2章
伊藤博文による「司令」
……山県を危篤にして、木戸さんを呼び戻し、
長州閥全員の大掛りな宴会によって、
木戸さんを東京にひきとめる。
この司令により哀れな山県有朋は、木戸が山口より戻る前より危篤の準備をさせられ、念には念なのか。九段上の山県邸には毎日見舞い?のためか、多くの同郷の人間たちが駆けつけている。
外部にも「危篤」として公言され、徹底して木戸を謀るつもりのようだ。
「あの長州閥は、おかしなところで真剣になる」
大久保利通は、ひょんなことから伊藤の司令を耳に挟み、
始めはさして興味を示さなかったのだが、あの木戸を呼び戻してくれるならば、と協力的姿勢を取ることにした。
だが、だ。
陸軍省を預かる山県が仮病の「危篤」で出仕してこなければ、仕事が滞って迷惑極まりないのだ。
そこで伊藤を呼びつけたのだが、どうして今は廟堂より去っているこの男も一緒に顔を出すのか。
「大久保さんよ。アンタも宴に招待するから、今回は目を瞑ってくれな」
なぜか井上馨の姿があり、
「よろしくお願いしますね」
伊藤は、にこにことそう言った。
大久保は、しばし伊藤の顔を睨んだ後、
「今、富国強兵を推し進めている時期、大切な陸軍省を木戸殿のために疎かにするのは感心しないが。何故山縣殿なのだ?政府内でも、井上殿やあなたがいる。工部省にも山尾殿も・・・」
「僕は無理ですよ。僕はこの宴では仲人的な仕事のほうが向いてるし、聞多は暗殺されかけてもあの世のふちまでいって生きた男ですよ。それに山尾は・・・論外」
大久保はふぅと溜息を吐いたあと、
「あの男が廟堂に戻ってくるのを待ち望んでいるのは、私だけではない。多くの政治家、天皇までご心配されている。失敗は許されませんよ」
と、大久保は言ったあとその場から立ち去った。
「怖かったな」
大久保が去って後、一人そ知らぬ顔でパイプを吹かしていた井上が、一言呟いた。
「聞多、大久保を招待するといいながら知らん振りかい」
「俺は大久保が嫌いなのさ」
「知っているよ、そんなこと」
大久保に呼ばれたのは伊藤だけだったが、しゃあしゃあとした顔でなぜか後ろについてきた井上馨だった。
伊藤としてはこの井上がなにを大久保に言うか冷や冷やしていたら、先の言葉だ。
『アンタも宴に招待するから、今回は目を瞑ってくれな』
思わずげんなりとなったが、いたって大久保は平然としたものだったが。
「もとより失敗などするつもりはないよ、僕の理論は完璧」
「いつも何かする前に考えだけは完璧なのに、失敗ばかりをする俊輔だからな」
「聞多ぁ」
「そこを大久保は気にしているのだろうよ」
またパイプをふかし、井上はニヤリとした。
「だが今回は俺がいるからな。桂さんにかけては俺の方が操りはうまいぞ」
にたにたと張り切るときの井上も要注意である。
「ふん。何とでも言えばいいさ。
今回は聞多の出番なんか無いくらい、僕の策はうまく進むはずだからね」
伊藤は井上のパイプを奪い、そのまま口に加えた。
その自信過剰はいったいどこからくるのであろうか。井上はそう思いつつも、長州閥の宴という面白きものが実現するのならと思い、あえて突っ込むことを止めた。
伊藤を煽てて良いように動いてもらった方がよいからである。
「さて。大久保は封じ込んだ」
「次はどんな手を打つんだ?自称策士の俊輔さんよ」
井上は伊藤からパイプを取り返し、そして伊藤の顔へと白い煙を吐き出してやった。
灰色に霞む視界から、伊藤の不敵な笑みがかいま見える。
「そうだね。次は主役が登場してくれたら考えるよ」
煙がわずかに部屋を満たし、すぐにふわりと空気に溶け込むようにして消えていった。その中で、伊藤は何が楽しいのかふふと笑っている。
「なんだよ。桂さんの首に鈴でもつけて押し留めるのか」
「うまい、聞多」
手をぱちぱちと叩く伊藤に、なんだか井上は嫌な予感がした。
「なぁ、俊輔」
「なに」
「山県を危篤までし、大久保を封じて宴に打ってでたのはいいけど。おまえ……そこからどうやって桂さんをこの東京にとどめるんだ」
「さぁ」
「さぁってな」
思いっきり井上は脱力してしまう。
「最期は木戸さんお願いしますって泣きつけばいいんじゃないの」
「俊輔……」
やはりというかやはり。
詰めがあまく、どことなく楽観的なのだこの男は。
最期の最期の大詰めをなぁんも考えていない。
井上はその場でぐたりと力が抜けてしまった。
「病名は?」
井上は、せめてもそれだけは聞きたかった。
病気でなければ、どうすることも危篤もなにもない。
伊藤はしばし考え、
「暴漢に襲われたということにしよう。そっちのほうが、現実味がある」
多くの軍人が、暴漢に襲われ、死傷した。
「そっちのほうがショックだろうし、木戸さんだって心配で山県のために留まるんじゃないの」
井上は、苦い顔をして、
「暴漢か・・・あまり聞きたくないな」
今でも、冬になれば俗論派の暴漢どもに襲われた時の傷が、痛くて痛くてたまらない。
「まっ、いいじゃん。天皇も心配しているんだし。いざとなれば天皇を引き担ぐとか手もあるし」
井上は、伊藤の暴漢よりやばい考えに、またしても力が抜けそうになった。
「へえぇ。暴漢に襲われたことにするんですかぁ。まぁ山県だっから、全然その手のことはありそうで、疑う余地もないね」
いつから、その場に立っていたのだろうか。
部屋の扉の前に、小ぢんまりと立っている男が、ポンと声を投げつけてきた。
「井上さんや伊藤さんの危篤説なら、木戸さんは絶対に疑って動かないだろうけど。山県ならね。巧い手を考えたものだよ」
山田顕義、通称「市」が、本日も、まるで七五三にしか見ることができない少将の階級を示した軍服を身につけている。
「いいと思わないかい、市。ついでに尾鰭もつけてね。こうさ。山県陸軍卿は、折からの流行り病に倒れ、重病の最中政務だけは取っていた。だが、無理をし続けたのでとんでもないことになり、本人は平気だという中、強引に馬車に乗せて帰したその時に、暴漢に襲われ、重病が重体となったとね。これだけ付け加えれば、逆に見事というか、笑えて楽しい」
伊藤はすでに他人事である。
木戸が戻ったときに演技をせねばならない山県のことなど、これっぽっちも考えてなどいない。
「俊輔、一応は桂さんにはよ。重病で危篤って知らせたんだろう?」
「そうだけど、もっともっと病気を大きくした方が、ここについたら木戸さんは心配して、山口に帰るところではないと思わない?」
「あぁ、始まったよ。伊藤さんの悪知恵。けど、伊藤さんは……頭が回れば回るほど、結果はろくなことにならないしなぁ」
にたりと笑った山田は、井上の傍らに座り、「お義父さん、牛乳」と要求したのだった。
ふと寒気がし、山県は己が身を震わせた。
これは体調からくるものではない。どこかの大馬鹿者たちが、……ありていに言えば伊藤とか伊藤とか伊藤とかが、おそらく己の噂でもしているのだろう。しかもそれはどうも山県にはよからぬものらしい。
重い吐息を吐いてしまった。
木戸を山口からこの東京に呼び戻すために、厄介なことにこの己が「重病で危篤」とされたのは、百歩譲って仕方なしとしよう。だが、木戸だけではなく他の人間たちも騙す必要があるのか。
山県は陸軍省室に山のようになっているだろう書類を思い吐息をつく。
上司思いではない部下たちは、決して変わって片付けてやろうとは思うまい。そればかりか陸軍卿の目がないことをいいことに好き勝手しているのではないか。
(こんな芝居やっていられるか)
他を「芝居」に巻き込むなど、やはり己が良しとするものではない。
立ち上がり軍服に着替えようとし、
「だんなさま」
襖越しに妻友子の声が聞こえた。
「伊藤さまがおいでです」
「なぁに軍服を手に取っているのさ」
同郷の連中はいつもいつも人の許しなど構わずに、こうして家の中にあがりこむ。自分の家は自分の家。人の家も我が家。こういった発想には山県はいつも頭を抱えてきた。
「なんのようだ」
軍服の上着を放り出して、低い声音で尋ねる山県に、
伊藤は見るからにニヤリと笑って見せた。
「おまえの正式な危篤状態が決まったよ。おまえは病でふらふらとなり、帰路の途中に今はやりの暴漢にまで襲われて、重体さ」
なんだ、それは、と山県は頭を抱えた。
この宝蔵院免許皆伝の己が暴漢に襲われ重体など、なんと不名誉のことか。
「断る」
「断れないんだよ。これは長州閥の総意。木戸さんが出てきたら、そういうからね。いいね、おまえはしばらく危篤。そして今際の際に木戸さんにいうんだ。もう長州には戻らないで下さいってね」
にやりと笑った伊藤を、この時ほど殴りたいと山県は思ったことはない。
「いいね、山県。危篤だからね。総意だよ、総意」
伊藤はビシッと山県に指をさし、
山県が放り投げた軍服を手に取った。
「危篤中はこれは預かっておくよ。それと今まで通り、一日一人看病人を置くからね。まぁ僕がいれば、おまえは蒼白になっていると思うし。いやはや楽しいね」
「伊藤」
「なにさ」
「木戸さんにこのことを知られたら、後が怖いぞ」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。ばれるようなへまをするか。それとも、木戸さんを騙せないほどおまえは演技力がないの」
「私はあの人を騙すことはしたくはないが」
「これも木戸さんのためだからさ」
いいね、山県。
ちゃあんと「危篤」でいなよ。
そして木戸さんの顔を見たら、元気になればいい。
「僕の頼み聞いてくれるよね。それに、ちゃあんとおまえが演じてくれれば、それはそれで僕はお前に借りることになるのだからさぁ」
山県は、昔から伊藤に対しての「貸し」をきちんと数えている。
「貸し……か。いずれ三倍で貸しは返すのだったな」
「もちろんさ」
こうして「山県有朋危篤演技」は正式に決定し、実行することになる。
木戸が山口より大急ぎで東京に駆けつけるのは、この三日後。
とるものとらずに九段の山県邸に駆け込む。