児玉源太郎という男




 児玉源太郎という男がある。
 長州藩の支藩徳山藩出身にて、非凡にして極めて有能だが、いざ私的なことになると極めてぞんざいとなる男である。
 かの独逸の将校にして「帥兵術」の著者メッケルは、陸軍大学校に招かれ実地指導をしていた時期があった。そのおり彼に作戦面においての英才は誰か、と尋ねたおり、
「児玉と小川でしょう」
 と言わしめた男である。なお小川とは、小川又次のことであり、陸軍において天才的能力を持った児玉の戦友である。
 またメッケルは、日露戦争の勝敗について「児玉がある限り日本陸軍が勝つ」とまで断言している。
 その児玉、自分の印鑑を他人にポンと渡し「任せたよ」とニヤリと愛嬌ある顔で笑う。あだ名は「木ねずみ(リス)」で背丈は五尺ほどだった。
 そして、暇ができれば芸者をあげて楽しむのが実に好きな男だった。
 おかげで妻のマツはこの時四人の子供を抱えて、暮らしはまさに「貧乏」を十二分に味わわされた。児玉という男は「裕福」という言葉を好まない性癖があったが、それであったとしても貧乏の極致を家族に味わわせることもないだろう。
 児玉は、少年時代に馬廻百石の家の家禄は没収される憂き目にあっている。親戚を頼ってもけんもほろろに迷惑がられ追い出される始末。
 児玉家の嗣子とされた甥に一人半扶持が藩より支給されようと、それで家族五人生きていくことができず、内職に精を出した。
 そんな境遇を身に染みて知っていたというのに、この男は金銭に関してまさに無頓着だった。これでは因果はめぐるのも当然である。児玉は借金でどうにもならなくなったことが実に何度もあり、その死に際して陛下より家族に特旨賜金「五万円」が下賜されるに至った経緯は、風聞として「児玉は金に困っている」と実におおっぴらに流れていたことに由来しよう。それほどに児玉は金に困った男である。
 児玉の借金話としては、
 佐倉に東京鎮撫歩兵第二連隊長として赴任していたころに、近くの米新楼になんと累計六百円(三百万)の借金を重ねたことがあり、首がまわらなかったことがある。
『借金で首が回らなくなり軍人を辞めねばならん』
 とまで追い詰められた。
『では軍人をお辞めになりましたら、借金は棒引きにいたしましょうや』
 馴染みの米新楼の女将に言われた児玉は、東京の芸者たちを連れ、その芸者たちの付き添いをし半被に前掛けの子男となった。
 女将は呆れ、茫然自失となり、致し方なしとばかりに借金に棒を引いたという。
 という逸話が伝えられているか、真偽のほどは不明である。ただ児玉の借金はどうにかなったようだ。
 真の借金地獄は、少将に進級した年明治二十二年に降りかかった。
 なにかあるとポンと人に印鑑を渡す癖が仇となり、なんと二万円の借金が降りかかったのである。
 この時は、さすがに豪放磊落にして毒舌家の児玉の首も下がった。
 このことは面白おかしく噂として流れ、「陸軍の覇王」と呼ばれる監軍山県有朋大将の耳にも届いた。
「児玉の借金はいかほどだ」
 山県は右腕に等しい桂太郎を椿山荘に呼び、児玉のことを聞く。事によっては自分が立て替えてもいいと思ったのだろう。
 まさか借金で首が回らず、もし裁判に訴え出られたならば破産の手続きをせねばならないところまで追い詰められているとは山県も考えてはいなかった。
「それがですね、閣下」
 桂太郎は実に言いにくそうに、チラリチラリと山県の顔を見て、それからかつては美男で通った巨漢をゆさゆささせ、
「二万円ほどになるとかならないとか」
 その場で山県は凍りつき、頭の中では「高杉晋作の色町遊びも大変なものだったが、そこまでの借金はなかった」と思い、いや、と訂正する。
 中古の軍艦を藩の許可なく勝手に購入したことはあった。だがアレは藩のためだった。児玉に関しては確実に「私的落ち度」である。
 財に関しては人一倍に監理行き届かせる山県としては、印鑑を他人にポンと投げる児玉が「摩訶不思議」な生き物に思えたほどだ。
「この椿山荘の土地一式を購入したおりにかかったのは二千円である」
 椿山荘の敷地は一万八千坪。明治十年にこれを買い取ったとき、まさに山県は私財を投げ打った。
 ではこの当時の二万円は、いったいどれだけの金額かといえば、例を挙げるならば「高禄過ぎる」と評判の首相の給与は、一年間総額九千六百円である。現在の価格に直すとなんと一億六千万円となる。
 これだけの給与をもらいながら、首相として例を挙げるならば伊藤博文は、ほとんど芸者遊びにこの給与を使ってしまったらしく死に際してさしたる遺産を残すことはできなかった。ましてや自宅の「関東閣」は抵当に入り、どうにか三菱に買い取ってもらったという話まである。二代目三菱総裁岩崎弥之助の邸宅となり、西洋式の邸宅に三十六年に生まれ変わっている。現在は三菱の倶楽部として使われている。
 その首相の給与が九千六百円の時代、陸軍大学校兼監軍参謀の児玉の借金が二万円である。現在でいうとおおよそ三億ほどにはなろう。首が回らないという次元の問題ではなくなってくる。
 さすがの陸軍の覇王も、単身では児玉を救えそうにない。当然陸軍次官の桂などには雲の上の話に等しいのである。
「井上さんに話をつける、と児玉に言っておくといい」
 長州系統の陸軍の一員である児玉源太郎は、ぞくにいう山県閥の桂太郎と寺内正毅とは仲が良かった。寺内とは大阪の兵学寮で共に学んだ仲でもある。
 だが山県系とは意見を異にする山田顕義という現在は司法大臣に傾倒していた児玉としては、どうしても山県閥に入る気にはなれず、
 されど桂、寺内などとは馬が合い、本人それほどに山県を嫌悪する気持ちはなく、片足は山県閥に踏み込んでいるといった状態だ。
 そんな児玉を、山県は昔から気にかけている。
 そしていつからか……児玉本人は覚えていないのだが、この山県をからかうことにおかしな楽しみを見出してしまった。からかいが時には悪戯となることすらある。
『山県閣下と児玉さんは仲がよろしいのか、よくないのか』
 陸軍内では頭を傾げられている二人だが、児玉の山県からかいは一種のストレス発散法に等しい。
 山県としても己がからかわれいるとは露とは思わず、児玉という男の才をかっていたため、今日のこの借金問題はどうにかせねばならぬものと思ったようだ。
 児玉の借金については、まさに尾鰭根ひれがついて、ついには長州公の耳にまで届く始末となった。
 長州藩主毛利敬親の世子毛利元徳は、借金で首がまわらずに消沈している児玉を不憫がり、
「国家のためには児玉少将は実に得がたい人間であり、報国のために日夜尽くしている。よいよい。私が立て替えましょう」
 長州公は太っ腹で、何もいわずに児玉の借金二万円を肩代わりしてくれたのである。
 支藩の徳山藩出身のこの自分がために、と児玉はその場でわんわんと泣くので、肩代わりを告げに来た桂太郎がポンポンと肩をたたき、
「児玉はいいね。殿様にも山県閣下にも思われて」
 山県という言葉にピクリと肩が浮く。
「閣下ね。児玉のために本当は自分が肩代わりしようと思ったようだよ。でも金額が金額だから、どうにか井上さんに話をつけるって」
「あの山県さんがか」
「そう閣下が。いいねぇ児玉。閣下に愛されているよ。そんな児玉が時々僕としては首を絞めたくなるほど、憎らしいけど」
 仲が良いということもあり桂は児玉に言いたい放題である。
 しかも「にこぽん」のあだ名通りに、にこにこと笑いながらこの台詞だ。思わず芯がゾクリと悪寒を帯びる。
 この桂は常に児玉より一階級上を歩いている男だが、昔から「山県病」といえるほどに山県に執心し、何かあるたびに児玉に泣きついてきたので、階級の差がない友人のような付き合いとなってしまった。
「そうか。山県さんもよいところがあるな」
 桂のにこにこと反して、ニヤリを児玉は口元に浮かばせ、
(仕方ない。しばらくからかいと悪戯はよしておこう)
 などと思ったりもした。
「桂、俺は今日ほど長州藩に連なる徳山藩士でよかったと思ったことはないぞ」
 長州系列ということで何かと苦労したことはあったが、と思わず桂の顔を睨み、続いて乃木希典の顔も浮かぶが、
 それでも児玉は「長州」に感謝し、その場で声をあげて泣いた。
 されど児玉源太郎、毎日なにかと無意識の上にストレスがたまり、たまりにたまって、
「閣下、乃木がまた精神的に追い詰められたのか何かかな。陸軍省の前で詩吟を講じ、それが多いに邪魔みたいなんですけど誰も止められないようです。いかなくていいんですか」
 なぜか昔副官をしていた乃木を非常に可愛がっている山県は、その児玉の言葉に取るもの取らずに外に駆けていく後姿を見ながら、
「冗談だよ、山県閣下」
 と笑うのだった。
 この山県へのからかいは、この後、それこそ山県が元老となり参謀総長となって後も続くが、なぜか山県はからかいを止めようとはしない。この陸軍の王の自分をからかう相手など、いるはずがない、とでも思っているのか。
 児玉は現在「軍政」「軍令」「教育」と分けられた陸軍において、「監軍(後の教育総監)」の総参謀長である。長官は当の山県有朋だ。
 陸軍大校長も兼ねているが、監軍本部に顔を出すこともなかなかに多い。彼は上司としては「何事も口出しせずのんびり屋」の大山巌を最適と考え、この口出し干渉をする山県を上司としては好んでいない。山県が上司なれば副官は相当なものがつかなければ、縮んでしまう。なによりも山県は細かく、そして鋭いのだ。ここが困りものであるが、面倒見が良いという長所もある。
 参謀長であるとき、山県にポイポイ投げられる仕事を、児玉は丁寧に処置していた。
「閣下、これを三日以内に仕上げたら、桂と逢引してくださいよ」
 ジロリと睨まれるので児玉は鼻を鳴らし、ニヤリとする。
「そうでないと有に一月かかると思うんですけどね」
「三日で終わらせ」
「桂と逢引してくれますか」
 昨今、軍政の桂、軍令の川上と言われるこの二人の逸材は、桂太郎が大山巌の下に付き、川上操六が山県の下にあるといった状況が続いた。日本屈指の作戦家の薩摩の川上を山県はかっているのでそれなりに仕事は進んでいる。大山は下のものに口を出さない性分なので、長州の桂とうまくやっている。されど、だ。この桂と川上の仲はすこぶる悪い。顔を合わせれば、あのにこぽんとあだ名される桂の眉間に皺がよるほどだ。
『児玉ぁ。どうして僕じゃなくあんな瓢箪のような川上などが閣下の傍に』
 それは長州と薩摩の均衡だろう、と児玉が説得しても、桂は納得せずかなり愚痴を児玉に言っていく。
 いい加減うんざりしている。せめて二人だけで逢引でもさせてやれば、桂の機嫌も直るのではないか、と思ったのだ。
「逢引もなにも三日をおかずに、アレならば私のもとに顔を出しにくる」
「わかってないなぁ、閣下。桂はあぁ見えてけっこう精神的に細かいところがなくもないんだよ。その他大勢と一緒に閣下と話すよりは、逢引という方が嬉しいに決まっているじゃないか」
「児玉参謀長」
「なんですか、山県監軍閣下」
「君は逢引の意味を知っているのか」
「そりゃあ知っていますがね。別段、その通りの意味で使っているわけじゃないですよ。単に閣下に桂太郎と一日どこか料亭で遊んでいただければ、それでけっこうです」
 こう見えて自分は友達思いなんですよ、と児玉は心の中で舌を出した。たんに自分が桂の愚痴に付き合わされるのはたくさんなだけである。
「三日で仕上げよ」
「仕上げたら、逢引ですよ」
「……考慮する」
 ニヤニヤと児玉は笑い、それこそ周囲の音が聞こえないほどの勢いで三日とかからず書類を仕上げ、山県に耳をそろえて提出した。
 一部の隙もなく、ましてやケチのつけようもない書類に山県は吐息をひとつ漏らす。
「君は副官としても、参謀としても、司令官としても最高な男だ」
「口うるさい山県閣下に、何も言われずに、了承いただけたことを光栄に存じますよ」
 時に「軽忽」と児玉を揶揄することはあるが、「精悍、敏捷な資質は錐のように時々その先端を現した」と山県は言う。まして大正に入り、山県をして「児玉が生きていれば」と言わしめるほどだった。
「閣下、桂と逢引はいつにしましょうかね。武人に二言はないはず」
「……分かっている」
 児玉は悪巧みをするときにニヤニヤとする癖があったが、この時も無自覚にニヤニヤしてしまった。
 そして副官のように山県に珈琲をいれ差し出せば、山県はいぶかしむようにそれを見る。
「毒など入っちゃいませんよ」
「当然だ。だが私は君に遠き昔、何か入れられた記憶がある」
「普通の珈琲です」
 それでも疑わしげな顔をする慎重深い山県のためにもう一杯入れ、ゴクリと児玉は飲んで見せた。
「私は君が入れたものは飲まないことにしている」
「閣下の言うが通りに到底普通の人間がやれば一ヵ月はかかるものを、三日で仕上げたこの児玉に対してそれはないんじゃないですか」
 そういわれれば山県は引き下がるしかない。過去にこの手のことで何度児玉に騙されたか知れぬというのに、部下に対して挑まれれば「立てる」心証を確かに山県は持っていた。
 一口だけ口にし、やはりか、とカップを置く。
「あまい」
「疲れているときは甘いのが一番ですよ」
「私に珈琲を入れるときは砂糖はいれなくてよろしい」
「それじゃあ茶とか紅茶の時は砂糖を入れてもよいということですね」
 山県はこの児玉と話していると本当に疲れるらしく「飲み物をいれなくて良い」といえば、
「たまには入れてあげますよ。この児玉が珈琲を入れる相手など五本の指もいない。ありがたいと思わないとね、山県閣下」
 といった関係である。
 こうして児玉はのうのうと陸軍にその生涯をかけて片や政治家と兼務で居座るが、やはりというべきか借金の話は実に多かった。
 あの二万円の借金以来、風聞が流れたならば、「児玉は避けて通れ」が暗黙の了解となっている。
「桂、おい桂」
 あの桂でさえ、風聞が流れれば愚痴を児玉に言いに行かず、陸軍省でバッタリとあえば「はははは」と愛想笑いをして、早々に逃げる。
 正院と顔をあわせた長州一の財政家に等しい井上馨など、
『陸軍のことは陸軍の親玉に持っていきな。俺様は知らん。俺様は……なぁんも聞いていない』
 と、最初に釘を打って逃げる。
 伊藤など児玉と顔を合わせれば、眉間をピクピクさせ、
『僕はダメだよ。なにせ自宅を抵当に入れてしまったほどに君ほどじゃないけど借金だらけで火の車だ』
 伊藤が言えば説得力がある。だが彼も児玉と同じで芸者遊びでパッと使ってしまうのだ。
 となれば、児玉が最期に行きつくところなど決まっている。
「閣下、金を貸してください。この俺が陸軍にいれなくなったら国の損失ですよ」
 伊藤、井上と違い、まさに児玉の陸軍にあっての能力を嫌というほど知る山県は、他人事ではない。またこの男には良いことであり悪いことであるのだが、一度その眼鏡に適ったものには「面倒見」の良さを自負している。
 児玉も泣きつく場所は心得ているものだ。
「庭をひとつ新たに設えるよりは、この俺を助けてくださいよ。それが国家のためというものです」
 ニヤニヤと笑う児玉に、いつも山県は振り回されている。


 児玉源太郎は山県という男を「軍人」としても人としても好いてはいないが、からかいの材料としては最適と思っていたりする。
 山県有朋は、児玉源太郎の「軍人」としての非凡な力も、または「政治家」としての卓抜した能力も百年に一度の逸材として高く評価している。
 こんな二人が一緒にいれば、当然……周りにいるものが頭を抱えるばかりだ。
 事実、児玉の下にある参謀田村怡与造は、まさに職場環境に胃をキリきりとさせていた。後に「今信玄」と呼ばれ、名参謀次長と称されるこの男を苦慮させる要因が、すでにこの時から生まれていたのである。


児玉源太郎という男

児玉源太郎という男

  • 全1幕
  • 維新政府(陸軍)小説
  • 【初出】 2006年6月18日
  • 【修正版】 2012年12月15日(日)
  • 【備考】