この夜に降る雪は




 暗闇からひとつひとつ落ちてくる……それは闇とは対極な純白。
 山田顕義は、雪を見るのがキライだった。
 それは一昔前を思い出させる。
 そう今日のように雪が舞い降りる夜に、
 夜空を見つめ涙を落としていたあの人を思い出させる。
 今にも消え入りそうなその体を、夜空に手を差し出すその姿は、今にもその風情そのままにはかなくなりそうで、自分はあの日書類を放り出して駆け出した。
(あなたはいつもそうだから……)
 時々自分の体のことを忘れて、そんな無茶をするから。
 弱ってきている体に雪の冷たさは酷だ。
「………」
 声をかけようとした。
 無理やりにも部屋に連れて行き、暖炉の火で暖まってもらおうと思った。
 風邪を引くと今のこの人の状態ならば、よからぬ病になりかねない。山田はいつもこの人の体調が気になってならなかったのだ。
 だが後ろより手を差し伸ばして、触れようとした手は。
 喉まででかかった言葉は、
 すべてその一言があっさりと消してしまった。
「もうすぐ……もうすぐだよ」
 だからもう少しだけ待っていておくれ。
 それは誰に対する言の葉だったか。それは誰に対する思いだったのか。
 背後から見えるその人の白き頬には、無数の涙が落ちていっている。
「……もうすぐ」
 繰り返される呪文の如し言の葉。
 それは山田には金縛りの呪文のように、身を動かなくさせた。
(あぁあなたはやっぱり……)
 いつまでたっても……そうしてその手が差し伸ばし求めるものは……もう決して貴方の体を暖めはしない……この世にないものばかり。
 いつまでたっても僕たちを見ようとはしない。
 そしてまた僕は……ひとつのかなしみと憎しみを抱くのだ。
 現に「生きよう」と思いを抱けないあなたが悲しく、そんなあなたを見守ることしかできない今の僕が……
 どれだけ憎いか。
 今のこの雪が舞い降りる現世にはあなたはいない。
 その手を差し伸ばした彼方に、あの人は意図も簡単に逝ってしまった。
 あれから八年の月日が過ぎている今、
 この国はあの人が望んだ僅かな希望を、実現できているのだろうか。


「山田」
 内務大臣室のソファーで横になりながら窓の外を見ていた山田は、その低い一言にハッと我に戻ると、
「退庁時刻だ。おまえも去れ」
 見れば内務大臣の山縣有朋は、黒のコートを手に取り、それを颯爽と身につけた。
 この男らしくボタンはつけず、まるで羽織るだけの着方は長身なこともあり実にさまになる。
(背の高い奴は嫌いだ)
 昔からそんなことを言葉にも顔にも出す山田だったが、今では四十となる身。そんなことはどうでもよく……半ばなっている。
「おまえは……雪になればここにくるが」
 内務大臣という政府の第二の地位につく山縣有朋は、その手に陸軍をほぼ掌握しており、また内務省を預かった権威を使ってか。ここにそろう若手の切れ者たちを使い、一大派閥でも作るのではないか、とそんな怪訝さえもあった。
 山田の仲のよい品川はこんなことをいっていた。
『山縣のやり方を取るか。伊藤のあの主義を取るか。俺は風鈴のように風の向きも変われば、子分もつくらんあのやり方では伊藤はそのうちやられると思う。数にまさるものはない。暗いが山縣のやり方は確実だ』
 品川弥二郎という長州系の大物、松下村塾で学んだ男は、その言葉のとおり今後は山縣がつくる派閥の補佐を密かにしていく役割を買って出ることになる。
 山田は権力という二字に魅力は感じない。その権力を制御する「法」にこそ山田は自分の生きる道があると思う。
 長州の先輩ともなる伊藤博文が初代内閣総理大臣になろうが、憲法草案にかかっていようが、それは山田の仕事とは別のことだ。
 伊藤にも山縣にも助力するつもりはない。司法省を守っていければいい。
「おかしなものさ」
 だが気付けば何の話もないというのに、ここを訪れる。
 内務省の人間に囲まれ、だがひとり孤高とあり何にもとりわけ執着せず、ひとりあるこの男の姿が見たくはなる。
「伊藤があの人を……木戸は、木戸は、と呼び捨てにする。時の流れなのか、それとも自分の権威を示しているのか。あんなに大恩を受けたというのに。僕は……あんな伊藤は殴り飛ばしたくなる」
「愚痴を言いにきたか」
「別に」
 ふん、と山田はまた外を見つめだす。
「伊藤は……まだあの人が死したことを認めたくはないのだろう」
 意外な山縣の一言に、思わず山田は顔をあげてしまった。
「まるで生きているかのように話すことがある。過去の話をしているが、時折今の話をしているようなそんな錯覚を覚える」
「なんだよ、そんなことあるはずがない」
「そうか。あの過去などあっさりと捨てる伊藤とは思えぬ執着だと感心していたが」
「山縣。伊藤はもう過去などどうでもいいと思うよ」
「おまえと違ってか」
「なんとでもいえ」
 山縣と話しているとかなりイライラする。
 だが不思議なことだ。そんな山縣のもとに自分はいちばん多く通っているのだから。
「おまえも独自の勢力をつくれてよかったじゃないか。伊藤は内心、おまえに内務を放り投げたの面白からずだろうよ。そのうち伊藤と同等の立場におまえは立ちそうだ。僕にはどうでもいいけど」
 伊藤と山縣という長州閥の両翼があい戦おうとも、どちらがつぶれようとも山田には関係がない。
「山田。おまえも覚悟を決めたらどうだ」
「なにを。おまえにつくか伊藤につくか?」
「あの人の思いを引き継ぐのか。それとも……忘れるかだ」
 ほら、こうして山縣は人の痛いところを突く。昔からそうだ。あの幕末のおり、長州の陸軍を預かる立場にあった時から……山縣はなにひとつ山田に対する態度は変わらない。
 好かれているとは思えない。山田とて山縣に好かれているなどと思うと寒気がする。
 だがどれだけ苛立とうとも、山田が文句を言いながら愚痴がいえる相手など……もう僅かしかいないのだ。
 それにこの内務省のソファーは妙に気に入っている。
「僕が木戸さんの思いを引き継ぐと決めた。ずっと前から……木戸さんにも言ってある。きっと……きっと……喜んでくれる」
「あの人はおまえを可愛がっていた」
「けど、最後まで可愛い弟のような市で終わったよ」
「山田」
「なにさ」
「あの人が忘れられないか」
「それは……おまえも一緒だろう? 山縣」
 山縣は書類を手に扉に向かい、山田に行くぞと目で伝えてくる。
「おまえは……あの人を忘れないけど……。山縣、あの人が望んだことをおまえはみぃんな崩していく。それって……おまえのあの人への復讐なのか」
 山縣はピクリともせず、そのまま扉を開けて出て行った。
 長州の指導者。長州の保護者といわれた木戸孝允が京都で息を引き取り八年が過ぎ去った。現政府は過去の人を追い求めるほどそんなゆとりはまったくといってない。感傷に浸るときすら許されていない。
 政府の人間から見ると自分は感傷に浸りすぎると思う。ついでによく話しもする。
 あの日、
 山田は大切な人の死を鹿児島で聞いた。西郷の反乱の鎮圧にかかっていたときだった。
『あの人が逝った』
 山田に伝えたのは、参軍の山縣だった。
『おまえや俺、三浦や鳥尾の帰りを待つことなく逝った』
 ひとり自らが桂小五郎と名乗り、颯爽と駆けたあの京都の地で静かに息を引き取ったという木戸。
 山田はその瞬間、目の前が暗闇となり、すぐに泣きながら笑って言ったのだ。
『山縣、早くかえろう。木戸さんが待っているから。早く終わらせよう』
『山田』
『待っているから。木戸さんの顔が僕は見たい。こんな戦、さっさと終わらせて木戸さんに会いに行こう』
 山田はがむしゃらに働いた。すべての頭を働かせて戦術を立て、あの西郷を追い込んだ。
 狂ったのではないか、といわれようとも、なにか鬼神が乗りうつったかと賞賛されようと、そんな声は山田の耳には入っていない。
 認めたくはなかった。信じたくはなかった。
 きっと京都にいけば、木戸は笑って迎えてくれる。
『ご苦労だったね、市』
 あのはかなげで、穏やかで……消え入りそうで怖く、けれど手を伸ばして触れれば暖かい。
 木戸が迎えてくれる。それが山田を動かした。
「山縣……」
 おまえは自分からあの人について語りはしない。
 あの人が危惧した道を、おまえはひたすら進んでいく。
 まるで復讐のような……それとも……。
「それがおまえの木戸さんへの……愛し方なのか」
 愛憎という表現が頭に浮かび、山田はすぐに頭を振り、わからないや、とぶつくさ言いながら内務大臣室を後にした。


 木戸孝允という長州の一大傑物が「死した」ことを、いちばんに認めながらも、いちばんに実感をなくさせる要因はこの男にあると山田は日ごろ思っている。
「あぁ、数日前かな。来たぜ、高杉といっしょに。酒、供えておいたからなぁ」
 外務大臣井上馨宅を訪れた山田は、義理の父ともなる井上の前に酒を一升瓶差出、
「元気そうだった?」
 と、聞いてみる。
「高杉といっしょであの人が元気でないことあるわけないだろう。元気だ。二人並んで仲のよいことだぞ」
 井上は昔、長州の暗闇の時代。保守派の人間に闇討ちにされたが、悪運というべきか。すべての運をここで使い果たしたか、というほどの運を使い、なんとか命を取り留めた。だがあのとき、井上いわく、
『俺サマは三途の川の橋が三つあるのもみせぞ』
 と笑うほど、自称「三途の川」を見たらしい。
 だが命をとりとめ、井上の左目は「この世ならざるもの」が見える能力を宿した。
 ほとんどの人間が「本当か」と疑うが、山田は信じているし、井上の親友ともいえる伊藤もなにひとつ疑っていないようだ。
『憎いよ、聞多。僕が木戸さんにあいたい。木戸さんといちばんに話をしたい。僕が……いちばん』
 そんなことを呟く伊藤は……やはり木戸に執着を抱いているのかもしれない。
 井上は煙草をくわえ、
「あの二人はいい気なものだ。政府が気になるのか、俺たちが気になるのか知らんがたまにでできて、俺に言伝を預けていく。いい身分だ。俺たちにあいつらが負う役割すべて押し付けて、さっさと逝っちまったって言うのによ」
「井上さんはいいよ。そういいながら、木戸さんに高杉さんに会えるのだから」
「あっておまえらの子守を頼まれる俺の身になれ」
「嬉しいくせに」
「おまえなぁ」
「ほんとうは嬉しいくせに。自分だけあえて嬉しいくせに。伊藤じゃないけど僕も憎いよ。僕は……僕もあいたい。僕も……」
「そんなこと言うなよ。ならおまえも三途の川にいってこい。いっておくがな。帰ってこれるか分からんからな」
 ケッといい、灰皿にまだ吸いかけの煙草を押し付け、井上はごくごくと酒を飲みだしたが、
「さっき山縣に会ってきた」
「おまえは愛称が悪い。大嫌いだ、を連発する相手のところによくいくよな」
「あそこのソファーがいちばん昼寝がしやすい」
「昔はあの人のところのソファーだったな、市は」
「……アイツに覚悟を決めろといわれた。木戸さんの意志を引き継ぐか、忘れるか。僕は中途半端なのか、井上さん」
「おまえの意志ははっきりしているさ。そこにくわえるなら、おまえはあの人の意志を引き継ぎたいんじゃなくて、あの人に……傍で見ていてほしかったんだよな。そして……笑ってほしかったんだろう」
「井上さん」
「ちゃんと分かっているさ。桂さんは。だからおまえはおまえの道をいけばいい。山縣は山縣の思いのままにいればいい」
「あんたはあえるからそういえるんだよ」
「そうかもしれんな」
 その日は日付が変わる前に井上の家をあとにした。いつもならば朝まで愚痴を言いまくっているのだが、伊藤が来る、という話になり、今の伊藤に山田は顔を合わせたくはないという思いが行動に出た。
 まだ雪が降っている。
 先ほどに比べると風も出てきた。吹雪くかもしれない。
 山田は馬車にはすぐに乗らずに、空を見つめる。
 かつて木戸がそうして空を見て、手を差し伸べていたとおりに……自分も空を見る。
 だが口に出る言葉はまったく違うもの。
「僕はまだ……まだやることがあります。まだまだやらないとならないことがある。見ていてくださいね。僕は……必ずやるから」
 見ていてください。
 僕にはあなたたちは見えないけど、あなたが見ていてくれると思えばやれる。
 けれど……やはり僕は忘れて前進することはできない。
 あの日木戸は空に手を差し伸べながら「もうすぐ」といった。
 あれからすぐに木戸は逝った。もうすぐ逝くから、といっていたのかもしれない。手を差し伸べて……焦がれた人間たちを求めたのかもしれない。
 木戸には先よりも過去が重かった。
 山田は半々だ。未来をおもう心はある。
 だがこの手を空に差し出してしまうのをやめられはしない。
「木戸さん」
 もしも自分に終わりが見えたそのときは、
 迎えはあなたがいい。
 自分はいつも、いつでも、
 あなたにいちばんに逢いたい。
 雪が降れば思い出す。
 雪の中に佇む木戸の姿を。
 そして空に手を差し伸べ終えて振り返った木戸が、
「どうしたのだい市? あぁ私を迎えに来てくれたのだね」
 と、微笑んでくれたあの笑顔を。
 宵に降る雪は、あの人を思い出させてくれるから、
 少しは雪がキライではないと思えるように、山田顕義はなったようだ。


この夜に降る雪は

この夜に降る雪は

  • 全1幕
  • 維新政府(陸軍)小説
  • 【初出】 2006年
  • 【修正版】 2012年12月15日(日)
  • 【備考】