前篇
山縣という男は誰もが口をそろえて「分かりにくい」と言うが、鳥尾に言わせれば、山縣ほど分かりやすい男もいない。
「……寒気でもするのか」
今も陸軍省の予算に頭を痛めている山縣を見て、すぐにあぁ過労による寒気と満足な食事を取っていないための軽い眩暈がしているなと気づいた。
すると山縣は頭を横に振る。
「寒気などしてはいない」
いつも通りの無表情で筆を走らせるが、なぜか鳥尾は昔から山縣の体調不良については完璧に見分ける目を有していた。
「この書類は俺が目を通した。署名だけでいい」
机に書類だけを置いて隣室に入る。ここには伝令使という陸軍卿の副官が控えている。
「和菓子を出してくれ」
鳥尾はそう命じつつも、自らは手早く茶を入れ、ついでに棚の奥に閉まってある薬を取り出した。
面白いことに、山縣という男には型通りの薬は一切通用しない。幼いころに貧困のあまり山に生えている草を、食用として食べたのが原因らしいのだが、そこには間違えて食用ではないものがふんだんに入っていたようだ。
人間というものは、弱い毒であろうと飲み続けると次第に体が慣れてくるというが、山縣の身体も毒や菌などに慣れ切っているようだった。
だがその草生活を送った副作用かどうかは知れないが、従来の薬効をそのまま受け付けないへそ曲がりの体となってしまっている。
(解熱剤を飲むと熱があがる。頭痛薬を飲ませば嘔吐感と極度のだるさとなり、ドクダミ茶は睡眠薬の効果がある)
面白い男だ、と鳥尾は思う。
本来の「薬」はまったく意味をなさないが、違う意味で役立っているらしいのだ。
(この鎮痛剤が風邪薬だったな)
少し風邪の症状も見えるので、これも飲ませておこう。
それから、と奥より取り出した胃薬を見て、鳥尾は口元を軽くほころばせた。
(胃薬は疲労回復剤だ)
伝令使が用意した和菓子を持って部屋に戻ると、書類を見据えている山縣の顔色はひどく悪かった。
といっても人に内面を覗かせない無表情をしているのだが、鳥尾には分かる。おそらくその他の長州の人間たちもおおよその体調の加減は察するだろう。
「山縣。ここにあるものを飲め」
軽く顔を上げた山縣は見るからに嫌そうな顔をした。
「疲労がたまっているのだろう。いつもより仕事の速度が遅い」
この男は体調を気遣えば「なんともない」と言い張る頑固さがある。こういうときは「仕事」を盾にとり、仕事に差し障るという方面で攻めるのが無難だ。
「……陸軍卿の仕事の遅れは陸軍省全体に関わる」
人が聞けば手厳しいと顔をしかめる言葉ではあったが、これが山縣には効果てき面となる。
「……確かに少し集中力が足りないとは思っていた」
知らず知らずに吐息を落とした山縣は、小皿に乗っている饅頭を嫌そうな顔で手に取った。この男は洋菓子に使われる「砂糖」には媚薬に似た症状が出るらしいが、和菓子だと体はなんの反応もしないらしい。
一度、高級砂糖である和三盆が使われた落雁を食させると、甘ったるいと嫌がったが、体は平常だった。いや菓子特有の疲労回復をもたらす効果はわずかであったが見受けられた。
今は菓子に求めているのは、その軽い貧血を是正することといえる。食を満足に取らないことで生じる眩暈と軽い立ちくらみはこれで治ってくれるだろうか。
「本日ばかりかここ数日効率が悪い。疲労回復剤を置いておいた。それを飲んで少し横になれ」
「………」
「書類は俺が見ておく。その集中力のない頭で考えようとも判断がつくまい。明日は予算会議がある。陸軍省の予算をもぎ取るためにもおまえが万全でないと困るだろう」
「………」
「陸軍省のためだ、休め」
山縣は和菓子を平らげ、きちんと薬も飲んだ。そしてソファーに言われるままに横になる。
鎮痛剤には少し睡眠薬の効果もあるらしく、「後は頼む」と一言残して、山縣は目を閉ざした。
(やれやれだ)
鳥尾は備え付けの毛布を手に取り、それを山縣の身体にかぶせて、ひとつ吐息をつく。
寝顔までもがわずかに苦しげであるので、相当に体調が悪化していたようだ。
もう少し早くに気づかねばならなかった。
陸軍卿の机に向かい、山縣が処理をしていた書類を睨み据え、決裁をしている間に一時ほど過ぎ去っていた。
山縣は眠ったままだ。
明治に入り、この山縣の補佐をしている間に、鳥尾は自然と山縣の扱い方を身につけてしまっていた。
パタリと倒れる一歩前の体調であろうとも、決して人前では目を閉ざさなかった男が、いつしか鳥尾の勧告には嫌々ながらも従うようになり目を閉ざして眠るようにもなった。
心を許されているという自覚はある。
この陸軍省には、仕事の鬼とも言われる山縣の世話を焼ける人間など一人もいない。そのため奇兵隊以来の付き合いである自分がその役割をこなさねばと思うようになってはいるが。
「………今は何時だ」
目覚めた山縣の声には、わずかだったが覇気が回復していた。
「一時も眠ってはいない。どうだ。少しは回復したか」
「先ほどよりは仕事ははかどるだろう」
決裁した書類を置き、鳥尾は山縣に近寄った。幾分、顔色は良くなっていたが、わずか一時の睡眠で全回復するはずもない。
「少し体力をつけたものを食せ。ウナギや牛鍋が良いぞ」
「………」
黙したまま山縣は視線を下に向けた。
後で伝令使に「うな重」を買いに行かせようかと鳥尾は思った。
山縣の一つ下のポジションにいることにそれほど鳥尾は不満を感じてはいなかった。
双方とも軍人としての階級は「陸軍中将」ではある。
だが実務においては、自分は上に立つよりも二番手で動くほうが鳥尾にはちょうど良い。
性格的に鳥尾には少しばかり「情」に弱いところがあった。涙ながらに訴えられるとついつい感動してしまい、心が動いてしまうのだ。それは一番上に立つ人間としては致命的な欠陥ともいえ、鳥尾自身も重々承知はしている。
仕事面においては隅から隅まで自分で目を通さねば気が済まないところが山縣にはあったが、信頼している人間に対しては仕事を丸投げして任せきる度量はあった。そこが鳥尾には合っていた。
だが、だ。
(補佐をする相手がいるな)
と鳥尾は思った。
おそらく自分は山縣の「補佐」をするには向かない。どこまでも二番手か片腕として肩を並べる存在としてあり続ける。
今は役目柄でこうして傍にいることも多いが、立場上、どこぞの鎮台の司令長官にも赴任せねばならなくなることもあるだろう。
明治五年に福原和勝が英国より戻ったときには、正直ホッとした。
同郷でもあり、山縣が軍人としても軍政としてもその才をかっている福原は、自然と山縣の副官的立場についた。そのうち山縣の第一の側近として補佐をつとめる人間になると鳥尾はみている。
(山縣は大勢には分かりづらい男らしいからな)
福原のようにきめ細かく補佐をする人間がいちばんに合っているだろう。自らの体調管理もままならない男ゆえに、気心知れた副官が必要なのだ。
将来を嘱望された福原だったが、西南の役にて別働第三旅団参謀長として出征し、戦死した。
有能な副官の死は相当に山縣には痛手であったようだ。
この頃から鳥尾は、山縣や大輔の大山と陸軍の洋式化について揉めることが多くなっていた。
そんな中で唐突に辞令がおり、鳥尾は我が目を疑った。
地位は近衛都督だった。
(………馬鹿な男だ)
その頃の山縣は政府の参議となっている。陸軍卿は大山巌に譲り、自らは宮城警備にあたる陛下直属の近衛都督が陸軍での地位となっていた。
それを鳥尾に譲るというのだ。
(誰が見ても引き留め工作としか見ないだろう)
これは山縣からの強烈な意志といえた。
思いとどまれと言いたいのだろう。陸軍を二分化し少数派に身を置く現状では、この後、鳥尾には出世の道は閉ざされる。
いったんは辞令を受け近衛都督に就任したが、ちょうど西南の役より体調を崩していたこともあり半年もたたずに辞任し、鳥尾は京都で休養することにした。
一度、俗世から離れた場所から中央を見なければならないと思ったのだ。
職を辞すにあたり、鳥尾は一度、政府に山縣を訪ねた。
あいにく留守であったので、秘書に薬を手渡してすぐに部屋を出た。すべて山縣用の効能をしたためてある。数日前にすれ違った際にひどく疲れた顔をしていたので、いささか鳥尾はきになっていたのだ。
かの数年前のように、自分は薬の世話を焼く……そんな立場には二度と立てまい。
これは鳥尾のけじめであり、山縣への訣別の意思表示でもあった。
京都の穏やかな風が鳥尾の体調を少しずつ回復させ、気づいたときには明治十四年の政変における現政府に対する批判と自らの主張を書き連ねていた。
「いっそ打倒伊藤、山縣でもう少し頑張ってみますか」
馴染みの三浦梧楼が訪ねてきて、そんな発破をかけてくる。
「敵は大きいほうがやりがいはある」
鳥尾はわずかに笑ってみせた。
山縣や伊藤らの長州閥の掲げる「往く道」と、自分や三浦が望む「道」は大きくかけ離れてしまっていることだけは分かっていた。
鳥尾と三浦、これに谷干城と曾我祐準を加えた陸軍四将軍で、真っ向から現政府の方針に刃向う建白書を提出し、その当然の結果として左遷が待っていた。
陸軍中将の階級のまま、鳥尾が割り当てられた場所は太政官の統計院長であった。そこは国の基本的な統計を作成するといった部署にあたる。
おそらく二度と華々しい場所に立つことはあるまい。
三浦ほど精力的に動く気概もなく、心の平安を祈って深く禅の道をも追求し始めた鳥尾は、少しずつ自分の価値観が変わっていくのを感じていた。
伊藤博文が初代首相となったころ、鳥尾は元老院議官となり、国防会議議員として欧州に出張した。はじめての異国が鳥尾には珍しくもあり面白みもあり、そして恐怖の思いも沸いてくる。
自然と笑いが出ていた。
(俺はやはり軍人だったのか)
文明的にも発展している西欧を相手に、仕事柄で国防の意識もあったが、それよりも兵器の格段の進歩について興味がわいた。
現状の国内の防備や装備で、列強にどう立ち向かうべきかと思ったところで、随分と道は逸れてしまったと高笑いしてしまう。
どこからずれたのか。どこから軍人一辺倒であった自分が、政治に興味を持ち、四将軍と協議の上で憲法制定についての建白書などをしたためるにいたったか。
もう軍人には戻ることはないだろう。自分の軍人の血は乾ききってはいないというに、その道はこの手で封じてしまった。
国に戻れば法を司る枢密院顧問官という職に就き、同時に貴族院議員への勅撰を受けた。貴族院の中では中立の立場を取り、藩閥や民権運動には反対という立場を貫きながら、ふと自分は何をしているのだろうかと鳥尾は思った。
(いったい何をしたいのか)
かつて銃刀を掴んでいた左手は、この頃は杖を握るようになっていた。刀がない寂しさをどうにか杖でやり過ごしているのだ。
そんな明治二十四年の四月。
唐突に同郷の山田顕義が訪ねてきた。
「議場以外では久しぶり」
つい先日司法大臣を辞職した山田だった。急務となった法律の制定に精も根も尽き果てたのか。窶れきったひどい顔色をしていた。
「その顔色はなんだ」
議会でやりあうことは多々あるが、それ以外では疎遠となって久しい男の到来に鳥尾は顔には出さないが驚いていた。
陸軍時代の同僚であったが、山田は佐賀の乱の功労でいち早く陸軍より抜けて司法の道に入った。その才は小ナポレオンと称されるほどの軍略家であったが、陸軍においては軍政家の山縣の権勢には及ばず政治家に方向転換せざるを得なかったのかもしれない。
鳥尾が攻撃する藩閥政治の大物の一人であり、この山田と伊藤、井上、山縣の四人を合わせて長州四天王などと人は呼ぶ。
「そろそろいいかなと思ってこれを持ってきたんだ」
手渡されたのは招待状だった。
「ちびっこに書かせた」
「……これはどういう意味だ」
「そのままさ。毎年恒例のガタの誕生日を祝う宴への招待状。噂は知っているよね。この招待状が送られない相手とはガタは決して手を結ばない」
「………」
「なんて噂なんだけどさ。尾鰭がついてそういうことになっているんだ。もとは僕たちだけで祝っていたっていうのに、いつのまにか地位や権力がつくといろいろなところで煩わしくなる」
「俺は行かん」
突き返すと、山田は少しさびしげな顔になった。
「小弥太。僕たち良い年だしさ。そろそろいいんじゃないの」
「なにがだ」
「井上さんさ。大蔵大輔の折は大隈さんと散々にやりあって新聞を使ってまで喧嘩をしたよね。ついでに外務大臣時代も散々に大隈さんにやりこめられた。けどあの二人、政治を離れればいつも仲のよい友だちでいるよ」
「………」
「僕たち四人は喧嘩もするし妥協を繰り返して、それでも長州閥として生きてきた。私的も公的もないし、そんな一線もない。本気でやりあっても最後は仲間という意識が常にあるから、最終的な決裂にはいたらなかった」
「何が言いたい、市」
「もうここいらで公的と私的を分けないと、一生、小弥太や梧楼は仲間のもとに戻れない」
「戻ろうと思ったことがあると思うのか」
「ないとは言えないはずだ。……この僕ですら時々、苦しいほどに昔が懐かしくて泣けてくる。昔話がしたいし仲間たちと大騒ぎをしたい」
「そんな感傷は俺にはないぞ」
「……人間いつ死ぬか分からないんだ」
窶れ切った顔でその言葉を繰り出されると、鳥尾は妙に居たたまれない気持ちになってしまった。
議場では法を司る人間として、国家百年の計である法律の制定に命をかけている山田だが、まるで議場にあるときとは別人のように気概が感じられない。
(どこか悪いのではないのか……)
人は体が弱ると、妙に気弱になり、昔のことばかりを懐かしく思うようになると聞いたことがある。
「今年の宴は小弥太と梧楼、二人ともおいでよ。政治的には闘ってもいいけど、政治を離れれば仲間に戻ろう」
招待状を置いて山田は去っていった。
「仲間……か」
この場で破り捨てようと思ったが、どうも手は動かない。
「仲間」という言葉でなにが浮かぶか考えてみることにした。
現在の貴族院での同士が浮かんだが、それは利があって手を組むものであって「仲間」ではなかった。
昔の奇兵隊の隊士たちも浮かび、あれは確かに仲間であったが、多くは鬼籍に入っている。
(仲間……)
笑いたくなったが、同時に心は刺が刺さったかのように痛んだ。
この年に至り多くの同士や同志はいるが、すべて「仲間」とはいえなかった。
鳥尾がこの言葉で浮かぶのは、懐かしい景色である。
明治の初年。後楽園で花見をした。ちょうどその日は山縣の誕生日だった。
酒に酔って泣き上戸となる伊藤に、世にも恐ろしいゲテモノ料理を満面の笑顔で勧める井上。その井上に「不味い」と面と向かって叩きつけていた自分。その頃から物忘れが多かった三浦は、山田の「一昨日の夕飯はなに食べた」の問いかけに必死に記憶を思い出そうとしていた。
そのころは元気であった木戸が微笑みを刻みながら酒を飲み、その傍らで山縣が「飲み過ぎは体の毒だ」と木戸の酒をジッと監視していた。
あの春の朧月夜の宴。
あえて思い返さずに封じていたかの日日が、意識した途端に懐かしさとなって体を包みこみ、どうにもならないほどの寂しさが一滴の涙として落ちた。
「なつかしい……」
あの頃に戻りたいと思ったことはない。
軍人を離れ、現政府を批判し続けるこの立場を後悔したこともない。
これは鳥尾が通るべき「道」でもあった。
「………もうあれから二十年は経ったのか」
だが自らの信念と心情とは別物であるようだ。そして、とりわけて鳥尾は昔から「情」には弱かった。
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