外務卿岩倉具視の問いに、伊藤は「ははは」と笑った。
「夏に山県が暑いというのを僕は未だに聞いたことないですよ」
 もはや腐れ縁に近いほどの付き合いであり、その付き合いは今後も嫌というほど続いていくこと疑いなしだが、おそらく一生聞くことはないだろう、と伊藤は思っていたりする。
 天敵の伊藤からして、夏の暑さに屈服した際は、なんらかんや理由をつけて山県の傍におり涼を思う存分感じているほどなのだ。夏の山県は重宝されている。
「あれは化け物か」
 岩倉の言葉にみながうんうんとつい頷いている中、大蔵卿大久保利通がじろりと伊藤をにらんできた。
 明治四年葉月二十日。
 この年の十一月に岩倉具視を正使とする使節団が欧米に派遣される。その副使の任をめぐって政府内では水面下で駆け引きがされている時期でもあった。
 英国留学経験もあり、この年にも貨幣制度調査のため米国に渡っている伊藤である。欧米事情には詳しく、それなりに英語が堪能だ。そのため早々に伊藤には道案内役も兼ねた副使の任が内定されている。
 残りの副使の任は三人。果たして誰があたるか。
 政府の実力者たる薩摩の大久保は、民部・大蔵省のいざこざもいったんは収束したのを見て、自らが副使として洋行することをもくろんでいた。そして大久保の狙いとしては、もう一方の長州の長たる木戸も洋行に同行させたいと考えている。
 木戸も洋行には前向きだ。あの開明派の巨頭で好奇心の虫は異国という新世界に興味津々でもある。だが政府の実情からして長州寄りの三条太政大臣は、自らの保護者とも思い頼りにしている木戸の洋行には至極反対の立場を取っている。そればかりか留守政府と、使節団の間には「機密文章」が取り交わされ、そこには使節団の許可なく留守政府が政策を実施することを不可とした文言が記されていた。留守政府とはいえ政府。これには相当に怒り心頭のようだが、とりあえずは今は押さえている。これで両者の間がぎくしゃくしないはずもなく、副使の任についてはもう一波乱がありそうだ。
 一人使節団副使に内定している伊藤もまた、木戸をぜひとも副使として欧米に連れて行きたいと目論んでいた。
 幕末のおり長州がたどった悲惨な末路により、維新を見ずして失ったおおくの同志を木戸は忘れてはいない。
 季節がまた繰り返されるたびに、特にこの時期は物思いに沈む。
 八月十八日の政変、蛤御門の変、池田屋事変、第一次長州征討、四国艦隊下関砲撃。
 夏は、木戸には悲しみの象徴ともいえる。
 心の問題だろう。夏と春はよく……病む。
 そこで伊藤はこう考えた。もとより開明的な思想の持ち主たる木戸だ。異国でいろいろなものを見、その手で触れれば、わずかでもその心にある「悲哀」が緩み、前に進む活力となるのではないか。
 今にも消えてなくなりそうな木戸に、わずかでもいい。前を……未来に進む活力に「洋行」はなってくれるのではないか。
 大久保の目がまだジッと無機質な色合いで伊藤の瞳に絡む。
 伊藤にして見れば、かの大蔵・民部省問題のいざこざもあり、またことあるごとに伊藤・大隈などが出す政策に反対を述べる大久保という人物は面白からずだ。
 民部省は徴税を為す役所である。当時の民部大輔たる大隈重信と大蔵小輔だった伊藤は、国家の財政の枠組みの明確化と権力集中がため民部省と大蔵省を合併する案を提出し、通した。この二人の後ろには木戸と三条という大物が後ろ盾としてあったのが大きく左右した。
 だが、だ。すぐにも合併に反対の趣旨が評定であがる。大久保をはじめ長州の広沢、肥前の副島、土佐の佐々木といった当時の四参議が地方官を味方につけ反撃に出た。その結果、大蔵省よりまたしても民部省は分離され、責任と怒りを突きつけるために民部大輔を大隈は辞任した。
 再分離された民部省から大隈に近い人間は全て放逐され、まさに大久保に近い人間で固められている。合併問題の背後にあった木戸と、大久保とはこの民部省問題も一因ともなり実に冷めた関係となった。開明派で大隈、伊藤と路線を同じくする木戸と、保守派で斬新な早すぎる改革は望まない大久保の溝は実に深いが、それども重要法案で国家の一大事となればこの二人は足並みをそろえる。不思議な関係である。
 大久保と大隈との間に分離後に妥協が成立し、民部省の一分野であった工部が独立され、四ヵ月後に再び民部省は大蔵省に合併されることが決定され、つい一月前。明治四年七月二十七日に正式に合併を見た。 これをもって大久保との一見は表上解決するに至ったが、
『いっそ大久保に大蔵卿をさせてみろよ。この持ちつ持たれつの両省の実情がよく分かるだろうよ』
 と、最期の民部大輔井上馨がニヤリと笑っていった。
 合併のほぼ一月前に「大蔵卿」に就任した大久保は、巨大官庁としての「大蔵省」を危惧している。妥協により合併したが、民部省が行っていた徴税だけは大蔵省に残すとしても、それ以外の行政分野(警察機構、土木、地方自治など)は分離させ、新たな省を創らねばならないという思いを強くさせた。つまりは大久保自身が、旧民部省が担っていた行政分野をもって独立させた省が明治六年に誕生する内務省である。 大久保のこの考えは、政府内で巨大官庁としての大蔵省を危惧する意見が数多くあったため実施されるにいたるが、これは数年後の話。
 今はようやく民部省が大蔵省に合併され、この大久保と大隈、伊藤らの戦いが一先ず収束して間もないころ。
 民部大輔から大蔵大輔に転じた井上と、大久保との仲はいたって良好とは言えないが、それなりに仕事をしている。
(ふしぎだなぁ)
 これほどに戦いを挑み、時に憎んだことすらある大久保なのだが、不思議なことに伊藤は、大久保の目が何を突きつけているのか大まかに判ずることができた。
 ……木戸さんの病はこの時期ゆえに困る。
 さっさと連れ戻して来るといい。
 洋行を控えての病の印象は、副使の任への支障としかならない。
 大久保の思惑など伊藤にはよくわかる。自分が留守中に国内に木戸を残していけば、あの開明派の巨頭は若手の急進派の意を汲み、どれほど自分とかけ離れた政策に打って出るか。
 実力者の大久保としても、自らと並び立つものたる木戸の動向は常に掴んでいなければならないものといえた。それが洋行で国内と欧米とに離れ、意を掴めない距離をつくってしまったならば、あの木戸だ。誰の意にも耳を貸し、主義を同じくすれば惜しみなく尽力する。まさに若手に取り込まれてしまうのではないか。それは大久保にとって真の恐怖ともいえた。
(大久保の思惑などどうでもいい)
 僕は、あの人生を生きるのに疲れてしまっている人に、
 もう一度だけ希望の光をともしたい。
 あの風のように駆けた志士。毅然とあり、常に沈着冷静にあった意思の鬼ともいえる桂小五郎の姿を、今一度伊藤は見たかった。
 ……本当に、ただそれだけ。


 山県は廟堂内を少しばかり足早に歩いていた。
 私室で当然休んでいるだろうと思っていた木戸だが、部屋にもおらず、廟堂内でいちばん涼しいはずの図書室にも姿はない。
 いったいどこで休んでいるのか。
 山県の頭に最悪な状況が浮かんでは、消えていく。
 夏に弱い木戸ゆえ、ここ数日の遅れてきた猛暑にはまさに夏ばて状態で食事もほとんど口にしない状態だったことは知っている。伊藤がくずきりやところてん、あんみつなどどうにか喉を通るものを仕入れ、まさに無理やり木戸の押し付けているのも何度も見た。そのすべてを木戸は拒絶し、身に入れるは冷茶ばかりという惨憺たる状況である。
 これで倒れない方が不可思議だ。しかもこの炎天下。室内といえどもかなりの温度だ。ふらふらと歩き、どこかでばたりとなっているのではないか。
 視線を横にやり、山県は炎天下の外を窓から見てみた。今日もうだるように暑い。人にはまさに「寒々しい」と見える山県だが、口にはのぼらせないだけで十二分に暑いのである。
 太陽の日差しが今が一番に強い時期だろう。
 その最中にあえて外に出るものなどあるのだろうか。
 内ポケットより拭いを取り出そうとしたが、現れたのは近頃刺繍にこっている妻友子特性のレースのハンカチだったため、思わず絶句した。わずかにハンカチを握り締め、まるでその存在を一切見なかったことにするかのように……そのまま内ポケットに押しこむ。
(油断も隙もない)
 人呼んで良妻たる元小町は、こうして夫たる山県を散々に困らせてくれる。
 一瞬にして暑さが引き、薄気味悪い悪寒に包まれたため、山県は吐息をこぼし、そのままその場から立ち去ろうとして、
 何気なく窓にもう一度視線をやった。
 太陽の日差しは、暗闇の山県の瞳とは相性が兎角悪い。日の光の中はまさに己の行動場所ではないと知らしめているかのような光だ、と思わずにいられないほどだ。
 それでも、相性が悪いと思いつつも空を見つめ、太陽の光を浴びてしまうのはなぜか。
 人は届かぬものによりいっそう惹かれるというが、己にとっての日の光とは然様なものか。
「滑稽だ」
 思わず心情が声となって漏れてしまい、苦笑を漏らした山県は、早々に木戸を探さねばと頭を切り替える。
 悠長に外など見ている暇はなかった。あの人はどこかで倒れているかもしれないのだ。
 窓辺より一歩、二歩と遠ざかったが、その足は不意にピタリと止まった。視界によぎったものがあったのだ。
 ……大樹の下に人の影がなかったか。この猛暑の中で日影とはいえ外に出ているものは、いったい何を考えているか。
 普段ならば「我関せず」の山県というのに、この時だけは何かの予感もあり、数歩後ろに戻り、もう一度窓より目を凝らして外を見る。
 今は太陽の日差しをめいっぱいに受け、時折ざわつくように風に葉を揺らす桜の大樹の下に、一人の青年が幹に体を預けて座している。
 視力が人と比較しても数段とよい山県は、半町(約五五メートル)はあるだろう距離も鮮明に目に写し取る。
 大樹に寄りかかるその青年は、微動だにせずジッと空を見ていた。
 時折伸ばされた前髪を風がたわむれるかのように揺らす。
 この猛暑の中の外で、しかも背広を着込んだままでいる。日陰といえども、相当の暑苦しさだろう。
「……木戸さん」
 いったいあの人は何を考えているのだ。
 会議より退出する際の顔色を思い出し、自然と山県は歩を早めて外に向かう。
 木戸は昔から暑さがとかく苦手なのだ。
 ほうっておくと、人知れぬ場所で「ばたり」
 これを何度繰り返せば気がすむのだ。
 廟堂を飛び出し、焼け付くかのような太陽の光を浴び、一瞬にして身にまとわりつく不快な暑さに気分をめいらせながらも、山県は走った。
「木戸さん」
 大樹の前で、できるだけ感情を引きこめた無機質な声で呼びかける。
 木戸は微動だにもせず、大樹の葉による日影に身を覆われつつ、まるで焦がれるかのような目をして太陽にどうにか視線を向けている。
 太陽のまぶしさに目を焼かれても悔いはない、と言うかのように。
 ひたすらに、ただ、太陽を見る。
「いかがされた、木戸さん」
 暑さにより目も耳も麻痺しているのではないか。
 何度も呼びかけようとも木戸からは応答はなく、視線も動くことはない。
 目を細めて太陽を見る。その光に目は相当に痛むのだろう。無数の涙がぽたりほたりと落ちていっているのが見えた。
「木戸さん」
 たまらずに山県は木戸の肩をたたくと、
 びくりと肩を浮かし、ようやく木戸は視線を傍らに立った山県に向けて移した。
「おや……狂介? どうしたのだい」
 のほほんと答えた声に、山県は気が抜けた。
「日の光を焦がれるように見ていた。……いかがした」
「どうともしないよ」
「このような暑い中、外にいるのはどうかと思う。顔色もよろしくはない」
 退出したときよりもさらに青ざめていることが気にもなった。
「部屋に戻るとしよう。氷枕でも用意させる」
「……狂介」
「はい」
「私はここにいるよ。今日はこうしていたいから」
「貴兄の身が持たない」
「……ここにいないとならないのだよ」
 山県は強引に木戸の腕を引っ張った。
「狂介」
「陽を……空を見たいならば部屋から見ればいい。体を外気に晒し、また弱らせていかがする」
「……ここからがいちばんによく見える」
 あえて山県の手を払い、木戸はまた視線を空に移した。
「木戸さん」
「忘れたのかい、狂介。今日は葉月二十日。……今年こそは見れるかもしれない」
 なにを言いたいのか、山県には暫時意味不明な状態が続いた。
 八月二十日? 今年こそは……。
 ……言われねば本日の日付すら明確に浮かばぬ忙しなさにある山県は、ようやくその日付が持つ重大さを悟る。
「八月二十日……」
「狂介」
「そんな時期になったのか」
 一日一日の日付は忘れようとも、この日付を忘れることなど永遠にあるまい。
 脳裏に浮かぶ一人の人間の強烈な面差し。
「暑いはずだ」
 一言呟き、とりあえずは木戸の傍らに座す。
 人に「冷たい」といわれる手を、木戸の額にそっとあててみた。
「心地よいね」
 木戸は軽く微笑み、山県の肩もとにゆっくりと身を預けてくる。
 伊藤が危惧していた熱はどうやらないようだが、顔色はしごく悪いのが山県には気になった。どうにかして、一刻も早く部屋に戻し休ませねば、と頭をめまぐるしく転換させているところに、
「……おまえがいなくなって五度目の八月二十日だよ、晋作」
 小さな声が聞こえてくる。
 囁いた木戸は、そっと握り締めていた右手をとき、掌に乗っている鈍く光るものを山県に見せる。
 「今年こそは」と木戸が叫んだ理由を、山県は悟った。


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月と陽の指輪 -1

月と陽の指輪 1

  • 【初出】 2007年8月30日
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】高杉晋作誕生祝作品