雪に映える懐影

前編

 大正十一年一月、小田原古稀庵。元老山縣有朋が終の棲家に選んだこの地に、今は雪がしとしとと落ちる。
 縁に座し、一人……己が好む庭を見据えながら、
 病床にあるこの身。また老いた身には冬の寒さはこたえるものです、と先ほど妻貞子が体にかけていった羽織が少しだけ体を温める。
 二十以上も年が離れたこの身の世話を懸命に焼く貞子は、元芸妓で山縣が日清戦争に第一軍司令長官として出征する際に後添いとして椿山荘に迎え入れた女だ。
 あれはもはや遠い昔。明治も中ごろ、とある宴会に井上馨に強引に引っ張られ連れて行かれたときに出会った。
 まだ少女の垢抜けぬ半玉(芸妓見習い)の貞子の顔を見たときに、密かに思ったことといえば、
(友子に似ている……)
 ただそれだけと言える。
 己が女房の少女時代の面差しをわずかに宿している……それだけの半玉。それで総ては終わるはずだった。
「あなた。有朋さま」
 この世で、この己を「有朋さま」と名で呼ぶのはこの女だけではないか。過去にも既に短い先にもおそらくおらぬだろう。
「そろそろ風が冷たくなってきました。中に入り横になって下さいませ」
「……いや、まだいい」
「ここでさらに病んで動けなくなりましたら、みな悲しみますよ」
「よう言う。この私がどうなろうが悲しむものなどしれておろう」
「えぇ」
 五十を過ぎていように、時折貞子は少女のように初々しい笑いを口元に滲ませる。
「まずは東助さま。それから松子さま。大勢のお孫さまたち。それから清浦さま……の順番でしょうか」
 その順番はいったいどこから付けられたのだろうか。
 だがあながち間違っておらず、山縣は眉間に左手をあてた。
「これから東助さまがおいでになりますのよ。風邪を悪化させていたなら……あら大変。しばらく帝都に戻らずにここであなたの看病をしますでしょうね」
「貞子よ」
「はい」
「いま少し、ここに一人でいさせよ」
 貞子はまた何かしら口を出したが、最期には「仕方ありませんことね」ともう一枚羽織を山縣の肩にかけ、ソソッと足音も立てずに奥に消えていった。
 あの底抜けの明るさに救われている。
 平田東助の私利私欲を一握とも匂わさず、ただ己に忠実であろうとするあの怜悧な姿に救われ、
 三男四女という子どもを儲けながらほとんどが夭折し、唯一残った娘松子と大勢の孫という身内に囲まれると、時折心は安らぐ。
 幼少時より身内にさしたる縁もなく、温かさも優しさも知らずに育った時と比較すれば、今の己はなんと得がたい宝に囲まれていよう。
 されど……この心の虚しきありようはなぜか。
「……友子」
 とうの昔に逝った妻の名を、淡々とした声で呼ぶ。
 馬関小町と呼ばれるほどきれいな女だった友子には、後年はいつもはかなさと悟りに満ちた慈愛が付きまとい、それが不意に狂気に転換されるときも多かった。
 次女松子を残しほとんどの子をその腕に抱いて見送り、一人一人子を失うたびにもとより繊細だった友子の心に皹が入り始めたことを山縣は自覚していた。
 それでも子を、と望むただ一人の妻のために、子が生まれ育てば昔のように明るくきれいなものをよく好んで満面の笑みを見せた友子に戻るのではないか、と。
 子を宿し子を育て失うことを繰り返し、狂気と悲しみに身を崩し病で友子は明治二十六年に逝った。
 あれからどれだけの月日が過ぎただろうか。
(およそ二十七年……か)
 よくも己はこうまで長生きをしたものだ。
 山縣は庭を見据えつつ、その雪に妻の面差しを重ねた。
 後添いとして娘にも等しい年の貞子を迎えながらも、心の奥底ではどこまでも山縣の妻は友子でしかなく、貞子もそれはよく心得ている。そう……あくまでも友子に面差しをよく似通わせているためだけに、貞子は山縣公爵家の後妻として迎えられたのだ。
 あの明治の時も今は随分と昔のように、山縣の目には映る。
 添うたその時から、山縣は貞子を「妻」ではなく「娘」のように思い、
 誰もが「仲のよろしい」夫婦と称える中でも、二人は添うた時より最期の最期まで「夫婦」にはなり得なかった。
「友子よ」
 声はゆっくりと降る雪に吸い込まれていくかのように、消える。
 思えば、あの女にはよく雪が映えた。
 山縣がかの高杉晋作が築きし長州「奇兵隊」に入隊し、数ある戦に借り出されていたあの幕末のころ。石川良平が娘友子を、見出した。
 初対面で思ったは「同類」の二字に尽きる。
 誰もがその初々しいまでのきれいさに目を惹かれる中、山縣は一回りの年の差がある友子の瞳に目を奪われた。
 この世に悟りと諦めを持ち、そして誰をも身の領内にいれず、どこまでも穏やかさと同様に冷めた目で人を見る。
 人を自らの領内に入れず、人の領内には入らず。
 この女とならば、生涯うまくやっていけると思った。
 山縣も人の領内に入るを好まず、土足にて踏み入られるのを極度に嫌う。こんな己の妻は、それを心得、互いに互いを干渉せず、夫婦でありながらも一歩引いた関係を築く女でなければならない。
 求婚に石川家を訪れたあの時も、雪だった。
 萩は冬は日が照ることはほとんどない地で、道端に咲く無数の椿も日の光を浴びぬゆえにどことなくしおれて映ったのを覚えている。
「お断りする」
 奇兵隊軍監山縣狂介の求婚を、石川は即答で断った。
 石川はもとは黒井村の旧家出身で、その後宇賀村の庄屋の養子に入った男である。明治二十四年には下関市の二代目市長に就任している。
「貴殿の如しものの妻に、娘はようつとまりますまい」
 シーンと静寂な音が耳についた。シトシトと降る雪の音すらも聞こえそうなそんな嫌な沈黙の瞬間。
 当時奇兵隊は「聞いておそろし 見ていやらしい 添うてうれしい奇兵隊」と持て囃されてはいたが、荒くれどもの集団という見方が主だったものであった。
 その親玉に等しい幹部の妻に娘はやれぬ、という意思表示に等しい。
 山縣はただ会釈をして、石川家を去った。
 二年後、薩長連合に際しては薩摩藩邸で西郷・大久保と協議し、島津久光への謁見が許され、長州藩主への伝言を預かるほどに若手の有望株に成長した山縣に、「友子をもらって欲しい」と石川が自ら頭を下げ頼み込むこととなる。
 それは未だ先のこと。この後、山縣は二年もの間、友子という存在を頭から消し、戦に生きることとなる。
「そう……あのときだった」
 石川家を後にする山縣を、友子が追いかけてきたのだ。
 無言で差し出す守り袋を、言葉なく受け取ったあの雪の日。何があろうともこの女を妻とする、と決めた。
 今、八十を越えた己が横に、友子はいない。
 晩年はともにただ横にありて、縁に座し歌でも読もう、と誓った妻は……いない。
 雪に映える友子の顔は、いつまでもきれいな己の傍らにあった頃の姿。山縣の目にはいつまでも色褪せることはない。
 少女の友子も、華燭の典の時の友子も、子をなしたときの友子も……そして死化粧を施された友子も、総て覚えている。
 雪に映る友子の幻影は、いつも艶やかに着物を優雅に着こなし、軽く振り向いて「だんなさま」と優しく微笑む姿。
 思い出せば思い出すほど、山縣は友子が好きだ、と思えた。
 生前友子に口に出して告げたことなどほとんどないだろうに。今なら何度でも言えそうだ。
 家に戻れば必ず山縣に向けられた笑顔が胸に痛いほどに懐かしく、思わず雪に手を差し出し幻影に感触を求める。
 かえるは冷たい雪の感覚でしかないというに。それでも、望んでやまぬ人の温かさ。
「迎えは、まだか。友子」
 いつになれば、またおまえの笑顔をこの目で見れようか。
 雪に映るはただ消えゆくはかないまでの幻でしかない。
 時には貞子に「もしも友子が生きていたならば……このように老いたか」と思いをよぎらすことはあろうとも、それは友子ではないのだ。
「私はいつまで生きればよい」
 わずかに呼吸が乱れ、息があがっていることが知れた。
 体が妙に熱い。そういえば病床の身であった、と口元に苦笑いを刻んだときに、体がわずかに揺れる。
 目の前がぐらりとなり、強烈な眩暈が視覚を奪い取る中で、
『なぁ狂介よ。自分は……花の下がよいんじゃ』
 唐突に耳によぎった紛れもない幻聴に、らしくもない、と山縣は笑った。
 今日は妙に故人の思い出ばかりがよぎる。そろそろこの己にも「死」という摂理が迫ってきていようか。
 縁にバタリと倒れようとも、意識はまだ残っていた。
 わずかに左を殴打した痛みが体内を駆け巡ろうとも、重い瞼を開いた先に映るはまたも懐かしい面影。
「高杉さん……」
 幻覚と知りつつも、山縣は小さく呼びかけた。


 あれもまた雪の日だった。
 慶応元年十二月。ここ下関吉田にある奇兵隊屯所には幹部が集まり、にぎやかな宴が催されている。
 奇兵隊軍監山県狂介は、もとよりにぎやかなものを好む性情ではない。酒というものは風情を肴にして嗜むものだ、と常日頃より考えている。
 ころあいもよく皆が酔い始めた。あるものは裸踊りをはじめ、あるものはよく分からぬ歌を大声で歌い始めている。
 アレは三浦悟楼と鳥尾小弥太か。
 山県は一つ小さな吐息を漏らす。
 三浦は自らが「音感」というものが極度にないことを知らない。鳥尾は酔うと普段はまともな音程がことごとく外れることを理解していないようだ。
 徳利と杯を持ち山県は宴を抜け出した。
 ちっぽけな庭だが、松にかかる雪を見ながらの酒の方が風情がある。
 奥より流れてくる喧騒を無視し、一人酒の味を楽しむ。あの風情を一欠片も理解しない人間と飲むと頭痛すら覚えるほどだ。
「おう……狂介。一人抜けるとはいい度胸をしているなぁ」
 そこに徳利片手にゆらゆらとふらつきながら、まさに千鳥足で奥より歩いてくる人がいる。高杉晋作だった。
 心底で最も風情を壊す男が現れた、と山県は吐息を漏らす。
 するとニヤリとあいも変わらずの魔王然とした顔で、高杉は山県の傍らにバタリと座した。
「この自分に酌もせずに消えるとはどういう了見じゃ」
「単に騒々しいだけだ。私はあのような席は好まん」
「そんなこと、よぉくこの自分は知っているんじゃ」
「………」
 高杉は酒を飲みつつ、相当に酔っているのか山県の肩もとにわずかに身を崩した。
「あなたも大概にせよ。飲みすぎだ」
 高杉より杯を奪い取ろうとしたが、ヒョイと避けられ、
「こういうときに飲まんでどうする。楽しいとき、嬉しいときは、男たるもの飲むものじゃろうが」
「一つ聞くが、あなたの良きこととはなんなのか」
 本日の集まりは、かの功山寺決起の慰労会を兼ねた「長州より俗論党(保守党)を追い払ったぞ」の宴であったはず。
「決まっているじゃろうが」
 高杉はニッと白い歯を見せ、
「桂さんを出石より呼び戻し、藩の中枢に据えたことじゃ」
 やはりか、と山県は思った。
 今より一年ほど前、幕府より「朝敵」とされ第一次長州征伐となった過程において、幕府は長州藩を此度の如し状況にならしめた人物を名指しで糾弾した。
 いわく「容疑者」だが、その筆頭にあげられた名が桂小五郎と高杉晋作だった。
 されど蛤御門の変の後、桂小五郎は行方知らずで生死をも知れず。
 当時、長州藩の政権を保守党の椋梨藤太が握ったこともあり、長州藩は戦わずして幕府に恭順の意を示すがために「容疑者」の人間の捕縛に直ちにかかった。
 ここに保守党により幕府が示す「容疑者」の捕縛即極刑の嵐が始まり、俗に言う甲子殉難十一烈士はこの時に処刑された攘夷派の志士といえた。だが幕府が執拗に追ったは、攘夷派志士の頭目と目された二人の男といえた。
 生死も知れずとされた桂の場合は新選組の追及の手をどうにか潜り抜け、ただ一人友たる村田蔵六にのみ消息を知らせ、出石に息を殺して引きこもっていた。
『桂の生死が知れぬならば、高杉の首を差し出せ』
 と、幕府に命じられた保守党は躍起となり高杉の行方を捜し、当の高杉は一時九州に逃亡するはめに陥ったものだ。
 山県はあのころを思い出す。そうあの時も雪であった。
 あの日からちょうど一年が過ぎたのだ。
 保守党の大弾圧の嵐の中、この屯所は沈黙となっていた。奇兵隊は藩より解散同然の命令を受け、幹部は全員謹慎を命じられていた。
 第三代奇兵隊総菅となった赤根は、むしろ保守党に近く、正義派との斡旋に駆けずり回る最中、
 この高杉は戻ってきたのだ。
 雪をその身に浴び、玄関先に出た山県に向け軽く手を挙げ「よぅ狂介」と笑ったのを忘れはしない。
『手を貸せ。今の奇兵隊は総菅の赤根ではなく、軍監のお前の一声で動くと聞いちょる』
 共に決起し、俗論党を打破するぞ。
 どこまでも己を格下の如し軽輩としてみていた高杉の目が、その時だけ真っ直ぐ向けられた。
 まるで対等となった感覚に山県は自嘲する。
 高杉家二百石取りの上士が、なにゆえに中間出身の己などを対等に見ようか。
 奇兵隊などという封建社会の正規の軍とはかけ離れた軍隊をつくろうとも、高杉の目は封建に染まった上士の目でしかないと山県には映っていた。
 あの時、ついに山県は首を縦には振らなかった。
 暴挙とも言えるこの決起に勝算は一割とてない、と踏んだ。石橋を叩いても渡らぬといわれた山県としては当然の結果であり、高杉もさして驚いた顔はしなかった。
『おまえさんは相変わらずに腰が重いな。それに……よく覚えておけ。封建の垣根に縛られているのは自分じゃない。おまえじゃ』
 フッと心底を読みきった顔をした高杉が、あの時ほど憎いと思ったことはない。
 確かに一理ある言葉だった。封建の垣根に縛られているのは、中間という正規に武士の出ではない己を卑下し続けている己自身かもしれない。
 この卑下する心と、総てのものをいずれ見返すという反骨心が心底をしめる間は、決して上士というものを真っ直ぐに己は見ることはできぬのだろう。
 そういえば、出会ったときから変わらずに山県を真っ直ぐ「対等者」として見つめる上士といえば、桂だけだったような気がする。
 にこりと笑って「山県君」と呼ぶ桂は、何一つ変わらない。誰一人として卑下することなく、格下に見ることはない。もとは藩医という医者の身分ゆえにそのような気質を備えたのかもしれないが、封建の社会においては珍しすぎる「平等」という観念を抱いた男だった。
 その日、高杉が後にした屯所に雪が降る。
 高杉さん……と駆けていく伊藤俊輔の姿を横目で見つつ、山県は雪を見ていた。
 雪よ降るがいい。この己の目より去り行く高杉の姿を隠すがために、降れ。
 奇兵隊を現在預かる己には、暴挙の決起に兵を貸すとはいえぬ。だが己一人ならば、この身に何一つ肩書きがなかったならば、
 あの日、あの時、山県は伊藤のように高杉の背をおったかもしれない。
 憧れ、憎んだ象徴的なその背中を、追いたかった。


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雪に映える懐影 -1

雪に映える懐影 前編

  • 【初出】 2008年2月1日
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】山県有朋命日追悼作品