椿山荘




 かの鹿児島士族の反乱たる西南の役を、参軍として事実上総司令に当たった山縣有朋が、軍勢を率いて帝都に戻ったとき、彼の境地を襲ったのは「やるせなさ」というものであった。
 これで内戦は終わった、と誰もが言う。これにて明治政府の地位は確立された、と人は言った。
 すべてが山縣にはやるせない。
 討った人は山縣にとっては恩人ともいえ、維新三傑の一人西郷隆盛だった。幕末のおりに奇兵隊の軍監でしかなかった山縣は、京都で西郷と会ったことがある。西郷は薩摩を率いる大人物でありながら、山縣に礼を尽くした接し方を始終とった。尊敬できる男だと思った。長州のかの八月十八日の政変から蛤御門にかけての薩摩憎しの風潮は、山縣も知り抜いている。山縣にも当然「憎しみ」があった。
 その感情を超越させるほどに西郷は大人物で、この男が蛤御門で薩摩兵を指揮し、山縣の馴染みの人間たちを殺したとわかっていても、それでもなお尊敬できると思った。
 西郷を討って、政府軍は誰も勝どきをあげなかった。
 勝利を掴んでも、一部の外部より志願してきた兵以外は鎮魂を禁じえず、特に政府の薩摩閥は嗚咽をこらえることなく泣いた。
(かつての味方を討つ……こんな感傷は味わいたくもなかった)
 そして、西南の役の途中に、山縣にとっては大切な人間が息を引き取った。
 戦中に伊藤博文よりもたらされた「巨星堕ツ」とただ一文の電報を見たとき、山縣は自らの血の温度が冷めていくのがわかった。
 幕末より長州の首魁と言わしめた維新三傑の一人木戸孝允が、天皇行幸に付き添った滞在先の京都で倒れ、そのまま回復せずに息を引き取ったという。
 五月二十六日、朝。
 戦中でありながらも、長州の人間は誰はばかることなく泣いた。
 特にその悲しみを謙虚にあらわしたのは陸軍少将であり一軍を預かる山田顕義である。
『山縣、早く終わらせよう。はやく、だ。きっと木戸さんが待っていてくれるから』
 山田は最後の最後まで木戸の死を認めなかった。
 そして西郷の本隊を山田の隊が追い詰めて……戦争は終わった。
 山縣は未だに木戸の墓には詣でていない。思えば己も山田と同様なのだろう。あの人の死を認めたくはない。……約束したのだ。
『私が戻る時には、元気な姿で迎えてください』
 木戸は柔らかく儚く微笑んで、送り出してくれた。
 そのときから、伊藤は繰り返すように木戸に言い続けたという。
『木戸さんの今の役目は、辛い戦争にいった長州の人間たちを迎えることです』
 戦地から帰ってきた人間は、貴方の顔を見たらきっとホッとする。帰ってくることができた、と安心する。
 後に聞いた。狂ったように伊藤は「木戸さんは治る」と怒鳴り、医学の町大坂で名医を探し回ったという。何かに憑かれたようだ、と周りの人間をおろおろさせたともいう。
 そんな伊藤を戦地に赴いた人間は、責めた。泣きながら詰った人間もいる。それは戦地に赴く人間たちに伊藤が「僕が必ず木戸さんの病を治して見せるから」と誓ったことに由来した。
 山縣は何度として伊藤と顔を合わせたが、なにも口にしなかった。
 誰を責めようとも、あの人は帰らない。あの穏やかで、たおやかな人は、明治以降身に包んだ儚さにのまれて、ついに迎えに来た同志たちの手を取ったのだろう。
 今まで見たこともない安らかな顔をしただろう。おそらく幼馴染の高杉らが、迎えの手を差し伸べたに違いない。木戸はようやく維新という地獄の業火から抜け出せた。
 ……我々を残して、逝った。
「貴兄はこれで良かったのか」
 山縣は帝都の北目白台にある「椿山」という広大な敷地を、私財を投げ打って購入した。
 今、かねてやり山縣が愛してやまない日本庭園を中心とした邸宅が造られていっている。
 この頃の山縣の楽しみは、この庭園兼邸宅の設計を自ら指示することだった。
 敷地を歩いていると野生の椿の群生が見える。山縣が構想する庭園には、この地に椿があることは邪魔だったが、あえてここに椿は残すことにした。邸宅の名を「椿山荘」とつけたのだ。椿がなくては名が廃る。
 この目白台の椿山は、古くは南北朝のころより椿が自生する景勝地で、江戸の世の時は松尾芭蕉がこの椿山荘に隣接する関口竜隠庵に暮らしていたことさえある。
 椿が美しき景勝地。山縣は歩きながら椿を見つめつつ、ふと立ち止る。
 いつか己が設計に携わり、思うがままの邸宅を造りたいと考えてはいた。そしてその邸宅に最初に招きたかった人間は、この世にない。
「椿……か」
 それは十数年も昔のことだ。まだ幕府があったころの長州藩邸で、山縣はシロヤマブキを見つめる木戸に対して「貴兄にはヤマブキよりも椿がよく合う」と称した。
 あれほどに椿が似合った人に逢ったことがない。男ながらも貴公子的であった木戸の風貌は、華やかさよりも儚げな花が映えるような気がした。桜とも梅とも言う人もいたが、はきとした色よりも「赤」でありながらも、鮮明な赤ではない椿の方が似合うと思った。
「貴兄に見せたかった」
 花が好きな人だった。風情をよく理解する人だった。そして庭園に溶け込むよう気を持ったあの人が……この世にいないということを山縣は時折忘れる。
 一輪だけ手折り、邸宅の茶室に持ち込んで竹筒に生けた。
 山縣はさして椿を好むというわけではないが、この一介の武弁と称する男には椿の潔さはそれなりに快くは思える。
 この茶室にかの人が和服のままで座したならば、さぞや絵になっただろう、とこの時山縣は思った。


 椿山荘の外観が少しずつ完成してきたころ、唐突に何一つ前触れもなく伊藤博文が訪ねてきた。
「土産」
 顔には出さないが、思いっきり嫌な気分になる山縣の横をすり抜け、庭園を見回すこの男はふふんと笑った。
「山縣は相変わらず風流なものが好きだね、似合わないのに」
「何しにきた」
「なぁに……おまえの最高傑作をいち早く僕が見てやろうという……早く言えば嫌がらせ」
「出て行け」
 門前から追い払おうと思ったが、また伊藤はふふんと笑った。
「土産は受け取ったよね。僕を追い返す権利はないよ」
「返す」
「一度受け取ったものを押し返すなぁんていう無礼はしないよね、おまえは」
 軽く剣を込めて見据えれば、伊藤は案内もなく敷地内を歩き出した。
 渡された袋を見てみると、どう見ても酒だ。あぁ自分で飲むために持ってきたな、と山縣は検討をつけた。
「いい感じだね。おまえは……庭の設計だけには才能ありってやつだ。武人ってこういうところに生き甲斐を見出すのかな」
「おまえには風情などわかるまい」
「僕もけっこうわかるとは思うけど、考え方の相違って奴じゃないかい。僕の生き甲斐は女性だからね」
「けったいうな生き甲斐だ」
「お互い様」
 さして庭園などに興味はないだろうに、伊藤は隅々をきちんと見ながら、時には「ほぉ」と感心の声をあげ頷いたりしている。
 いったい何の思惑があるのか。
 山縣は探るような目をして伊藤の背中をにらむと、それを察した訳ではないが振り向いた伊藤はへらぁと笑った。
「よくできている。さすがは女よりも造園を愛する変わり者の男」
 ピクリと眉を動かせば、それに機嫌をよくした伊藤はさらに先を進んでいく。
「ねぇ山縣。ここはちょうどいいよ。一流料亭にも負けない趣があるし、風情も均衡もこの僕が言っても褒めにはならないけどきちんと整っている。実にいい。よしここに決めた」
 即座に「なにがだ」と問い返すつもりだったが、背中にはゾゾッとした震撼さむからしめる寒気が走ったためにその言葉は出なかった。
 ろくでもないことがおきる。この寒気の時はそれの前触れであることを一切山縣は疑ってはいない。
「これからいろいろな機密を打ち合わせる、絶対に外には漏れない場所が欲しいと思っていたんだ。格式ある料亭は外に滅多に漏れないけど、横のつながりというものもあるしね。お偉方が集まったらやれ密談か、と煩い新聞記者に騒がれる。ここはおまえの邸宅。僕らが集まってなにをしようともそんなに騒がれることはないし」
「なにを考えている」
「ここを密談の場所にしようと思ってね」
 あからさまだが山縣は吐息を漏らし、左手を額にあてた。
「断るなんていわないよね。ちゃあんとその密談におまえが入ることを見越した考えだよ。早く言えば、僕がいる地位の近くまでおまえは軍人だけどそのうち上り詰めることを見越したってやつ。先見の明さ」
「違うところを見つけろ」
「ここなら岩倉公たち風流を大事にするお公家さんたちも納得するし、いやいや山縣。良い邸宅をつくつてくれて嬉しいよ。感謝する」
「おまえに喜ばせるために、ついでに密談場所に使うために造っているのではない。私はここに静けさを求めた」
「へえぇぇ。おまえの周りが煩いとは知らなかった。静か過ぎるから、たまには僕たちがきて騒いであげようと思ったのに」
 まさに良い迷惑である。山縣が言う「静けさ」を求める要因は、この同郷の長州閥の人間たちの騒がしさが一因にあったのだ。
「さすがは椿山荘。ちゃあんと椿が咲いているね。これは最初からここにあった?」
「あぁ」
「なんでこんな目白台などにした? 今、大隈が下の敷地に目をつけているから騒がしくなるよ」
「私が最初に邸宅をつくった。後から……一番に騒々しい男が来るとは思わなかった」
「運が悪いね」
「……そうか」
「その運の悪さを補っても、おまえはここがお気に召したってやつ? 椿なんて……おまえ趣味じゃないだろう」
「この地の静けさが気に入っただけだ」
「僕ならいやだな。毎日椿が目に入る。椿の色もその潔さも儚さも……特に冬は思い出させるんだよね。あの人を」
 伊藤があえて名を言わず「あの人」と告げる人間などただ一人しかいない。木戸のことだ。
「おまえはあの人を……椿ではなく桜に例えてなかったが」
「昔はそう思ったけど、このごろは椿を見るとなぜか思い出すんだよ。別に思い出したくない訳でもないよ。というかあの人の笑っている顔ならいつも思い出したい。けど椿は……あの人の悲しい顔を思い出させるから嫌なんだ」
「我儘な男だ」
「そんなこと僕に言うのは聞多と山縣くらいさ」
 ニッと白い歯を見せて笑った伊藤は、二万坪は優に超す敷地を全て見つめるように歩き出す。あわせて後ろから追う山縣だが、そろそろこの男の相手も疲れてきたので本題に入ることとした。
「伊藤、なにをしにきた」
「決まっている。見にきたのさ」
「密談場の下見に来たのではあるまい。今のおまえはそんなことに時間を潰すほど暇ではないはずだ」
「なに? それって皮肉? はいはい僕は今とっても忙しいけど、同郷の馴染みが邸宅を造っているのを見にこれないほど忙しくはないよ」
「そろそろ本題をいったらどうだ」
「……あそこは茶室?」
 人の話など聞いていないのか、はなから聞く気はないのか。話をそらすように人差し指を差し伸べた。
「そうだ」
「じゃあ茶をいれてもらおうかな」
「おい」
「よかったね。おまえが茶室で最初にもてなす相手が僕なんて」
 今ここから伊藤の似合ってもいない異国製の背広の襟首を掴んで、ポイッとつまみ出したいという欲求が山縣の脳裏によぎった。よぎるだけではない、本気でつまみ出そうという思いを抑えるのに必死だ。
 この男は実はなにをしに来たのだ。
 長年の付き合いから、たかが密談場所の下見にわざわざ単身で訪れるとは到底考えられない。
 下見見聞は終えたらしく、招きもしないというのに伊藤は茶室に向って足を進める。茶室に入る気満々だ。
「伊藤」
 仕方がない、とすでに山縣は諦めていたが、軽く振り返った伊藤はその顔に暗い感情を滲ませた。
 廟堂では決して見せない顔だ。にこにこと人の良さを武器にしている伊藤は、こういう顔を馴染みの人間にしか見せない。
「最初は僕じゃないとダメだよ、山縣」
 何故だ、と目を細めて聞くと、伊藤は思いもよらない言葉を返してきた。
「僕は木戸さんの代わりだから」
 感情を押し殺した声音は淡々としていて、普段の伊藤の声とは趣が違って聞こえた。
 二人して立ち止ったが、伊藤はすぐにへらへらと笑い出す。
「それだけでおまえには通じると思うけど。ほら、接待する相手が先にいって客を迎えるのが礼儀だろう。ちゃあんと作法とかおまえなら気にすると思うけど」
「知っていたのか、伊藤」
「なにを」
「……私がいつか邸宅を造ったならば、一番にあの人を迎えたいと思っていたことを、だ」
「そんなのわかっているよ。僕だってたぶん同じことを考える。僕たちにとってはあの人は特別だから」
 だから僕が代りだよ、山縣。あの人に代って長州閥の政を引き継ぐ自分が代り。
 あの人に代ってこの庭を見届けてあげるよ。
 そんな声にならない言葉が、確実に山縣には聞こえてきた。
「あの人の代わりは、おまえでは分不相応だ」
「僕を接待させてあげるのに、その言い方はなにかな」
「だが……そうか。それでわかった」
 この椿山荘に単身訪ねてきたのは、そういう理由か、と山縣は笑いたくなった。
 ……自分があの人の後継者たることを、山縣に知らしめるために来たというところだろう。
 実に面白くなかったが、今の山縣の立場的には伊藤と敵対することは避けねばならない。
 山縣は未だに人を通していない茶室の最初の客を伊藤と認めた。
 ここに最初に通したいと思った人間とは相反するほどに茶室が似合わない男だ。
「次に来るときは、和装で来たまえ」
「気が向いたらね」
 山縣は椿を一輪手折り、伊藤を茶室の入口に残してまずは茶室に入る。そして一輪の椿を竹筒に差しながら、しばらく椿を見つめた。
「貴兄ならば……」
 それに続く言葉を胸元に残し、伊藤を迎えるために茶室より表に出た。


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椿山荘 -1

椿山荘

  • 【初出】 2007年2月1日
  • 【修正版】 2012年12月15日(土)
  • 【備考】山県有朋命日追悼作品