今年もまた九月二十五日がやってくる。
この日が児玉愛二郎には、震えるほどに恐ろしい。
かつて幕末の長州藩においては、正義派と保守派に分かれていた時期があり、互いに言葉では言い尽くせないほどに、やりあった。
その保守派に児玉愛二郎は与していたことがある。
児玉は維新後は宮内省に入り、現在は図書頭という立場にあった。
「おう、七十郎」
そんな児玉を宮内省で見かければ、井上馨は手をあげ、かつての名を呼び快活に笑う。
「聞多か」
児玉も合わせて笑うが、良心というものがチクリとうずく。
それはここ二十数年ほど変わらずに続く痛みといえた。
「元気にしていたんか。良い酒が入ったんじゃ。鳥居坂に飲みにこいや」
「近くにいくことがあったらよらせてもらうよ」
「なんじゃい。付き合いが悪いやつじゃ」
と言いつつも、児玉の肩をポンポンと叩いて、井上は去っていく。
その背には未だに刀傷があるのを児玉は知っている。その腹や胸、首筋にもある。
今はずいぶんと薄くなったが、眉間にも。頬すじにも、だ。
かの幕末において長州藩が二分した時代。正義派の主要人物であった井上は闇討ちにあい、九死に一生を得た。
だが、その折の傷あとは今でもかの日の惨劇を児玉に突きつける。
(二十七年経とうとも・・・いや何年何十年が過ぎようとも・・・この生がある限り)
児玉が犯した罪が消えるということはない。あの傷がすべて消えても、あの日に切り刻んだこの手の感触は一生、消えることはないのだ。
井上は児玉にとって従兄にあたる。
一時は児玉が長州藩の保守派に与していたことも、井上に言わせれば「過ぎたことじゃ」と笑って流し、この二十数年、井上の引き立てでそれなりの地位を得た。
家に戻り、今は封じた愛刀「関兼延」を目にするたびに、児玉の全身は震えだし、庭に出て、意味不明な言葉を叫び続ける。
もはや日課となっているので妻も子供たちも気にすることはない。
それどころか「お仕事がお辛いのでしょう」と同情までしているありさまだ。
(そうではないのだ)
児玉には墓場まで持って行かねばならない機密がある。
明治維新とともに、この機密は胸に抱えて、墓場にもっていくとわが身で決した。
されど、だ。今日のように従兄の井上の屈託のない顔を見ると、この決心が揺らぎに揺らいで、二十数年が経過した今は、もはや覚悟に罅が入り今にもはち切れそうだ。
井上という男は一度信じた相手に対しては、懐が深く、遠慮会釈もない男だ。
ましてや自分は井上にとっては従弟。幼いころからよく遊んでもらった。一緒に木に登ったこともある。土間の饅頭を二人でちょいと盗み食いして、母にどれほど叱られたか知れない。
そんな弟分の自分を井上はとかく目にかけかわいがってくれた。
それは今も変わらない。昔からの兄貴分のままで、そのままの愛情を注がれれば注がれるほどに胸が痛む。
「私が・・・おまえを襲ったんだ」
今ではお蔵入りしているかの元治元年の袖解橋の事件について、児玉は真相を知る最後の一人となってしまった。
目を閉じれば生々しくあの日のことが思い返される。
あの日・・・九月二十五日、日が落ちてしばらく経ったころ。
あれは財満という剣術仲間の家で鶏を食べての帰り道だった。確か円龍寺の近くであったか。先に帰路についていた中井栄次郎が突如、こちら側に走ってきて、
「今、目の前を井上聞多が通ったぞ」
と興奮気味に言った。
ドキリとした児玉は少しわが耳を疑ったが、思えばここは井上の実家の近くだ。
「井上を撃つべし」
中井が小さく叫ぶ。
この中井は保守派の主軸たる椋梨藤太の次男だった。保守派の中でもいちばんに行動派であり、豪胆なところがあった。
その場には後ろを歩いていた周布藤吾が追いつき加わった。中井が「撃つべし」と小さく叫ぶ中、児玉はいたたまれなく、だが雰囲気から「否」と言えば自分が斬られるのではないかと危ぶんだ。
「七十郎、おまえはアレの従弟だったな」
と耳元で囁くのだ。身の毛がよだつとはこのことを言うのではないか。中井の目が怪しい光をたたえており、児玉の心臓は今にも飛び出しそうなほどにドクドクとはねた。
「ここでアレを襲撃し、二心ないことの証としたらどうだ」
児玉が保守党に与しているのは、ただの成り行きだった。さして主義主張はない。保守派には仲間が多く、藩の上士の多くが保守派にいたので、児玉も自然とそうなっただけのことだった。
それがなんたる不運だ。
従兄の井上は正義派の主要人物となっており、今では保守派より命すら狙われる立場となっていた。このとき、保守派が政権を握り、正義派の人間をとらえ、強硬に断罪し処刑を繰り返している時期だ。
おそらく児玉の顔は真っ青になっていただろう。
井上とは幼きころ仲がよかったが、成人してからはそれほど親しい間柄にはなかった。親戚としての交流もそれほどない。むしろ密留学で英国に渡り、半年で戻ってからは正義派の主要人物として、大手を振って政に関わる井上に、少なからず児玉は反感は持っていた。
だが、その心は井上の命を欲するほどに強くない。些細な・・・そう小さな小さな嫉妬のようなものと言えた。
児玉は、中井の探るようなその目の光が恐ろしく、かといって自らの命も惜しい。ここで保身に走るなというのがとかく無理なことだった。
唾を何度も飲み込んで児玉はただこくりと頷くしかなかった。
「俺もやる」
藤吾が刀を手にして静かに言った。
その顔を見て、児玉はさらに息をのむ。
正義派の首領ともいえる周布政之助の嫡子なのだ、この藤吾は。
「はっはははははは」
中井は声をあげて笑い、藤吾の肩を抱き寄せる。
藤吾が保守派に加わっていたのは、児玉のような成り行きではなく、父周布に対する反発からだったようだ。
周布政之助という人間は人材を見る目利きと言われている。
吉田松陰という男を高く評価し、その過激な弟子たちの保護者たらんとする人物だった。
松陰の弟子である高杉を気に入りその将来を嘱望し、桂小五郎の才を重んじ引き立てたのも周布であった。
その目にかなった人物を表舞台に立たせようと裏で手を回す一方で、嫡子たる藤吾については興味がさしてないらしい。
(他人をわが子や弟のようにかわいがり、実子に見向きもしない)
それが第一の反発の理由だろうが、つまりは藤吾としては父がかわいがる人間に対する嫉妬が強いのだ。
また藤吾と中井は同じ剣術道場で腕を競った間柄でもあり、馬もあったようだ。
今から襲撃しようとしている井上聞多は、その周布がかわいがっている一人とも言える。
児玉は身震いした。女の嫉妬は執念深いというが、男の嫉妬というのも始末におけないものではないか。
三人で井上を襲うこととなり、先回りをして、袖解橋の橋下にひそみ、井上が通るのを待った。井上が実家に帰るには必ずこの橋を渡る。
井上はわずかに酒に酔った風情で歩いてくる。袖解橋までは付き添いもいたが、そこで別れて単身歩き出した。
「そこにいるのは聞多さんでありますか」
中井が声をあける。それが合図でもあった。
井上がゆっくりと振り向き、
「そうじゃ」
といった。
中井が刀を抜き斬り込むのを目の端でとらえる。
その後に藤吾が続き、児玉は震える手で鞘を抜いた。橋下より駆けだしたときには、井上は中井による一太刀を受けていた。
暗闇の中、月のみが地上を煌々と照らす。
月の光では井上の鮮血は黒く見え、その不気味な色合いが児玉にはさらに恐怖となった。
「やれ」
中井の声が耳に突き刺さった。その声がさらなる恐怖を駆り立て、児玉は何度か井上の背を斬った。おそらく浅かっただろう。
井上は眉間を切られ、その鮮血が目に入り、目がさして見えていないように見えた。
中井の蛇のような眼が児玉を見据えている。
恐怖に思考することを放棄し、がむしゃらに刀をふるっている際に、刀が井上の胸元に突き刺さった。
(・・・聞多・・・)
だが感触は皮膚を切り裂くものではない。何か硬いものに突き当たった気がした。
「やったか」
中井は急所を刺し貫いたと思ったらしいが、児玉はあえて訂正しなかった。何か硬いものを懐に井上は入れていたのだろう。
児玉がひるんだ一瞬の隙を逃さず、井上は最後の力を振り絞るように駆け出し、暗闇に消えてしまった。
「あの傷だ。虫の息だろう」
中井は執念深く田畑や百姓家を探したが井上の姿は見つからず、人の目もあることから早々にその場を後にした。
あれから二十七年が経つ。
常に児玉は恐怖を胸に抱き、一度として安穏とした日々を送ったことはなかった。
虫の息と思われた井上は、生家に戻り、そこに駆け付けた友人の医師所郁太郎によって九死に一生を得た。所は井上の母の嘆願で畳針で井上の傷を縫った。焼酎で傷を洗い、五十針の縫合をしたらしい。
あの日、児玉の刀が突きさしたのは井上が妾より渡された鏡であったことも後に聞いた。
(死んでいてくれれば・・・まだよかった)
身内を自らの手にかけたという苦しみは抱こうとも、これほどまでに良心の呵責に苦しむことはなかっただろう。
井上に会うたびに許しを請いたくて、たまらない。
かの幕末の折のこと。かの騒乱では親、兄弟においても主義の違いで時には敵対することもざらにあった。
「うっ・・・・」
すべては言い訳に過ぎないことは児玉にも分かっている。自分はあのころ、まだ青かったのだ。
そして年五十を過ぎ知命の年にいたった今、思うは昔の罪のことばかり。
中井はその父椋梨とともに、正義派が実権を握ったのちは、野山獄で処刑された。周布藤吾は第二次長州征伐において、なんの因果か井上の配下として戦い戦死している。
財満宅で鳥鍋を共に突いたら人間たちはうすうす勘付いているようではあったが、見て見ぬ素振りを徹底していた。それも理由がある。彼らも新政府においてそれなりの地位にあるからだ。
おそらく生涯「知らぬ存ぜぬ」と言い張るだろう。
かの襲撃の関係者で、今、生あるのは、襲撃者の自分と被害者の井上だけだ。
(謝罪したい。この胸にとどめたものをすべて放り投げたい)
児玉は、もう楽になりたかった。
だが謝罪したのちにどうなるのか。相手は国家の重鎮井上馨だ。元外務大臣であり、政財界の黒幕と言われている。
国家権力を有する相手を実は「あのとき、襲撃したのは自分です」と名乗り出た場合、児玉の命はどうなるのだろう。
(聞多は・・・命まではとるまい)
児玉はよく井上の性格を心得ている。罪を心より悔い謝罪すれば、あの従兄は寛大に許してくれるはずだ。
その性格につけ込むようで気が引けたが、もはやこの秘密を胸にしまい込んで、井上と笑って酒を飲むことなど無理だ。
年を重ねるごとに良心の呵責は重くなるばかりで、墓場まで持っていく強さは・・・どうやら児玉にはない。
はじめから無理だったのだ、自分には。
「よし、決めたぞ」
児玉は同じく宮内につとめる杉孫七郎を訪ねた。杉の母は周布政之助の姉であり、藤吾とは従兄弟となる。
まずは杉に対して事の顛末をすべて吐露し、驚いた顔をした杉は、一つ吐息をついて何も言わずに、井上のところに向かった。
あとはなるようになれ、だ。
二十七年ぶりに児玉の心は軽くなった。なんだかよい気分だ。ようやく枕を高くして眠れる気がする。
たとえ目論見が外れ、烈火のごとくいかった井上に命をとられようと、それはそれで「仕方なし」と思えるほどに、今は気分が最高に良かった。
「孫七郎。なんじゃい。その辛気臭い顔はよ」
井上にとって杉は酒友達だ。久々に訪ねてきたものだから、喜んで玄関まで出迎えたのだが、当の相手の顔は真っ青であり、とても酒など飲みあえそうにない。
「聞多よ」
杉は居住まいを正して、井上の顔をじっと見た。
「おまえのその眉間の傷も頬の傷もよ。ずいぶんと薄くなったものだ」
「なんじゃい。あれから何年が経ったと思っているんじゃ。ほれここの傷も、それからここもよ。もう目立たん。じっくりと見んと分からんじゃろう」
「昔はどこぞの渡世人らの大親分の風体だったのにな」
「ぬかせ。なんじゃい。今日は俺をからかいにきたんか」
「違う。謝りにきたんだ」
そこで杉は畳に両手をついて、深々と頭を下げる。
「いまさらなことだが、おまえを襲撃した実行犯に、従弟の藤吾が加わっていたことが分かった。すまん」
「なっなんじゃって」
素っ頓狂な井上の声音が響く中、杉は顔をあげることなく、そのまま続けた。
「児玉がすべてを白状した。あの日、おまえを襲ったのは椋梨の息子の中井栄次郎と周布藤吾。それに・・・児玉愛二郎の三人だったそうだ」
「なっ・・・・」
井上の言葉が止まった。
「すまん」
その場に力が抜けたかのように座り込み、井上はただ深呼吸を繰り返している。相当な衝撃を受けたようだ。
「・・・なぁ孫七郎」
顔を少しあげて井上を見ると、そこには呆けた顔をした井上がいた。
「あの時代じゃ。何があったとしても仕方がない。互いに主義主張もあった。譲れんものもあった。中井が俺さまを狙うのはこれはしゃあないことだ。これはうなずけるし、やっぱりなと思う」
「・・・」
「その中井と周布さんのせがれがつるんでいたのもしっちょる。けどよ。藤吾は俺さまの陣で戦って死んだ。俺は周布さんに申し訳なくてよ・・・」
「聞多・・・」
「その藤吾が襲撃犯の一人で、ついでに七十郎も加わっていただと。アレは俺様の身内じゃぞ」
「この二十七年、児玉は苦しんで苦しんで。墓場まで持っていこうと決めて、良心の呵責が許さんかったといっていた」
「そんなもの墓場まで持っていけ。いまさら、真実を聞かされてなにがうれしい。さすがの楽天家の俺様もそればかりは笑ってはいそうですか、とは言えん」
「・・・聞多ならはいそうですか、と言えるだろうが」
「孫七郎」
「言わんとならん。おまえは国家の重鎮だ。度量を広くもって事に当たらんとならん」
井上の目に一瞬鋭い光が浮かんだが、それもすぐに消え、力なくその場にぐったりと背を丸めて沈んだ。
「・・・なんで墓場まで持っていけんのだ」
「誰もがあの元首相のように強いというわけではなし」
伊藤博文のことを杉は暗にほのめかした。
まだ長州の一介の中間であったころ、塙忠宝という国学者を伊藤は暗殺した。この事件に対しては迷宮入りとなっており、事の真相は闇となっているが、長州藩士の大部分が知っている。
単に長州閥の重鎮たる伊藤ににらまれたくなくて、誰もが口を閉ざしているだけだ。
そして当の伊藤も墓場まで持っていくつもりでいる。決して口を割らない。尋ねられても「知らんよ」と笑ってはぐらかしている。
「なんでじゃ。七十郎は・・・確かに保守派の奴らとつるんじょった。だけど、なんでじゃ」
「そのなんでがたくさんある世だったろう。俺などは今でもおもっちょる。なんで周布の叔父上は死なねばならんかった。なんで藤吾はあれほどまでに叔父上に反発したのか。なんでだといつも思う」
「・・・」
「なんで高杉はあんなに若くして死んだんだ。なんで久坂や入江たちもあぁんな戦で死なねばならんかった。なんで木戸さんは・・・あんなに早くに、なんでなんで。そう思うとやるせなくて反吐が出る」
畳を何度か思いを込めて叩きつけ、杉はむくっと起き上がって井上を見た。
「もうこんな思いをせん世にするんじゃろう。なぁ井上馨。おまえさんの良いところは過去のことなど笑って流せる度量の大きさだ。今回のこと、取り扱いを間違えればおまえさんのその汚名だらけの経歴に、さらに泥をかぶせることになるぞ」
「汚名だられは余計じゃ」
ふんと鼻を鳴らし、「うぎゃあぁぁぁぁ」と叫んで、井上はにたっと笑った。
「よし。明日は七十郎を連れ込んで飲んじゃろう。飲んで飲んで・・・」
「そうだそうだ」
「俺様を斬ったあいつの刀をもらい受けようじゃないか」
「見事! さすがは聞多」
「おうおう」
井上の落ち着き用に安堵して帰路につこうとした杉だったが、なんとなく後ろ髪が引かれる思いで引き返してみた。
さて何というべきかと思ったが、玄関先ですさまじい音が聞こえ、無意識に走った。
・・・従弟が自分を殺そうとした。
その事実を、どんなに寛大で過去にこだわらない井上でも、そう簡単に流せるものではない。
「聞多ぁ!」
そこには刀を振り回して部屋の装飾品を破壊している井上の姿があった。障子戸は無残な姿になり果てている。だがきちんと高値の壷だけは避けているところが井上の井上たるところと言えた。
杉はその場に力が抜けたようにへなへなと座り込み、ただ刀を振り回す井上を見つめた。
(これが聞多の心の中の怒りなんだな)
そして明日にはきっと児玉を前にしても笑うのだろう。
暴れて暴れて暴れつくして、自分の心を納得させているように見えた。
「孫七郎さま。団子でもお食べくださいませな」
いつしか傍らにはちょこんと井上の妻の武子が座っていた。
「あぁなりましたら夜明けまではおさまりません。久々でございますのよ。井上があぁなるのは」
まるで高見の見物というかのように夫のすさまじい狂気を見ている武子もまた、井上の姿から一切目を離していない。
半時ほど暴れまくって、疲れ果てたのだろう。庭にパタリと倒れこみ、杉が駆け寄ったときには井上はいびきをかいて寝ていた。
「なんとも聞多らしい」
肩にかついでさて寝床に連れて行ってやるかと思ったが、なかなかに重い。腰がぎくりとなりそうで、苦笑いとなる。
自分も聞多も年をとった。そして児玉も、だ。
あの正義派と保守派が争った暗黒の長州の日々から二十七年。
あの日の被害者も襲撃犯もみな、心に痛みを抱いている。
児玉愛二郎が目論んだ通り、井上馨はこの件を笑って流した。
井上の求めのままに、愛刀の「関兼延」を複雑な思いで若干震えながら井上に手渡すと、井上は鞘から抜いてその刀身を見ながらにたりとする。
刀はあの日のままだった。刃毀れもなおさずに、あの日のまま時が止まっている。
「七十郎。あの日、俺様の懐には鏡があった。それを突き刺したのはこの刀か」
児玉は素直にうなずくと、井上は児玉の肩をたたいた。
「急所にはこの鏡により届かんかったこと、おまえ・・・知っていたな」
「・・・」
「そうかそうか。それなら納得できる。それなら・・・この件はこれでしまいじゃ。のもう。飲んで飲んで・・・逝った奴らの供養としようじゃないか」
児玉は震えるばかりでとても酒が飲める状態ではなかったが、井上の気遣いに感動し、涙をぽろぽろ流して酒の誘いを受けた。
だが、だ。その宵は、この児玉をさらに震え上がらせるものが登場した。
井上特性の手料理。巷では名高いゲテモノと評判の「井上料理」だ。
それも緑や赤、黒の色合いがこれでもかと際立っているその料理は、一口で昇天しそうなほどの悪臭を漂わせている。
「い・・・いただくよ」
この料理を前にすると、たいていの長州人は三途の河に意識が飛ぶ覚悟で、咀嚼する。
児玉も何度か相伴してはいたが、そのたびに何日かの記憶が吹っ飛んでいた。
そして今、冷や汗がだらだらと流れる中で、その緑色の物体を口に入れて飲みほしたときに、心の中から後悔した。
(墓場まで・・・そう墓場まで持っていけばよかった)
この料理を咀嚼しないとならない恐怖と比較したならば、良心の呵責などまだまだ可愛いものだったのだ。
そして、その日、児玉はバタリと倒れ、数日間目を覚まさずに、料理の味のすさまじさに夢の中でのたうち回ったらしい。
この児玉愛二郎はこの後、昭和五年まで生き、九十一歳の長命を得ている。
井上が襲撃されたこの一件は袖解橋の変と言われ、児玉により後々に詳細な記述がしたためられ、今に伝わっている。
あれから
あれから