1章
その日、陸軍省に「暑い暑い」と拭いで汗を拭きながら、顔を出したのは伊藤博文だった。
珍しいこともあるものだ。
陸軍卿室に入ってきた男の顔を見据えた時、陸軍卿山県有朋には「嫌な予感」が襲った。
「此処は暗くていやだねぇ。まさに陸軍を私物化している陸軍卿の色に染まっているという感じでさ」
ソファーに座し、足を組んだ伊藤は、副官に「冷たい茶」と注文をつけ、にやにやと笑いながら山県に視線を送ってくる。
「暑いよね」
「夏に暑いのは当然だ」
「面白くない男だよ、相変わらず山県は」
差し出された茶を伊藤は扇子で扇ぎながら飲み、相当暑さにへばっていたのか「生き返る」といってすべて飲みほした。
「あのさ、山県」
「なんだ」
「暑いよね」
この不毛な言い合いに疲れた山県は、視線を書類に向け、徹底して無視と決め込んだというのに。
「僕を無視なんて許さないよ」
机の前に立ち、今はめがねをかけている山県の顎に手をかけ、強引に上を向かせる。
「僕、おまえに相談があってきたんだよ」
「相談? 悪事か」
「まさか、おまえではあるまいし」
伊藤の手が山県の眼がねを奪い取り、何が楽しいのか。自分がかけてニタリと笑った。
「夏だしさ。この頃、みんな鬱々としていて喧嘩っぱやいし。これは気分転換が必要だと思ってさ」
「必要ない」
「なにそれ。おまえ、僕と何年付き合っているの。僕がこうおまえに話を持ち出すところで決まりなの」
「……そうか」
ドッと疲れてきた山県は、一刻も早くここから伊藤を追い出したいと思った。
「それでね。花火とカキ氷つきでのらりくらりと夕涼み会しよう。久しぶりの長州閥の宴会だよ。ねぇいいと思わない」
………なにが夕涼みだ。
山県はあからさまな重い重いため息をつき、伊藤を見据える。
一方伊藤は、そのあからさまなため息を意図的に無視しつつ、山県から奪い取った眼鏡越しに、含みある視線を送り続ける。
「……返してくれないか」
「返して欲しい?」
「当たり前だ」
山県はすっと手を伸ばしたが、伊藤はそれを身軽に交わした。
そして自らで眼鏡を外し、山県の顔の前でぶらつかせながら言った。
「返して欲しいなら条件がある」
「何だ」
山県は呆れながらにして答えた。
「長州閥の宴会だけどね、まだ場所を何処にするか決めていないんだ」
この一言を聞いた瞬間、山県は思わず身の毛もよだつ思いがした。
この暑い中だと言うのに、何故か寒気をも覚えそうである。
そんな山県の目前で、伊藤は悪魔の微笑とでも形容したくなる笑いを浮かべて立ちはだかっている。
そういう魂胆か、と山県はおおむね伊藤の用件を察しながらも、それに乗せられるのはしごく面白くないことだと思った。
だが、ふと違う考えが浮かぶ。
「良いのか」
それは予想外の言葉だったのだろう。
あからさまに怪訝な顔をして「なにが?」と視線を向けてくる伊藤に、あくまでも書類に目をやりながら、抑揚のない声音で山県は言う。
「趣がある古来の技法に拘った日本庭園を配した料亭を、私がおまえのいう宴会のために用意してもよいのか」
このお祭り好き。静寂なところなど本当は足を踏み入れるのを好まない伊藤が、果たしてなんと答えるか。
いくばくか山県は楽しみという思いがよぎる。
そんな山県のわずかな楽しみを跳ね返す悪魔の微笑を伊藤は見せた。
「いいよ、趣のある古来の技法に拘った日本庭園を配した料亭とやらで。そこで僕らがさわいでさわいで、山県が出入り禁止になっても構わないならどうぞどうぞ」
にっこりと笑った伊藤を見て、山県はわずかに目を細めた。
伊藤はというと、笑いながら、退屈そうにめがねをぶらつかせ、
そして不意になぜか表情を消した。
「どうするのさ」
そろそろこの間に飽きた伊藤は、詰め寄るかのように山県をジッと睨んだ。
伊藤と二人で話し合うときはいつも疲れる。
この男は己をおちょくることが大好きという男だ。そしてそのおちょくりに乗らずに無視すれば、途端に機嫌が悪くなるという実に分かりやすい性格をしている。
一刻も早くこの場から出て行って欲しいという思いもあり、宴会好きの連中らにあう適当な場所などあしらえばいいのだ。
だが問題が一つある。
「伊藤、あの人は参加するのか」
その途端に伊藤はハッとあからさまに顔色を変えた。
「あの人は夏は昔から苦手だ。……夏に宴などに」
「さすが山県。目の付け所がいいね」
ニカッと唐突に気分が上向きになったのか、伊藤はめがねを山県にかけ、そしてニヤニヤと笑い出す。
「木戸さんを誘い出すための宴さ」
木戸はここ最近伏せっていた。
いつものことだとは思っていたが、今回は長い。
体調は医師によれば良好らしい。
しかし、彼はなかなか政治の舞台に姿を現さなかった。
春の桜が咲く頃、彼は体調不良を理由に屋敷に閉じこもり、今は療養のために故郷・山口に帰っていた。
普通なら長くても2ヶ月後には帰ってくるはずの彼は、半年近く帰ってきていない。
これには、みな閉口した。
何度か会おうとしても、侍女がしずしず出てきたかと思えば、「今日は体調が優れませぬゆえお立ち去りを」と、帰すのだ。
「しかし、この宴であの人は、来るのか?」
「ふっふっふっ」
不気味に笑む伊藤は、重重しく口を開けた。
「そのためにおまえにわざわざ料亭を選ばせようとしているんじゃないの」
ニヤリと笑った伊藤を、眼鏡越しに山県は見据えた。
「今回はどうやらとてつもなく機嫌が悪いみたいなんだ。僕や聞多がいろいろと突いてしまったから……それで山口に閉じこもってしまってね。木戸さん、怒りが頂点に達すると山口に帰る癖があるんだよね。いやいや困った困った」
その木戸の癖のいちばんの被害者たる伊藤だが。
お神酒徳利といわれるほどに仲が良い片割れの井上馨は、この癖を「尊敬」しており、自分もいつか大物になったら木戸を見習ってこの癖を発揮しようなどと企んでもいるようだ。
「あの人をおびき出すのと私が料亭を選ぶことに何のつながりがある」
「大有りさ」
今度はフッと冷笑を伊藤を滲ませた。
これは要注意だ。自らの策によっているときに伊藤が用いる表情であり、ましてやこの表情をするときは、たいていは全て「失敗」に終わるのだ。
「おまえの出番だよ、山県。もう数日前からおまえは重病で、医師からは余命を宣告された……かわいそうな人になっているんだから」
「なにを考えている」
突然の伊藤のとんでもない発言に、山県は顔色ひとつ動かさなかった。
こういう時はおよそ青年のころからのつきあいというものが役に立つ。伊藤がなにをいおうが、どういう策を用いようが、いつのまにか驚かない性質になってしまったようだ。
「だぁかぁらぁ、いつも健康思考であんまり病もしたことがないおまえが、病になり、毎夜毎夜意識のない中、木戸さんの名前を呼んでいるということにしたんだよ」
にたりとした伊藤は、また「とんでもない」ことをして山県を思いっきり困らせようとしているようだ。
「お分かり?」
伊藤はニヤリとした。
「あぁ」
山県は吐息とともに声を絞り出し、己がすでに伊藤の策に勝手に乗せられている現状を甚だ不快だが認めた。
「木戸さん、それはそれは心配してね。おまえが大病などよほどのことだからといって山口を出立したみたいだよ。もう少しで東京につくだろうから。いいね。山県。おまえは病気だった。けれどこの僕や聞多、もちろん奥さんの献身的な看病のおかげをもちまして、今はすっかりよくなったということにしておいてほしい。……せっかく山口から出てきて下されたので、自分の病気快癒を祝ってパッと宴を……」
「無理がある。第一におまえらの献身的な看病では私の病はさらに悪化するだけであり、快癒祝いに私は宴など……」
「そういうことにしておくんだよ」
伊藤はどす黒く笑う。
「すべては木戸さんと僕らがみぃんなで騒ぐため。せっかく仲間にいれてやり、一口乗せてやったんだから。感謝して欲しいくらいだよ」
いつもにまして強硬的な伊藤の言葉に「なにかあるな」と思いつつも、山県は今は様子を見ることにした。
確かに山口にこもった木戸を心配する思いは、山県も伊藤と同じであり、何とかしてこの帝都に呼び戻さねば、という思いも同様である。
「木戸さんに悟られたならば、伊藤。責任はとれ」
「なに? おまえそんなに演技力がないとでもいうの。まさかね。天下の陸軍を牛耳る山県が。それに心配しなくていいよ。僕はおまえの病み上がり状態を演出するためにいろいろと小道具を手にしたからね。ばっちり……木戸さんが見まいに訪れたときは、おまえの顔色を病人にしてあげるから大船にのった気分でいてよ」
伊藤のこの手の自信は得てして大失態に繋がることが多い。
多分に心配しながらも、今はこの浮かれ気味の伊藤に「貸し」ておくのも後々のために上々だろう、という気分になった。
「用件は済んだだろう。出て行け」
山県が低く呟くと、伊藤はにたりと笑い「お邪魔さま」といった。
扉もとまでいき、ふと肩越しに振り返り、
「ということで料亭は絶対におまえが探してよ。おまえの快癒祝いというのが宴の名目なんだからさ」
一瞬だけ目を険しくして告げてきた言葉に、ひとつだけ頷きを返した。
扉が閉まる音がする。去っていく足音が徐々に小さくなってくのも分かる。
「あの人を呼び戻すために……か」
どうも気が重く、結果的には騙しになることに山県は知らず知らず重い吐息を漏らすのだった。
長州閥は動物園? 1章
【備考】更新 2008年3月30日
リレー形式での短編作成。| 今日もまたおこもり? ― 明治版天岩戸 ― の時系列的には続編
1章執筆者 深夜(管理人)| みぃこ様 | 空様 | 錦様