犬猿の仲




「清国に私が渡ろう」
「よせ。なにを考えているんだ、山県。おまえは陸軍の元締めなんだから、国でゆっくりとしていればいいよ」
「この戦はおまえと陸奥、川上が勝手に決めたことだ。……私にも如何するか選ぶ権利がある」
「だからぁ……もうおまえは戦に赴く年じゃないだろうって。いいから……ゆっくり後方支援やっていてよ。おまえって……そういう方面大得意じゃないか。ついでに前線は昔から苦手なはずだから」
「伊藤」
「なに、山縣」
 しばらくの間、現総理伊藤博文と伊藤いわく「陸軍の元締め」……陸軍の王山縣有朋は、両者ともにらみ合いを続けたかと思うと、
「第一陣の大将は私だ」
「だから……」
「それを外せば陸軍から人はださん」
 山縣が伝家の宝刀を抜いたと見れば、こちらはふるふると震え上がる伊藤首相。このごろは「風見鶏」とも言われ、最終的判断の爪があまいといわれ、なにかあれば「辞表」を難なく出しにやりと笑う伊藤が……拳を握り締めたかと思うと、
「そうやって陸軍を私物化しない方がいいよ」
「出さなくていいのか」
「そしたら戦ができないじゃないか」
「おまえが陸奥の案に乗り勝手に開戦を決めたのではないか。陛下はこの戦争、慎重であられた」
「開戦閣議で決めたあとに言うか、山縣」
「……伊藤」
「なに」
「赴かせるか、私を」
 そこで伊藤は思いっきり重いため息をつき、額に手をやった。
 最期の最期で伊藤が何を言おうと山縣を止めうる権利はない。この陸軍の王は、陸軍については最終的には自分で決定する権利を有するのだ。そうでなければ誰が「陸軍の王」と山縣を呼ぶか。
 ……川上、大山あたりに少し防波堤になってもらうか。ついでに山縣には天才参謀をつけるとして……。
(死んでもらっては困る。陸軍を長州が握るためには……面白くないがこの男の力は必要だ)
「勝手にしろ」
「伊藤よ」
「だから、なに」
「あまり陸奥の手に乗るでない。あれはできるが……」
「僕を陸奥の傀儡とでもいいたいのかなぁ、山縣君」
「事実、そのように見えることがある」
 陸奥宗光、かの坂本竜馬の海援隊にあった男。維新後は官僚、政治家の道をたどり、その辣腕から「剃刀」と称されるが、さして体が丈夫でないため、いつも顔は青白く得てすれば倒れるのではないかと思うこともあるが、人に言わせれば「やる時はやる」のであり、やらないときは全くやらない男と言える。
 現外務大臣として「やるべきことをしている」陸奥であり、陸奥から見れば伊藤の弱腰は時に歯がゆいものがあるようだ。
「いったね。よくぞ、いったね、山縣」
 伊藤、それこそ最大の怒りを現す「にっこり」を見せ、その目は山縣を見つめたまま、手は何かを探している。
「権力の亡者。陸奥をかっているのはおまえも一緒だろうが。それを……」
「犬養あたりにまた言われよう。伊藤の弱腰政治と……」
「狂介の分際で」
 伊藤はその手に掴んだ灰皿を山縣向けて投げつけ、山縣は瞬きもせずにひょいとよける。
「よくぞいったな。山縣! あのあの高杉さんの決起で風見鶏をしたのはおまえだろうが」
「………」
 それは山縣に口にするのは「命知らず」の文言。決して言ってはならない禁句とも言える。
 承知の上で伊藤はにっこりと笑って言うのだ。
 山縣は眉一つ動かさなかったが、その身を包む風情を尚一層冷たくした。
「時山を死なすことになったのは誰のせいだ。政府で陸軍の派閥なんか作りやがって。自分の力があてにならんから……数で勝ろうとしているんだろう」
 今度はこの山縣の私室の本棚を開け、山縣の蔵書を一冊一冊投げつけていく。
 一冊一冊がさぞや価値があるものだろうが、それも伊藤はおかまいなしだ。すべてを寸前のところでヒョイと避けていくのもまた伊藤は気に入らない。
「物を投げつける癖を治したらどうだ」
「別にいいよ。どうせおまえにしか見せない癖だ」
「そうなのか」
「知らなかったのか」
「週に一度はこう物が飛んでくるゆえ、おまえの癖だと思った」
「あぁ! 他の人間に物など投げつけたらいろいろとさわりがあるからね。その点、おまえなら大丈夫。もう自分を飾ることも、ついでに投げつけて怪我をさせても気にすることなどないから」
 ふん、と鼻を鳴らして、次に壺に手をかけた時だった。
「それはやめとけ」
「なになに? あぁ骨董好きの山縣陸軍大将お気に入りの壺。それは壊してしまいたいなぁ」
「陛下よりいただいたものだが」
「なっなんだって」
 あやうく投げつけるところで伊藤の手はガタガタ震えながら、なんとか壺を棚の上におろした。
「陛下より賜りものならば、ちゃんとその旨書いとけ。ここの品物はすべて投げつけてよいと思ってしまうじゃないか」
 伊藤の勝手な理屈に一息漏らし、山縣はふと癇癪を起こしている伊藤をどう宥めるか考え始める。
 あの手は三日前使った。あの手も……一月前か。
 山縣の思い浮かぶ手腕はほとんど使い果たしており、やはり一発で聞くあの手かと……思いつつ、それはできれば言いたくはない台詞だと山縣が思案していると、今度は机の上のものが飛んできた。
 ……どうしてこう己の物に腹が立つとあたるのか。
 政府ではいろいろと評価が分かれる伊藤だが、人当たりの良い好人物の顔を政府内では作っている。されど、だ。いざ山縣と二人だけになると昔から一切変わらない。 この二人を「犬猿の仲」と言うものもおり、その通りだと両者ともに思ってもいるが、好き勝手、思っていることを口にすることができる「仲間」とは得てして、何よりもかけがえなく、大切なものではないかと旗から見れば思うものもおるようだ。
 そろそろ避けるのも飽きてきたな、と思う時だった。
「なんじゃい。またやってんのか、おまえら」
 長州のもう一方の実力者。内務大臣井上馨がひょいと顔を出した。
 飛び交うものからなんとか井上は避け、山縣の傍らに並んだかと思うと、
「井上さん。なにゆえ伊藤はこう私のものを投げつけるのか」
「あぁ! おまえのものなら壊しても弁償しなくてもいいし、ついでにおまえのものは自分のものと思っている節があるからな」
「それは理不尽ではないか」
「そう思うなら俊輔を挑発することを言うなよ。おまえさんがたきつけたんだろう」
「覚えはないが」
「じゃあ無意識にやったんだな、おい俊輔」
「聞多は避けていなよ。聞多にはあてるつもりはまったくないけど、手元がすべるということがあるからね」
「一応これは山縣のものだからな」
「山縣のものならどうなろうと構わないさ」
「おいおい。あぁあ! 高そうな蔵書を。これ一冊どれだけするか。うわぁぁぁこれは高そうな……」
 と、井上が屈んだ時に伊藤が投げつけた陸軍の勲章が頭に当たった。
「ぐわぁ」
 井上はそのままばたりと身を倒し、さすがに親友の事態に我に帰った伊藤は心配げな顔をして井上のもとに近寄ると、
「こりゃあ俊輔。こぉんなことばかりしていると、上から見てる桂さんが泣くぞ」
 びくっと伊藤は姿勢を思わずただしてしまった。
「山縣もじゃ。そう俊輔を挑発するな。おまえら二人の喧嘩ですまんのだぞ。おまえら自分たちの立場、もう少し考えろ」
 井上は頭が相当痛いらしく、自分の手で撫ぜている。だが井上の渇もきかないらしく、伊藤は憎しみがこもった目で山縣を見据えていた。
 まるで「おまえのせいだ」というかのように。
「で、はじめの喧嘩の理由はなんじゃい」
「喧嘩? 僕たちなぁんも喧嘩などしていないけど」
 しれっとした顔で伊藤は言った。
「それに山縣と僕、喧嘩するほどの仲じゃないし」
「………」
「じゃあなにか。この物に当たる騒動はたんにおまえらの気分転換って奴か」
「甚だ迷惑だ」
「というおまえだって楽しんでいるの知ってるからね、僕は」
「伊藤」
「なに」
「おまえはそこまでして私と戯れたいか」
 山縣、二度目の伝家の宝刀を抜いた。
 と、同時に伊藤は顔を真っ赤にし、その場にへたりと気が抜けたかのように座り込む。
「これは傑作だ。おまえら戯れていたのか」
「聞多、聞多までいうか」
「山縣がそんな洒落たこといえるとおもわんかった。最高だ。戯れ~~ いつもの議論も戯れだったのか、本当は」
「聞多ぁぁぁ」
 気が抜けた伊藤が井上の首を本気で絞めはじめた時、ぐわぁぁぁと言い出した井上を犠牲にすることとし、山縣は自らの私室を出た。
 今日も今日も騒々しい。
 静謐を好む山縣としては、毎日どうしてこう腐れ縁の伊藤に付きまとわれなければならんのか、と思わないこともあるが。
「おまえが戦場に立てぬならば、私が行くしかなかろう」
 誰かが大陸で「戦争」がいかに進むか見ていなければならん。己がいればそう陸軍も暴走しないであろうし、ついでに人材の見極めもしておきたい。
 己が前線指揮に向かぬのは承知。西南の役に参軍として指揮にあたったが、あの戦で山縣は持ちうるものすべて出した。
 戦よりも、陸軍の組織をつくることに、そのことにこの男の能力は如何なく発揮されるともいえる。
 時には最悪の方向に働こうとも、山縣の築こうと思っているものは「権力」の保持の構図としては、間違った方向はいってない。
 長州の実力者二人の最大の違いは、伊藤が政治家だけであることに対し、山縣が軍人であること。
 陸軍の実権を握るものとして、他に暴走を「力」を与えぬために戦場に立つ。
 今回の日清での戦は、九分に伊藤が陸奥に乗せられた構図が見えるが、大陸との正式な初の戦に山縣としても思うところは多々あった。
「……桂さんが……泣くか」
 久々に耳にしたその名に、山縣は一瞬だけ心がとんだ己の「感情」を、
 今は冷静に冷ややかに観察する余裕があった。


「聞多」
「なんだよ、俊輔」
 井上はまだ頭が痛いらしく、伊藤は少しだけ気にして「よしよし」と頭をなぜてやっている。
「誰かがさ。あの男を構ってやらないと、どんどん孤高になってしまうだろう。こんなあそびでも山縣にはまだ仲間がいるという感覚になるはずさ。あの男は子分か、それ以外でしかこのごろ見ないから」
「なにを言う、俊輔。おまえ、九分九厘本気で山縣に八つ当たりしているだろうが」
「確かに九分九厘はそうだけど、あとの一厘はたまには構ってやろうという心だよ」
「山縣とておまえや俺はまだ仲間だと思っているさ。あいつに少しでもあぁんな喧嘩をさせるのは、もう俺らでしか無理だからな」
「陸軍の王になってしまって。力ばかり求めてさ。なにが楽しいんだろう」
「生きる価値なんだろう、力が財が」
「……むなしいなぁ」
「陸軍の派閥をつくり、自分の力をいつまでも保持させる。だが……あんな風にしてしまったのは……俺たちかもしれんな」
「聞多」
「なんだ」
「僕たちは山縣のようにならないけど、結局は長州という力が山縣を見捨てさせないのかな」
「あいつの方が俺たちを見捨てるかもしれん。あの派閥の力でな」
「それはないよ。敵対しようと……最期はおさまる。それが……気に食わないけど仲間というものだから」
 伊藤の言葉に井上は少しばかり苦笑をした。
(あまいけど……おまえは正しい)
 最期に我らを縛る絆があるとすれば、ただの一つ「長州閥」という言葉だけだろう。
 だがそれは最期の最期で起動する。追い落とし敵対しようとも、裏切りと見捨てはしないだろう絆。
(仲間だからな……俺たちは)
 今度は良い子良い子と井上が伊藤の頭を撫ぜてやった。
 自分たちは生きていく。まだこの政府にて自分たちが「力」を握り続ける。かわる存在にまだ託すことができないならば……。
(山縣……おまえも俺らも最前線に立つしかないじゃないか)
 それぞれの職場の矢面を、まだ譲れる人材はいない。
「俊輔、まだまだ山縣は死なんさ」
「当然さ。そこはあんまり心配していない。世の中、憎まれっ子世に憚るっていうからね」
 にっこりと笑った伊藤は、自分が投げつけた品々をそっと片付け始めた。
 この伊藤と山縣の一つの関係も、ある意味二人の交流だと知っているのは井上馨ただ一人といえる。


犬猿の仲

犬猿の仲

  • 全1幕
  • 維新政府(陸軍)小説
  • 【初出】 2006年
  • 【修正版】 2012年12月15日(日)
  • 【備考】