幸せと寂しさ




「なぁ俊輔」
 現在、首相官邸で茶を飲んでいる井上馨は、いつもにまして真面目な顔で相棒の顔を見た。
「どしたの、もんちゃん」
 お互い良い年であり、互いに元老として重きを置く立場となった。
 伊藤は名実ともに政界の頂点として身を置き、井上にいたっては経財界の黒幕と言われるほどである。
 そんな二人だが、顔を合わせれば地位も立場もない。ただの長州時代からの相棒の顔で向かい合う。
「俺様はちと考えたんじゃが」
「うんうん」
 髭を手でくるりと回し、伊藤はニタッと笑う。もはや壮年の域に達している年齢であるというのに、どうもその愛嬌は少年の初さを思わせた。
「幸せってなんじゃろうな」
「はい?」
「俺たちの幸せってなんじゃったんだろうな」
「・・・聞多。どうしたんだい。そんなことを急に言いだして。さすがの僕も驚くじゃないか」
「この頃、考えるんだ。孫の如し娘をこの腕に抱いてから・・・・俺は今までなにをしていたんじゃろうってな」
 井上には正妻武子との間に子を授かることはなく、外で儲けた娘を嫡子として引きとった。もとより姪や甥を養子として家には置いていたが、娘となるとまた話しが違ってくる。
 最初の妻との間に娘芳子があったが、英国に密留学の際に婿に入った家とは縁を切ったために、その娘が成長していく過程に井上は関わることはできなかった。
 明治に入ってからは妾に子どもは授かったが、正妻を憚って家には入れず、たまに顔を見る程度で「娘」という実感がない。
 また甥と姪を養嗣子として迎え入れ身代をすべて譲るつもりだったが、残念なことにこの甥たちにも子どもができず、ここに至って井上は外にできた娘を引きとり、この娘に婿を取ることに決めた。
「千代子ちゃんは可愛いね」
 ニタッと伊藤が笑った。
「いっちょまえに今さら父親顔してさ・・・聞多」
「家で父親なんてやったことがほとんどないから父親顔は分からん。がな・・・俊輔。青年時から走るだけ走って今にいたって俺様は深く考えるんじゃよ」
 冷めた茶で口をうるおし、心持ち寂しげな顔をした井上は立ちあがって窓際に寄った。
「本当にどうしたんだい、聞多」
「娘は可愛い。この腕に抱くたびにこんな愛しいものが世の中にはあるのかと思い知らされる。指じゃ数えられんほど養子や養女がいるが幼き実娘は目の中に入れても痛くないと思えるさ。 だがよ、俊輔。ふとな・・・娘を愛でながら俺様は考えてしまうんだ。なにが幸せなのか。今は幸せなのか・・・それを思うとな」
「うん?」
「無性に寂しくなった」
 らしくない、と伊藤は言いかけたが、窓に映る井上の顔が今まで見たこともないほどに静かで哀愁が漂っており、かえって伊藤は心配になった。
 だからか精一杯声を張り上げて明るく答えた。
「僕は幸せだよ。そりゃあ借金はあるけど、新橋で可愛い芸妓の膝枕は最高! 可愛い孫にも囲まれてけっこう楽しく賑やかにやっているし」
「・・・そうか」
「それに最高の相棒と最低な天敵が居るから、僕はまだまだ寂しくないよ」
 その言葉に軽く振り返った最高の相棒に、伊藤はにんまりと笑った。
「だから聞多もそんな寂しいことは言わないでよ」
 天下の首相自ら茶を入れ、それをコトリとテーブルに置く。
 井上は元の席に戻り、その茶を手にとって、
「熱い! 俺様は猫舌じゃ」
「そんなこと百も承知だよ」
 お神酒徳利と呼ばれる長年の相棒二人は、互いの顔を見合って声を立てて笑った。


 年を取ると寂しさは深くなるのかもしれない。
 伊藤と別れ官邸を出た井上は、トボトボと1人歩いていた。この男は昔より護衛を置くことを極度に嫌う。それでも暗殺屋に狙われ続けた外相の折は仕方なく「護衛」を受け入れていたが、現在は大蔵大臣だ。元老でもあるが昔と比較して狙われることはほとんどなくなった。
 それに、護衛ではないが似たりよったりの男がいる。
「早かったですね」
 官邸の控室で待っていれば良いものを「私は私設秘書に過ぎないので」と門前に立っている男に、井上は胸元からタバコを取りだし差し出した。
「・・・頂戴いたします」
 すでに十数年の付き合いとなるこの端整な男は、年を重ねると渋さが滲み出るようになり、誰もが振り返る壮年の格好良さを身に付けた。
 時折、ものすごぉく井上は羨ましくなる。
 もとよりいかつい形相というのは自覚はあるが年を取るたびにそれが拍車がかかり、今では井上が東京の街を跋扈すれば、どこかのヤのつく世界の親分と間違われサッと道をあけられる始末だ。
 この頃はいっそ東京を裏社会から征服してやろうかなどといじけたりするが、年の取り方というのは人それぞれなのかもしれない。
「なぁ幸七」
 タバコを心地よく吸う男の横顔を見つめる。
 私設秘書・・・本多は六尺にいたるほどの長身の身の丈のため、いつも井上はその顔を見上げるのだが。
「不意に寂しくなることはあるか」
 心持ち視線を下げ、穏やかな瞳で井上の視線を受け止めた本多は、
「ありますよ」
 思えばこの男がタバコを嗜むようになったのはいつ頃だったろうか。
 面白半分にタバコを勧めた記憶はある。上司が差し出すタバコを拒むことは不敬などと考える男ゆえに仕方なく吸っていた時期もあっただろう。
 だが今は、時折1人でタバコを吸い、なにか物思いにふけるこの男の姿をよく目にする。
「この年になりますとかつての戦友も仲間も部下たちも・・・鬼籍に入る人が多くなります。夜に月を見ると友を思って・・・胸が痛くなることもあります」
「おまえの年でそんなことを思うのかよ。俺様がおまえの年のころは・・・不動産と株と金とちょい政治で頭が痛かったぞ」
 五十を幾ばくか過ぎたばかりの本多でも、そんなに「寂しい」ことが多いことに、ほぼ一回り年が違う井上は驚いた。
「井上さんはまっすぐ前を見て進むのがお似合いです」
「なんじゃ」
「後ろばかり見ている私が、あなたを見ると少しは前を見て歩かねばらないと思いますから」
 井上の目を見て優しく笑うこの男は、吸い終わったタバコを懐紙に包み内ポケットにしまう。相変わらず生真面目で礼儀正しい。三河以来の旗本の当主という出自の良さを絵に描いたかのような品行方正な男だ。
「俺様もこの頃は妙にさみしいと思う」
 なぜこんなに寂しいのだろうか。
 弟のように可愛がっていた仲間が鬼籍に入り、戦友も友だちも少なからず見送ってきた。
 葬儀で弔辞を読むときにはそれほど傷みはないが、あとからあとから傷みが広がり真夜中に嗚咽をこらえずに泣き喚くことすらある。
 あぁ寂しい。とんでもないくらいに寂しい。それは何か。
「寂しさを払拭して前を駆けられるほどに俺様はもう若くないってことだな」
 日本の近代化を成し遂げるために、かつては山のようにやることがあった。それは今も変わらないが、あの三十代の折の情熱と六十を回った今の熱は違いがある。
 なによりも堪えたのは、言葉に出して認めはしないが、中井弘が急死したことだったのかもしれない。
(さっさと死ねといつもいっていたのにな)
 いざ長年の天敵がいなくなると、ぽっかりと胸に穴があいてなんだか寒々しく、あぁ寂しいと思ってしまうのだ。
「なぁ幸七」
 はい、と柔らかい返事をするこの男は、きっと死ぬまで井上の傍に居るだろう。いつも穏やかに優しい・・・変わらぬ思いを注いでくれるに違いない。
 そう思うと井上は少しだけ哀しさを払拭することができる。
「俺より先には死んでくれるなよ」
 本多は少し驚いた顔をしたが、その場でやさしく「はい」と答えた。
「約束だからな」
「はい」
「よし」
 きっとこれからも自分は多くの仲間を見送るだろう。そのたびに悼みが広がり、寂しさに捕らわれ前に進めなくなるかもしれない。
 だがただ1人でもこの自分を見送ってくれる男がいれば、ほんのわずかだが安心できる。
 死ぬまで傍にいる男がいる。
 ちょいと照れるような、その甘い響きに、井上はほんのわずかな「幸せ」を見出す。


「それで寂しいなんて言うんだ。聞多、どうしちゃったんだろう」
 目の前に置かれた茶をジロリと睨み、山縣有朋はその場でドッと疲れきった吐息を漏らした。
「至急の用件があると電文が届いたゆえに来てみれば・・・・用件はそんなことか」
「そんなことって。山縣、なに言っているのさ。これほど大事なことはない」
「伊藤、おまえは首相であろう。大事なことは山のようにあろう。議会において憲政党は内閣に非協力な姿勢だ。貴族院も同様と言える」
「あぁそんなことはどうでもいいよ。僕、もう疲れちゃったしさ」
 まさか総選挙で自由党が圧勝するなど考えもせず、ついでにやけっぱちで選挙からわずか三カ月後に衆議院を解散したが、今度は怒った自由党と進歩党が手を結ぶなどという考えもしない事態となった。
 自派の政党が欲しい。今回の事態で伊藤はほとほと政党というものが両刃の剣になることを骨身に染みたが、まずは持たねば強みになるまい。
「早々に内閣総辞職をして、僕は政党作りを本格化させるさ」
 そこで山縣はバンとテーブルを叩いた。それを伊藤はふふんと笑って見ている。
「・・・おまえの政党嫌いは重傷だね、山縣」
「・・・」
「僕はあの憲政党の野次と罵倒の中で政権運営する気はなし。後継はお前がやる気がないなら・・・大隈に渡す」
「わずか半年で政権を投げ出すか」
「貴族院も協力的じゃないしね」
 貴族院はおもに山縣系の牙城である。この山縣の一言が貴族院の意思となることが多い。
「僕はそんなに首相の座に執着しないよ」
 その執着のなさゆえに明治帝に「朕は辞表を出すことはできない」といって辞表癖を窘められる羽目になる。
「で・・・こんな話はどうでもいいし。問題は聞多だよ。あの楽観的で世の中を楽しみきっている聞多が寂しいなんてさ」
「・・・おまえは寂しくないのか」
 怒りをどうにか落ちつけようと山縣は茶を飲む。
「僕? 別段。やることいっぱいあるし、まだまだこれからだと思っている」
「そうか。俺も時折、無性に寂しいと思うことがある」
「お・・・おまえが!」
 自分と同じくらいこの世に執着をし、ついでに山のようにやることもしたいこともあるだろうこの男がどの面下げて「寂しい」などと思うのだ。
 常に腹の中で、自派の「山縣閥」を拡大させ、その牙城を築いていつかは自分を追い落とそうと考えていると思っていたのだが。
「おまえの何が寂しいのさ」
 周囲を子分で囲みに囲み、その権力はいつかは伊藤を凌ぐだろうと言われるこの山縣の何が。
「相変わらず前だけしか見ない男だな、伊藤」
「それが僕の取り得でもあるしね」
「気付けぱ山田もいない。白根も若くして逝った。最近は品川の体調もすぐれん」
「おまえでもそんなことを気にするんだ」
「おまえは気にしないのか」
「そりゃあするし寂しいとも思うけど、僕はまだ後ろを振り返るほど老いてはいない」
 年を重ねようとも伊藤は意気軒高であり続ける。いや年を取れば取るほど伊藤は若くなっている気がするほどだ。
「・・・おまえは気が若いのだろうな」
「三歳しか違わないんだからそんな老けたことを言わないでほしいね。おまえには僕と同様にいつまでも意気軒高でいてほしいと思うよ」
 なにせこの男は伊藤にとってただ一人の「天敵」である。
 山縣と対峙するたびに伊藤は自らを省みて、どうすれば負けぬか。どうすれば勝つのか。そんなことを考えて頭をめまぐるしく動かすのだ。
「おまえほど井上さんはこの世に執着があるまい。孫の如し娘を得てこれからと思うか、それか後ろを振り返るか」
「聞多だってこれからでしょう。今まで以上に政財界をしきって・・・」
「そんなことが楽しいか。そんなことを幸せと思うか」
「おまえも言うの? 幸せって・・・。幸せってなにかって聞多も言っていたけどさ」
「おまえの幸せは・・・芸妓の膝枕か」
「ご名答」
「くだらん」
「じゃあ政治家らしく国家国民の幸せが僕の幸せ・・・」
「・・・」
 またしても山縣はため息を漏らした。
「じゃあおまえの幸せは山縣閥と共にあるとか言う」
「言わん」
「自分で設えた椿山荘を眺めているときが最上の幸せ?」
「・・・・」
「京都の無鄰菴だっけ。新しく造った庭。今度、遊びに行くよ」
「来なくて良い」
「その無鄰菴で茶を立てているときはおまえにとって幸せなの」
「・・・静けさと無の気分に陥るが、幸福と思うことはない」
「ならばなにさ、幸福って」
「伊藤」
「なに」
「時に思うことがある。あの萩に居た日日。誰をも失わず、誰もが目の前にいたころ。誰もが若く、誰もが夢を見て、誰もが・・」
「なになに。その感傷は・・・」
「夢に見て・・・その夢を幸福と思った時点で俺も年を取ったということだろう」
 その一言を残して山縣は席を立った。
「だからまだまだ老けこむ年じゃないし」
「年を取ってこそできることもある」
 思えば、派閥を作り大勢の子分に囲まれ権力を手にしようとも全くといって山縣は幸せそうではない。
 あぁ思い出せば、この男は不器用で優しい男だった。
 寡黙で無表情。表情が動かないために誤解されることが多いが、人の面倒を見るのが好きで、世話焼きで・・・。
 その性格が「山縣閥」などという厄介なものを作り上げる発端になったのだが、考えればこの山縣が私的に世話を焼いた相手はもういない。
 顔をしかめながらもその死まで世話をした高杉晋作も、仏頂面で食事の世話までした木戸孝允もいない。天敵と言いつつも面倒を見ていた山田顕義も先年逝った。
「山縣、人間ってさ。ふとしたことに幸せって思うことってあると思うよ」
 伊藤は近くにあった饅頭をハムっと頬張る。
「だからおまえも後ろなんか見ないでよ。おまえまで過去にとらわれたらさすがに僕も・・・寂しくなる」
 一人にしないでほしい。
 伊藤には相棒がいる。
 そして天敵がいる。
 この二人がいる限り後ろなど見ずにまっすぐ駆けることができる。寂しくなどない。
「・・・」
 そうこの男は優しいから、こんな時は何も言わない。
 パタリと閉じる扉の音を聞きながら、伊藤はいつも通りにこにこと笑っていた。
 饅頭の次は煎餅をパリッと噛んで、ふと下を見る。
「あぁぁあ」
 不意に寂しさがこみ上げて来て、その顔は側近の伊東巳代治が扉を叩くまで上げられず・・・ただ下を見ていた。


「幸せってなんじゃろう」
 鳥居坂の自宅を訪ねてきた大鳥圭介に、昼間に伊藤に尋ねた質問をしてみた。
 井上より二歳年上だというのに年を取ろうとも童顔でちびっこである背丈が影響し、大鳥はかなり年若く見える。それがいささか井上には癪だが、
「俺はいつも幸せだと思うし楽しいよ」
 井上苦心の作である「くっきー」をはむはむ食す大鳥は見るからに楽しそうである。
「美味しいものを食うときは幸せ。新たな技術を目にする時も幸せ。友だちと飲む時も、殴りあいの喧嘩をするときも楽しい」
「大鳥さんはいいなぁ」
 始めて大鳥の性格に憧憬をもった瞬間だったが、
「なんでも楽しいって思えば楽しい。幸せと思えば幸せ。俺は生きていることが幸せ。人生は長くても八十年くらいなんだからいっぱい楽しいことをすれば幸せじゃないか」
 ニコッと大鳥は笑い、本多が作ったプリンに目を輝かす。
「ぷりん」
「大鳥さんが好む味に仕上げていますよ」
「わぁい。本多、大好きだ」
「はい」
 大鳥と本多の付き合いも三十数年におよぶ。もともと本多はこの大鳥の副官だった。
「ぷりん美味しい。こんな美味しいものを食べて幸せって思うし、傍に本多はいるし。俺は生きていることが幸せだよ」
「いきていることね」
 楽観的な性格である井上だが、その上を行く超楽観的な大鳥には負ける。
「俺も寂しいと思うことはあるし、友達がいなくなるのは哀しい。でもそれで落ち込むことはあってもすぐに笑うよ。笑う門には福来る」
「アンタはそうだよな」
「井上さんも料理を作っているときは楽しいって。その料理を食べたときに幸せって思わない?」
「・・・料理か」
「それか小判を磨いているときとか」
「ううぅぅぅぅぅぅ。楽しいな」
「だよね。そんなことでいいんじゃないの。それに俺のところも小さな子どもがいるし、井上さんも可愛い娘さんがいるよね。子どもは可愛い。孫も可愛い」
「・・・なかなかに世の中が楽しいと思えるようになってきたぞ」
「寂しいのは寂しいでいいよ。失った人を嘆くのもいい。でもね。今を楽しんで少しでも幸せって思えるようになれればもっといい。亡くした人はいっぱいいても、井上さんにはいっぱい友だちがいるね。寂しい寂しいって言っていたらその友達に悪いよ」
 あぁ、そうだ。寂しいといったとき、伊藤は少し哀しい目をした。相棒がいるから寂しくないといった伊藤に対して悪いことをしたなと井上は思い、
「アンタが傍にいるとなんでも楽しく思えるから不思議だ」
 と、二カっと大鳥に向けて笑ってみせた。
 大鳥は幸せそうにプリンを食べ、時たま本多の横顔を見てにっこりと笑う。
 この男は嘘はつかない。好きなモノは好き。幸せは幸せ。
「そうじゃな。俺様も寂しいなんてらしくない。よぉし美味いものをいっぱい作るぞ」
「それにね、井上さん。俺たち死んだら仲間がいっぱい向こうにいるんだから、そこでお祭り騒ぎをすればいいんだよ。みんな待っていてくれる。だから急いで向こうに行こうなんて思わない。いつかは会えると思えばその時が楽しいよ」
 ねぇ、と笑った大鳥は、さらにプリンをせっせか運ぶ本多に、
「おまえは昔は死に焦がれていたけど、今は違う。それが嬉しい。でも本多。俺より先に死なないで」
 と、井上と似たり寄ったりの言葉を口にする。
 これにも本多は「はい」と答えて、優しく微笑む。
 どんなに楽観的でお気楽な大鳥でも、失いたくない人間はおろう。その人間がいなくなれば笑えなくなるかもしれない。寂しいと泣き続けるのかもしれない。
 だがただ一人でも死ぬまで傍にいてくれる人がいれば、やはりそれを「幸せ」と思うのだろう。
「本多は大人気だな。そんなに安請け合いしていると百になっても死ねんぞ」
「私が請け合ったのはお二人だけですよ」
 昨今はメガネをかけるようになった秘書は、そんな優しい言葉を口にする。
 これもまた小さな幸せというものかもしれない。


 翌日、首相官邸を訪ねると、そこには荒れた姿でパイプをふかす伊藤の姿があった。
「どうしたんじゃ、俊輔」
 イライラとしているのが目に見えて分かり、井上も茫然となった。
「おまえの信念は男も愛嬌じゃろうが」
「聞多と山縣のせいだよ」
 はん、と一言吐き捨てた。
「なんで俺と山縣のせいで荒れるんだ」
「聞多が寂しいなんて言いだすから。ついでに幸せってなんだろうなんて言うし。あの山縣まで昔を顧みるようになった。陰気臭いのは昔からだけどさらに磨きがかかって・・・あぁぁ嫌だ」
「・・・悪かった」
 井上はその場でペコリと頭を下げた。
「ど・・・どしたの聞多」
「寂しいなんていって悪かった。この頃、仲間や知人たちが相次いでいなくなったからな。俺様も少し消沈していたみたいだ。昨日大鳥さんに悟らされた。俺様にはまだまだ友だちがいる。仲間もいる。料理を作ったり小判を磨き、ついでに娘を愛でて楽しいことがいっぱいある。 それでも寂しいさ。けどないつかはみんなに会えるんだ。ならば生きていることを楽しんで、少しでも幸せって思える時間を増やした方がいいだろう」
「も・・・聞多・・・」
「らしくないしな、俺様が寂しいなんてよ。それで楽しもうと思ってよ。昨日、ひとつ新作を作ってみたんだ」
 その一言に伊藤はイライラとした顔色が変換され、その場で真っ青になった。
「大鳥さんが食いたいと言うからな。なんでもケーキなるものでよ。まだまだあの美食家は美味いと言わんが・・・」
 甘いものが苦手で、砂糖の入った料理を作るのは不得手な井上だ。だが昨日はついつい大鳥の言うがまま料理書と格闘し甘いバターケーキなるものを作ってしまった。
「大鳥さんは食べた?」
「あぁ。まだまだと言ったぞ」
「よ、よかったぁ」
 途端にホッと胸をなでおろし、井上の差し出すケーキをパクッと頬張る。
 なにせ巷に「井上料理」と称されるほどのゲテモノ料理を作る井上馨。その料理の強烈な味付けは人を三途の川まで飛ばすことを簡単にする。
 だがこの料理を崇拝してやまぬ信者や愛好家までおり、本人も自分が作る料理がいちばん美味いと思っているほどだ。
 美食家で知られる大鳥圭介は、この井上に「不味い」と面と向かって言える男で、昔、井上の教官であったという縁もあり、井上の味覚をまともにすることができる唯一の男と言える。
 まして不味いものは絶対に口に入れることをしないので、大鳥が一口でも食したならそれは「まぁまぁ」美味しいものであること疑いなしだ。
「お・・・美味しいよ、もんちゃん」
 素直に「美味しい」といえることに、伊藤は幸せを思う。
 親友が善意で作る料理。例えどんなに不味くても今まで一度として「不味い」とは言えず食し続けてきた伊藤だった。
「だが大鳥さんが美味しいと言わん。あのトリが美味いというまで俺様は極めるぞ」
 井上は思う。実に簡単なことなのだ。
 自分が好きなことに熱中しているときに、あぁこれが幸せなのかもしれない、と思う。幸せと感じたならば、それが幸せで良いのだろう。
「聞多・・・」
「どうしたんじゃ、俊輔。ほら、男も愛嬌だろう」
「うん、うん・・・そうだね。聞多が寂しいなんて言わなくなって良かった。いっそ今日、新橋の行きつけの店でパッとやる?」
「おう、いいぜ」
「うん。癪だけど山縣も呼ぼう」
「いいけどよ。山縣はどうしたんじゃ。おまえ、さっきおかしなことをいっていたな」
「僕はね。山縣は今を楽しく生きていると思って信じて疑ってなかったんだよ。あれだけの派閥を作って権力を握ってさ。けどよくよく考えたら、あいつ・・・幸せそうな顔は決してしない」
「当たり前だろう? 子分がいて権力を持ってもな。それは山縣が望んだ幸せな形じゃない」
「アイツはどん底からはいあがって、ありったけの権力と地位を望んでいた。好きな庭を造り、歌を呼んで、たまには笛を吹いて。風流な生活をさ」
「それを楽しいとはアイツは思うだろうけどな。うぅぅぅん。俺や俊輔より山縣の幸せの方が難しいな。あいつは・・・きっと今の我が身を夢描いても望んではいなかった」
「難しいよ、そんなこと」
「いいじゃないか。一生手に入らない幸せってものもあるんだ。俺も俊輔も些細なことで手に入る。ありがたいって思わないとな」
「もんちゃん。山縣の最高の幸せってなんなの。あいつ・・・萩のみんないた頃を懐かしんでいるようだったけど」
「そんなの決まっているじゃろう」
 きっとあの懐かしい仲間たちがいた若かりし頃の萩。
 井上も夢見る。夢に見てたまに本気で泣き喚くほどに懐かしく・・・優しいあの日日。
 誰もを失わず、誰もが傍にいて、他愛もないことで笑って怒って喧嘩して。
 地位もない。名誉もない。あるのはありったけの夢だったあの青春のころ。
「それを最たる幸せとするなら、山縣はきっと旅立つ日。最高の楽しさを胸に秘めるんじゃろうよ」
 井上も違いない。そして伊藤もきっと同じではないか。
「せめてあの面倒見の良いおかかさまの山縣に、今日は俺達が面倒をかけて少しは楽しませてやろうじゃないか」
 ここに山縣がいればきっと「迷惑だ」と言うに違いないが、な。
「俊輔がいる。山縣もいる。簡一さんも、大隈もいる。仲間はまだまだいるんだ。俺様はもう寂しいなんて言わんから・・・なぁ俊輔」
「だね~。よし今日はとびっきりの店を取って、そして山縣をもてなす振りをして苛めてやろう」
 伊藤は途端に明るい顔をして、秘書を呼び、本日の段取りをつけて後に、山縣に事後承諾の書状を送った。
 それから小半時ほどして規則正しいが若干苛立っている足音が耳に入り、次の瞬間、
「伊藤」
 相も変わらずの仏頂面の山縣の表情を見て、あぁこの男は変わらんなと思った。
「この事後承諾はなんだ」
「なにってお誘い? 今日は三人で飲もう」
「断る。なぜ俺が新橋の料亭でおまえと飲まねばならん」
「俺も一緒じゃ、山縣」
「・・・・それでも断る。酔いつぶれた貴殿らの面倒は誰が見ると思うのだ」
「おまえさんに決まっているじゃないか」
 ニタリと笑った井上に脱力しかけた山縣だったが「伊藤」と呼ぶと、
「いいんじゃない。来ないなんて言わないよね。来なかったら僕は明日にでも内閣を放り投げる」
「脅しか」
「ふん」
 伊藤は笑っている。楽しそうに笑う。
 つられるように井上もニタニタし、
 山縣と言えば仏頂面だがその雰囲気で、少なからずいつもよりは楽しんでいることが分かる。
 そうこれでいい。
 こんな話しあいをちょいと「幸せ」と思い、井上は最たる幸せを後々の楽しみにするために「寂しい」とは二度と言わんと決めた。
 夢に見る。
 懐かしさで胸がいっぱいになるほどに、
 あの誰もがいて笑っていた日日に還れるその日まで、毎日小さな幸せを見つけて笑っていようと思う。

幸せと寂しさ

幸せと寂しさ

  • 全1幕
  • 維新政府小説
  • 【初出】 2013年9月20日
  • 【備考】井上馨命日追悼&伊藤博文生誕祝作品。
  • もともとは拍手用に書き、きちんと5話に区切れるようにしていましたが、長すぎて断念。小説館用に修正しました。
  • 設定としては第三次伊藤内閣倒壊間近。明治31年5月ごろ。