前篇
卯月二十二日。早朝。日の出とともに目覚めた山縣は、天井を見ながら重い吐息を漏らした。
本日は間違いなく厄日となる。それは予感ではなく、ここ数年の現実であった。
己の生まれた日にこれほどまでにげんなりとする人間も稀なのではないだろうか。
とりあえずは着替えて、外に出てみた。さわやかな朝の空気を感じつつ、ご自慢の庭を歩きながらも一向に気分は上向きにはならない。さらに深い吐息が漏れてしまい、ため息同様に気も重くなってくる。
一周し終えると、この重苦しい気を祓うため槍の鍛錬に励むことにした。若いころは本気で槍の師範となることを志した山縣の槍術の腕前は年を取ろうともなかなかのものだ。
毎朝、稽古はほぼ欠かさずに続けているため、手が鈍るということもなかったが、本日は心もち上の空が目立った。
無自覚にため息が落ち、これで三度目だ、と山縣はげんなりとなってしまった。
今は雲ひとつないさわやかな空すらも恨めしい。
居間に戻り、手ずから茶をいれながら、ここ数年、自らの生まれ日は実にろくなことがなかったことを思い出す。
まず、この日には必ず同郷の伊藤博文から贈り物が届けられる。それも山縣が庭を好むことを百も承知しているので、それに合わせた品物を贈っているのだろうが、はっきりといって伊藤は趣味が悪い。
ある年の盆栽は見るも無残なものであり、その場で薪にするしかなかった。
さらにたちが悪いのは、盆栽に「九月二日よろしく~」と短冊をかけて自分の誕生日を宣伝していることである。伊藤の誕生日の一月前になると、山縣のもとには「誕生日に欲しいもの~」という高価なものをねだる書状が届けられ辟易する。何度も生まれ日の贈り物などいらん、と断ろうとも、伊藤はこの風習をやめはしなかった。
さらに上を行くだろう「ろくでもない」ことは井上馨が原因となる。
この世話焼きの先輩は、後輩や知人たちの誕生日をすべて網羅しており、その日には手作りの料理を作って重箱に詰めて持ってくるのだ。
井上の料理と言えば、ゲテモノ料理として有名であった。世間一般的な舌しか持ちあわせないものには、その味覚を受け止めることは適わない代物といえる。味付けはすべて強烈きわまりなく、一口食すだけで三途の川に魂が飛ばされる……とんでもないものだ。
(昨年は間違いなく死んだと思った)
唐辛子をふんだんに使用したその味付けに、山縣は意識が飛び、我に戻るまで一時はかかっている。
自分の作る料理は「世界でいちばん美味い」と信じて疑うことすらない井上には、何一つ悪気はないのだが、善意の塊の「贈り物」ほどたちの悪いものはない。
しかし井上のニコニコとした顔を見ていると、古くからの付き合いであればあるほど「食わん」とは言えはしない。
最近は、その秘書となった本多が「井上料理」の味を見事な腕で中和するようになったため、三途の川に飛ぶ強烈さはなくなったものの、本多が付き添わず井上一人が手ずから作る料理はいまもって危険であることには違いない。
毎年、昼ごろに持参してくるので、今年は「仮病」でも使おうかと本気で山縣は考えた。
それと比べれば山田や品川はまだまだ普通だ。
この二人は山縣が大嫌いな西洋菓子を持参し「おめでとぉ」と言いつつ、嫌味と皮肉を散々にぶちまけてくるのだが、その毒ですら井上料理に比較すれば猫のように可愛く見えてしまう。
もう何度目か知れないため息を落とし、さらに気がめいっている山縣の前に、妻の友子が娘松子の手を引いて現れた。
「父上、お誕生日、おめでとうございます」
七歳の松子はニコッとする。笑顔になると母の友子によく似て実に可憐だ。将来は小町と言われた母同様に美しくなろう。山縣がその頭をよしよしと撫ぜると娘はニコリと笑った。
大勢の子をなしたが、無事に育ったのはこの松子のみである。友子は一人娘を目に入れても痛くないほどに愛しんでいるが、同時に男の子が欲しいという夢を諦めてはいないようだ。
この頃、見るからに友子は痩せてきている。山縣はその点を危惧していた。
「今日は伊藤と井上のおじさまもおいでになるの」
膝に乗ってニコニコと笑う松子の頭を撫ぜながら「さてな」と山縣は答えた。
二度と来るなと塩を巻いてやりたい相手ではあるが、この松子は賑やかな二人が好きなようだ。今も親戚のおじさんとでも思っているのかもしれない。
「父上、暗いお顔」
そういって顔を曇らす幼い娘に、この心情を理解して欲しいと言おうとも無理があろう。
松子は立ち上がり、母のもとに駆け寄って、
「母上。本日は松子はあの白牡丹のお着物にします」
と耳打ちした。
「あら……船越さまがいらっしゃるから?」
「………!」
顔を真っ赤にさせてぶんぶんと顔を横に振る松子が、婚約者の存在を気にしていることはよく分かる。
昨年、船越衛の嫡子光之丞と正式に婚約を交わしてからは、松子は、急に大人びた顔を見せるようになった。
まだ娘も生まれていない昔に山縣と船越が「子どもたちの縁」を約束し、それが運よく形となった今回の婚約。
面食いの松子は役者のように端整な顔立ちの光之丞が気に入ったらしく、光之丞が館を訪ねてくるとそわそわして落ち着きがない。
ただ一人の娘をいつまでも手元に置いておきたい思いもあったが、この約束ばかりは反故にはできないものだった。いろいろな意味で山縣は船越には恩がある。
「そろそろ東助さまもいらっしゃいますよ」
影では椿山荘の差配とまで言われている平田東助は、山縣の姪たつ子の婿である。そのため山縣一族の一人としてなにかと椿山荘には顔を出し、時には長期間住み込むこともあった。
平田は、現在は法に携わる枢密院の書記官である。
「平田のおじさまは………」
松子は平田がお気に入りだ。顔を見ればまとわりついて離れはしない。
「白牡丹はお好きかしら」
「松子さんがお召しになっているものはきっと気に入ってくださいますよ」
すると松子はにっこりと笑って、部屋に戻っていった。とびっきりのおめかしをするのだろう。見てもらいたいのは婚約者なのか、お気に入りの平田なのか。
「だんなさま………そのように暗い顔をなさらないでくださいませ」
「今年もあの井上料理が来るのだぞ」
「それは楽しみでございます」
友子は「井上料理」を「美味」とする千人に一人の舌を持つ女であったりする。
他にも井上料理対策として本日は児玉源太郎を館を呼んではいるが、あの気まぐれの悪戯好きはきちんと顔を出すだろうか。
「長州の方々は誕生日を大切にするのは変わりませんね」
「迷惑この上ない」
「………それでもだんなさまは皆さまの誕生日には必ず贈り物をされましょう」
「せねばたかりに来よう」
「だんなさまもお人がよろしいですこと」
「………」
「今年のこの友子からの贈り物は………」
「猫耳と猫の気ぐるみは却下だ。それから七色の背広も同様に………」
山縣が先手を打つと、友子は朗らかに笑った。
「つまりませんこと。今年も渋い色の浴衣でございます」
あからさまにホッとしてしまい、無自覚に安堵の吐息が口より落ちていった。
この妻もあのお神酒徳利の井上、伊藤同様にろくでもない人間の頭数には入る。
職人並みの裁縫の腕があるため、家族の着衣はすべて友子は自ら縫う。昨今は和服よりは洋服を好み、いつか山縣に七色の背広を着させようと虎視眈眈だ。
「気が重くならず胃を痛めることのない生まれ日を過ごすことはできぬのか」
「長州に生まれた以上は無理なことでございますね」
こればかりはどうしようもない。山縣は何度目か分からないため息をまた落とした。
平田が使用人とともにいそいそと忙しなく動いているのを見ると何かあるとは思ったが、山縣の頭は「井上料理」への対策で疲弊していた。
当のお神酒徳利がそろって現れたのは、陽も落ちて周囲が薄暗くなりはじめたころだ。例年とは違い、今年は訪れがいささか遅い。
「おめでとうさん」
二人はニタッと笑った。
「今年はみんなそろって祝うっていうからよ。俺様は料理を用意するのに苦労したぞ」
井上が大量の重箱を使用人に運ばせている。
「その量は………」
「だからよ。今年は大勢で誕生日を祝うって言うからよ。俺様はざっと五十人分の料理を大急ぎで本多と用意をしたぞ」
背後に控える井上の秘書は、控えめに会釈を寄こす。その顔を見て今日の料理はどうにか「まとも」であることを読みとったが、それよりもとんでもない問題発言を聞いた気がした。
「五十人………とはなんの話だ」
「うん? なんだ。おまえさんには内緒だったのか」
「誰がそんなことを言ったんだ」
「これ、お宅のところのちびっこから送られてきた招待状」
伊藤が突きだしてきたものには、本日椿山荘で山縣の誕生日の宴が行われることを達筆でしたためられていた。
ちびっこと言うならば、おそらくは陸軍次官の桂太郎のことだ。
「内緒にして驚かすつもりだったとか。へえぇぇ。おまえのところの側近たちもやるねぇ」
山縣はくらぁとした。毎年、このお神酒徳利だけでも対応に頭を痛めているというに、今年は招待客が少なくとも五十人ほどいるらしい。
急いで居間に戻り、とりあえずは平田を探した。あの桂太郎だけでこのような大規模な宴を取り行えるはずがない。これには椿山荘を取り仕切る人間の関与が必要だ。
「東助」
庭にはテーブルや椅子などが大量に設置されており、横断幕も張られ、宴の支度が済んでいた。
これは内輪の宴の様相ではない。
当の平田は松子を腕に抱いて、庭に佇んで桜を見ていた。
「これはいかようなことだ」
椿山荘の差配と呼ばれる男は、腕より松子を下ろして、その涼しげな顔をなにひとつ動かすこともなく、
「今年は皆さまで閣下のお誕生日を祝おうということになりました」
といった。
「誰が……そのような」
「………清浦でございますが」
そこで飛び出た思いもよらない名前に山縣は絶句してしまった。
「その企みに桂さんが乗り、面白そうだと大浦が飛び付いて、白根さんが笑いながら進めました。清浦からお話しすることになっておりましたが」
「………あれが私的なことを満足に果たせるはずがなかろう」
「確かに……そうでございました」
清浦奎吾は官僚の鑑と言われ、職務においては塵すら残さない見事な仕事振りを披露するが、私生活になると歩けば石がなくとも転ぶといった……少しばかり抜けている男なのだ。
今回のこともあの天然男はきっと山縣に伝えるのをすっかり忘れていたにすぎない。問題はそんな清浦の性格を、目の前にいる平田は百も承知という事実だ。
「清浦の性格は東助がいちばんに知っていよう。……それを……狙ったか」
「私は本日、宴の用意をするのが割り振られた役目でございます」
「役目……」
嫌な予感が山縣の背筋を駆け巡った。
「俺様が料理係だ」
いつのまにか庭に入ってきたお神酒徳利は、桜の木に近い席を陣取っている。今年は桜が咲くのが遅かったので、ちょうど今が見ごろと言えた。
井上は使用人に指図して、庭に重箱を運ばせている。
「太郎の話によると必ず本多と共に作るようにと煩くてな。おかげで二人でてんてこ舞いだったぞ」
本多の補佐がなければ、とても山縣の口にあう料理は出来上がるまい。いやいや三途の川に一瞬にして飛ばされる料理はこりごりだ。
「僕は美味しい酒を運ぶ掛。もう少したったら樽で酒が運ばれてくるよ。いつものように盆栽にしようと思ったのに、清浦に酒にして欲しいと頼まれてさ」
伊藤の贈り物は酒となったようだ。どうやら今年は薪にせずとも済むようだ。
「それで太郎くんが招待状を配る掛で、市がチーズとかおつまみを調達する掛。弥二はお菓子調達だそうだよ」
「そろそろみんな、集まってくるからよ。おまえさんはきちんと着替えてな」
「なぜ私が着替えねばならん。なによりも私は今宵の宴を承諾した覚えは……」
「いいから着替えろって。おまえのところの若いやつらが気合をいれて用意した宴だ。どんな人間が来るか知れんから晴れ着にしろ。今年は俺たちだけで内輪でわめくんじゃねぇんだぞ。
それにしても、あのちびっこがよ。どんな奴らを招待客として呼んだか。これは誕生日を祝うとかこつけた一種の勢力図だろうよ」
ようやく今宵の「誕生の宴」の意味を思い知った山縣は、本日、最大の重い吐息を落とす羽目となった。
今年の生まれ日は、どうやら最大の厄日となりそうである。
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