副官




 後に「聖将」と称され、軍神として祀られている男がある。
 その名は乃木希典。いわずと知れた日露戦争においての陸の英雄として名高い男である。
 生まれは長州藩の支藩の一つ長府藩士であり、家は百五十石取りの家系だった。だが安政の大獄の連座により家禄は半分となり、乃木家は山口で蟄居という身にまでなっている。
 幼少時の大事件といえば、左目がほとんど見えなくなったことだろうか。とある事故で左目を負傷した。幼い希典少年は、目が見えなくなってきているという大事を「母が悲しむ」という思いからひたすらに隠しに隠し、それが「視力低下」の一途を辿らせたのかもしれない。
 乃木自身、縁者ともいえる吉田松陰を敬慕し、十六歳にしてその松陰の叔父たる玉木文之進の元に通い内弟子となった。早くから自らの詩的才能について気付くこともあったが、折からの長州の動乱の時代ではある。ようやく少年の域を超えた乃木は、長府藩報国隊に入隊し、奇兵隊と合流し僅かな時期であったが幕府軍との一戦に参加している。だが初戦で負傷し長府に戻された。
 時代は明治維新を遂げた時、乃木は十九歳。
 この後の自らはどう身上を立てるべきか、懸命に思い悩む中で、
『軍人になれ、文蔵(希典改名前の名)』
 と、肩を押したのは従兄にあたる御堀耕輔といえる。長州藩御楯隊の総督であり、新政府の長州閥の要人とも言える御堀は、明治二年山県有朋らと軍事視察を兼ねた洋行を遂げるその時、急に倒れた。
 たいしたことは無い、と笑った御堀もついには「いかん」と思い三田尻で静養を取ることになる。この時にはあの精悍な体躯が既にやせこけ骨と皮だけになり、毎日のように血を苦しげに吐いた。
 何かと気にかけてくれた従兄のもとに長府より出向いて見舞いにきた乃木に、彼はその肩をたたいて勧めたのが「軍人」だったのである。
 もしかすると御堀は己が夢の形と後行きを、この従弟に託したいという思いが片隅にはあったのかもしれないが、これが後生の乃木大将を生み出すきっかけとなってしまった。もしかすると数日後に死去する御堀の人生最大の見込み違いであったかもしれない。
 病重き身であろうと、御堀は「やるといったらやる」の主義のもと、同じく見舞いに訪れた薩摩の黒田清隆に「従弟の乃木を軍人にしてやってくれ」と頼んだ。
 乃木はその繊細な思考や、見るからに文学的素質を培っているところからして「軍人」には不向きと誰もが見ている。
 ましてや吉田松陰の縁者でもあり、あの玉木に仕込まれた男だ。軍人とするよりは一角の文化人となした方が見込みがあろうという評価をされていたのだ。
 明倫館で乃木がつくった叙情的詩文は「なかなかもって結構」と仲間内でも称されるほどだった。
 されど、だ。親というものは得てして息子の類希な才能を間違った方面に見ることもあるのかもしれない。父希次は息子たちをぜひともに 「武官」として大成させることを望み、もとより親には孝を、と叩き込まれている乃木は、父の望みを我が望みと自らを納得させ、この従兄の今際の際での勧めに応じることにしたのである。
 時に明治四年十一月。御堀が頼み込んだことを忘れてはいなかったか薩摩閥の要人黒田などの働きかけで、乃木は「陸軍少佐」という地位を得る。乃木自身人生最大の喜びと語り、その日のことは晩年まで鮮明に覚えていたようではある。そしてこの日に名を「希典」と改めた。
 こうして軍人乃木希典は、軍人としての出発を「陸軍少佐」という地位からはじめることになる。はたして幸か不幸か。この明治四年は士官任命の年とも言え、多くの将来有望な若手が士官の地位についている。乃木と比較するならば、徳山藩出身の児玉源太郎はこの時は少尉という地位でしかなかった。彼はこの後の戦争で名を高め、明治七年には乃木と同様の少佐の地位に昇っている。
 乃木はこの後、東京、名古屋といった鎮台の大弐心得といった立場を得、明治七年九月を迎える。
「陸軍卿伝令使拝命いたしました」
 この物語は、二十代後半となった乃木希典がとある一つの職についていたころの話となる。


「あの陸軍卿の副官かい」
 陸軍少佐児玉源太郎が、特注の底の高い靴をパカパカと鳴らしながら乃木の前に立ちニヤリと笑った。愛嬌がある男で、誰ともなく若干毒舌の傾向もなくもないが、この自らの背丈を僅かに気にもし、だがその小ささをネタにして笑い話を作る児玉という男が乃木はとても好きである。
「うん。今日、拝命したよ」
 ほら、と拝命の書類を児玉に見せると、いかにもその愛嬌ある顔を歪ませて児玉は嫌な顔をした。
「乃木。おまえって軍人にはむかんと俺は思っている」
「いつも言われているよ」
「山県っていう人はな。良い意味でも悪い意味でも結局は軍人でしかない男だ。そんな奴の副官なんかやっていたら、ただでさえ乃木は軍人としての精神がないんだから……はっきりと言うぞ。絶対におかしな軍人ができあがる」
「山県さんはあの奇兵隊の軍監として細かく手堅い戦には定評があるお方。しかも陸軍卿です。私はとりあえずはできうる限りお尽くしします」
「……乃木」
 その背中をちょいと背伸びしてポンポンと叩き「俺なら絶対にごめんだな」と児玉は笑う。
「いい機会かもしれないぞ。この副官で軍人が嫌になっていっそ辞めてしまえ。おまえは教育方面や文学的才能の方が一弾と優れている男だ。軍人など個人がなく、上に従順に従えばそれなりに勤まる職業だ。情緒豊かな乃木には向かないと思うけどな」
 とりあえず穏やかに笑い、副官として陸軍卿山県有朋の多大な雑務の一部を処置するために陸軍卿室に乃木は向った。
 山県は従兄の御堀とはそれなりに仲が良かったようである。御堀は同郷であり、いたって暗く友人などほとんどない(御堀曰く)山県をよく気にかけていた。
 軍人として奇抜さはない。人を驚かせる破天荒さなど皆無である。山県の戦は「石橋を叩いても渡らぬ」用心深さと、緻密さにある。勝敗が決している戦では、山県ほど采配が巧みな男はいないという評価だ。勝ち戦に際し戦費も犠牲も見事なまでに最低限におさめる。そんな一面は目立たず、ましてや日ごろから無表情で寡黙。生まれが中間という負い目からか、人の目や評価などを気にしすぎる神経質ささえある、と噂されている陸軍の頭目を乃木は見据える。
「陸軍卿付を拝命しました。乃木希典陸軍少佐であります」
 扉元に立ち敬礼を持って伝えた乃木を、机に向かい書類を見ていた山県が僅かに視線を投げてきた。
「……乃木……」
 記憶を反芻するように一瞬だけ乃木を見つめた暗闇の瞳は、底が深く、人に一切感心がないといった色合いを滲ませている。
「太田(御堀の旧姓)の従弟か」
 それは独り言のように消えていき、乃木に返答など何一つ求めてはいない。そして視線も遠ざかっていった。
 今後の指示は陸軍卿本人より受けねばならないのだが、と思ったが、山県の身を包む風情があまりに冷たく、乃木は所在無さげに一先ず敬礼は解いた。
「おーい、山県よ。佐賀の乱の報告書まとめてやったぞ」
 そこにノックもなくドカッと扉を蹴破るようにして現れたのは、児玉同様に背が低く童顔が目に留まる軍人だ。
 階級を示す腕章は「少将」を示し、乃木はつかさず敬礼をする。
「あっ!お客人か。そんな緊張した顔をしなくてもいいよ」
 にこりと笑うとますます子どもっぽいなぁと乃木は思う。
「山田。その者は客人ではない。陸軍卿付の副官だ」
「って山県の副官。うわぁぁぁ僕なら絶対にいやだな。そんな立場になるくらいなら、戦の最前線に立って一つでも二つでも戦略を立ててる方がましさ」
 陸軍少将の山田……と言えば、乃木には一人しか浮かばない。
 かの高杉晋作に後継者と指名され、かの戊辰の戦においては五稜郭を落とした長州の一方の将。
 童顔で背の低さが劣等感になっているためそれには触れてはいけないというのが暗黙の了解となっている山田顕義その人であろう。
 乃木よりは数年年上の山田だが、この時の乃木の心情的には「自分より幼く見える」と思った。
 山田は報告書をバンと机に叩き付け、
「これで陸軍とは当分おさらば、だ。僕はこれから司法大輔の地位につくからさ。最期の報告書くらい立派に丁寧にまとめてやったから感謝しろ」
「予備役でもあるまい。陸軍少将のまま、戦があれば借り出されるだけだ」
「黙れ。僕の気分のいい嬉しさに冷水を浴びせるな」
 そこで山県は手を一度叩くと、隣室より数人の軍人が現れた。階級章を見れば「陸軍少尉」や大尉といったものである。
「伝令使、陸軍卿付となった乃木希典少佐だ。此処での仕事を教えるように」
 ようやく仕事にありつける、と乃木はホッとした。この荒んだ山県と山田の言い合いより抜け出したいと思っていたところだ。
「乃木? あぁ市之進の従弟だっけ」
 御堀が総督をつとめた御楯隊の一員だった山田である。また仲もそれなりには良かったらしい。
「君も本当に最悪だな。まぁ適当に勤めておきなよ。この陸軍卿の副官なぁんか勤まった人間いないんだからさ」
 ニタリと笑う山田に敬礼をし、同じく陸軍卿付の人たちに連れられ乃木は隣室に入った。
 そして先任の陸軍卿付より、こういわれたのである。
「私たちの役割は陸軍卿の仕事を邪魔しないこと、それ唯一つにつきます」
 乃木は思わずポカンとした。
「そして客人が訪ねてこられたら、人を見て茶を出すこと。ここが一番の重要点です。決して陸軍卿が気に食わない相手に茶を出してはなりません」
「それは単に陸軍卿のお世話での注意点のように思いますが」
「陸軍卿に関して、自らの仕事を副官に任せることは一切ありません。乃木少佐。この任を無事に終えたいとお思いなら、なにもしないことです」
 初めて戦に赴いたときも、また名古屋の鎮台に派遣されたときも、乃木はこんなに茫然となることはなかった。
 軍人とはなんぞや。
 乃木はポカンとしたままで、先任の陸軍卿付の軍人たちに気の毒そうな顔で見られていた。


「それは傑作だな」
 心配しているのか、それともからかいに来ているだけなのか。
 児玉が今日も陸軍卿室の隣にある控え場に顔を見せた。
「指一本を鳴らすときは珈琲。指二本は日本茶。茶の場合は渋く入れること。机を均衡に人差し指で叩くときは機嫌がお悪いので近寄らないこと。手を一つ叩いたときは用事があるとき。二度の時は不要な客が訪れたのでつまみ出すこと」
「なんだ乃木。それは」
「私が日々陸軍卿を観察し、導き出した結果です」
「おいよぅ。まるで陸軍卿付って従僕じゃないか」
「……そうでしょうか? 私はそれなりに楽しみというものを見出しています」
 乃木は僅かに笑み、児玉に向けて茶を差し出した。
「あとの仕事は」
「書類を各省に運ぶことです」
「……乃木よ。そんなのでいいのか」
「私はきっと前線よりもこうした仕事の方が向くかもしれませんね」
 最初は面食らった乃木だったが、毎日陸軍卿の傍にあれば慣れというものも身につく。
 あの棒の如し長身で徹頭徹尾無表情な男の些細な動きも、監察していればそれなりに分かることもあるのだ。
「それに……私がお手伝いすることもなく陸軍卿のお仕事は完璧です」
「おまえって……あの陸軍卿の副官って顔しているじゃないか。他の武人なら一日で投げ出す仕事をな」
 偉い偉い、と頭を撫ぜられ、これではどちらが年上なのか分からないではないか、と乃木はふと思う。
 そこへ指がパチリと鳴る音が聞こえた。珈琲を入れねば、と乃木は立ち上がる。何を思ったのか背後から児玉がついてきて、薬缶でお湯を沸かしつつ、コーヒー豆を挽いていくのを見ている。
「こ……児玉?」
 ニヤリと児玉は笑う。
「心配するな。俺がもっていってやるさ」
 山県は砂糖を入れずにブラックのまま飲み干すのだが、児玉はなんと砂糖と塩を何杯も入れ始めた。
 ニタニタと笑いつつ、盆に載せ、陸軍卿室に運んでいく。児玉は後年まで茶目っ気あふれる悪戯好きな性格をしていた。


 厳粛な顔をして児玉は陸軍卿室に珈琲を運ぶ。
『あの人間の顔などろくに見ていない陸軍卿さ。誰が運ぼうか知ったことない』
 などと児玉は自信満々に言い、山県の前に珈琲をコトリと置く。
 しめしめ、と思っている顔だ。ついでに山県が珈琲を飲む姿を見たいとでも思っているのかチラリと覗き、残念そうに引き返してくる。
「児玉源太郎」
 山県が低い声音で名を呼んだ。
 見るからにビクリとして児玉は立ち止る。
「何ゆえ、給仕の真似をしておる」
「乃木を見ていたら、陸軍卿付というのも楽しそうと思いましてね。見よう見真似の今だけの遊びです。笑って受け流してくださいますよね、陸軍卿なら」
「……流そう。児玉、この珈琲は君が飲みたまえ」
「俺?」
「私は乃木が入れたもの以外は飲まぬことにしている。この珈琲は見たところ乃木が入れたものではあるまい」
 誰が入れた珈琲かまでわかるのかよ、といった顔をした児玉だが、ここで引くことは男の沽券に関るとばかりに山県の目の前にある珈琲カップを手に取った。
 自らが砂糖と塩を混ぜ合わせた珈琲を一気飲みし、続いてゴホゴホとむせ始める。
「児玉。策を弄するときはそのさも楽しげな表情は引きこめるといい」
「陸軍卿のありがたい忠告、身に染みさせておきますよ」
 最期に涙目でニタリと笑うのは児玉ならでは、である。
 そのまま隣室に飛び込み、ゲホゲホとしつつ、乃木が水を差し出すとそれも一気に飲み干した。
「の……乃木……」
「大丈夫ですか、児玉」
「あんな男の傍にいたら……絶対に……おまえ、おかしくなるぞ」
「今のは児玉がいけなかったのですよ」
「もう毒牙にかかっているのか。乃木……一刻も早く軍人なんかやめてしまえ。よりによって陸軍卿の副官なんか、さっさと辞表を出せ。おまえ……絶対に軍人として一番大切なものが身につかんぞ」
 辛い、甘い、訳が分からん、と叫びつつ、児玉は乃木の背を叩いた。
「珈琲もって行きな。乃木のしか飲まんとよ、陸軍卿は」
「そうですか」
 少しだけ頬を綻ばせて、乃木は珈琲を入れ直す。
「絶対に毒牙にかかっている。いいか、山県陸軍卿にこの軍人成り立ての際の教育など受けたら、絶対に……」
「児玉も珈琲を飲んでくださいね。気分が落ち着きますよ」
 乃木は山県の前にそつなく珈琲を差し出すが、それを山県は見もしない。いつもの光景だが、今日は「乃木」と山県は呼び止めた。
「下書きだ。清書をし山田少将に届けるように」
 はじめて副官らしい副官の仕事が舞い込み、乃木は丁重に頭を下げ、その下書きを受け取った。
「陸軍卿、ひとつお尋ねしても構いませんでしょうか」
「なんだ」
「軍人とは如何様にあればよろしいでしょうか」
 そんなこと陸軍卿に聞くんじゃないよ、と児玉が隣室より手振りで言っていたが、乃木はそれを見てはいない。
 山県は愛用の万年筆を置き、珍しく真っ直ぐ乃木を見つめる。
 変わらずな素っ気無さで一言告げた。
「一介の武弁であればいい」
 この人間にさして興味がない山県としては、それは珍しくまともな答えと言えた。
「お答え肝に銘じたく思います」
 頭を下げ、隣室に引き上げれば、児玉が仏頂面をして乃木を見据えた。
「あのな、乃木」
「なんでしょうか、児玉」
「おまえ……絶対にろくでもない軍人になる」
「児玉。私は人生の中で一つだけしてみたいことがあります」
「なんだなんだ」
「放蕩というものを、です」
 この聖人君子といった顔をしている男には、実に似合わない言葉と言えた。
「そのためにも軍人で今はありたいと思います。それにここでならきっと私でも勤まります」
 乃木はにっこりと笑って、下書きの清書にかかった。
「なにが放蕩だ。その聖人っぽい顔でしてみたいのは放蕩だと。乃木は留学しろ。古武士の風情がある独逸にいって質実な精神というものを身につけて来い」
 珈琲を飲みつつ児玉が叫ぶと、
「騒々しい」
 と、陸軍卿室より響く低き声音一つ。
 慌てた児玉が珈琲を吹き出したのを、乃木は笑みながら見ている。
 そしてまた手が鳴り、今日は呼び出しが多いですね、と乃木は山県の前に立つと、
「陸軍省の名で、山口の木戸さんのもとに何か贈っておくように」
 といわれた。はて、これは? と乃木は首をかしげる。私的流用という言葉が児玉の頭にはかすめたようだが、
「はい。病気療養中の木戸さんにはお見舞いでございますね」
 乃木は悲観的で鬱に入ることしばしばだが、こういう楽天的なところもあった。

 後年、もとより松下村塾系の尊王意識を根強く持ち、軍人となった始めに山県という男に「武人」とは何たるかを叩き込まれたならば、乃木という「軍人」が出来上がる、と児玉は苦笑しながら語った。
 児玉と乃木はその生涯で珍しいほどの友情を貫いている。
 軍人的才能では乃木より数段高いところにおりながらも、地位では乃木に及ばない児玉であったが、そのことを全く気にすることなく、時に乃木をからかい、時に助け、そしてあの日露戦争の二百三高地に二人して並ぶ。
 余談だが明治三十九年に逝った児玉の葬儀において、降雨の中、棺より一時も離れずに寄りそう乃木の姿があった。


副官

副官

  • 全1幕
  • 維新政府(陸軍)小説
  • 【初出】 2007年3月30日
  • 【修正版】 2012年12月15日(日)
  • 【備考】