4章
「狂介、本当にもう大丈夫なのかい? まだまだ顔色が悪いのだけど」
傍らに己を支えるためにかピッタリと寄り添っている木戸の姿を視界に捕らえつつ、山県は小さな吐息を漏らす。
もとより体に不調があるはずがない。言うならばこの顔色の悪さも、妙に胃が痛いのもすべてこの「長州の首魁」を欺いている呵責の念からともいえる。
「それに宴会を開くなんて。おまえはもっと横になっていなければならないのに」
「貴兄もみなと久々に飲みたいであろう」
「私は……」
「それに政治的な話もあるはずだ。戻られた以上は一刻も早く廟堂に顔を出された方がいい」
「私は狂介の顔が見たくて戻ってきただけなのだよ」
真顔でそんな言葉を告げられ、山県の胃はまたキリッと痛んだ。
己が病と暴漢に襲われ危篤状態だと信じ込んでいる木戸。毎日のように看病をしてくれる姿が実に胸に痛い。
「おまえが宴を開くことで元気になるというから……」
「私もですが、貴兄も元気になると思うので」
「??」
軽く怪訝な顔をした木戸の肩にポンと触れると、
木戸はにこりと優しげな笑みを見せた。
「おまえが元気になってくれるなら、私はそれでいいよ」
二人はゆっくりと新橋の料亭に並んで歩いていく。
「さぁ大久保さん、行きますよ」
伊藤はおもしろくなげに、大久保の腕を引っ張った。
「せっかく長州の宴に招待してやるって言うんだから、さっさと歩きなよ」
その背中を井上がイヤイヤな顔で強引に押す。
「君らの茶番を見てみぬ振りはしたが、それは木戸さんを呼び戻すためだ。宴になど招待してくれなくともけっこうだ」
「そういうなよ。桂さんはよ。まったく参議に戻る気ないからな。ここらで説得しておかないと、悪いけどな。山県と手と手をとりあってどこかにいってしまうかもよ」
「井上君。それはあの二人がまるで恋人よろしくどこかに旅立つということかね」
「しらねぇよ。けどよ、桂さんは家出が特技。それに山県が便乗したって別におかしくない。これで陸軍省の機能も止まる。おもしろいなぁ」
大久保は軽く肩越しに井上を睨み、
「木戸さんは国家の参議。廟堂にいてもらわねば困る」
「じゃあ説得しな。俺たちも手伝ってやるからよ」
大久保は渋々用意されていた馬車に乗り込んだ。
お神酒徳利に連れられ、大久保が料亭に入ったときは、すでにそこは「宴」というよりも「酒宴」に等しい状態に成り下がっていた。
「…………」
この連中の中に自らが入るのを大久保は思いっきり気が進まない。
その中ではすでに酔いが回っているらしい木戸が、コテンと山県の肩に寄りかかっているのが見えた。
「おいおい。俺様たちが来る前にもうできあがっているのか」
酒ばかりを飲むと「背が伸びなくなる」とそう露西亜より手紙を送ってきた品川の忠告に従い山田は、ゴクゴクミルクを飲んでいるため酔いはないようだ。
「あれ? 井上さんに伊藤さん。来るんだったんだ。遅いからもう来ないと思ってね。みんなでわいわいがやがや……ガタの快方祝いをしていたんだよ」
「山県の快方祝いね」
はじめより危篤でも重傷でもなかっただけに、その「快方」という二字には長州の人間は複雑と言えた。
大久保はとりあえずは木戸の傍らに座し、すでに半分眠りの世界に入りかけているその人に、声をかけた。
「無事のご帰還実にけっこうなことです。貴公の机には留守中の書類を積み重ねてありますので、お早く処理を願います」
ピクリと木戸は眉間にわずかに皺を刻んで、大久保を見据えた。
「私は参議を辞任しております」
「あの紙切れは岩公が破り捨て、今ごろは藻屑ですな」
「貴殿は私の辞表をなんだと……」
「いつもの癖だと存じておりますよ」
ピクリとまた眉間に皺を刻み、木戸はその場に立ち上がった。
「狂介、塩。どうしてここに大久保さんが……」
「木戸さん」
落ち着いてください、と山県が袖を引っ張るのを木戸はあえて無視した。
「塩をまいてくれる」
「塩でもなんでも受けますが、明日いらっしゃってください、廟堂に。それから美人が眉間に皺を刻む姿はまさに一興。壮絶でそそる」
「塩はもういいよ、狂介」
そこで懐より短刀を取り出した時、誰もがため息をついていそいそと部屋の隅に移動していった。さてはじまる。いつもの「廟堂の夫婦」の交流が。
「久々なので手加減できないことを最初にお詫びしますよ、大久保さん」
ニコッと木戸は妙に優しく笑った。
条件的に木戸が優しく笑う時は、決まって痛い目にあうときと心得てる大久保はすぐさま立ち上がり、逃げに入る。
「大久保さん」
にこりとまたしても木戸が笑った。嫌な予感がさらに身を包む。
早々に廃刀令を公布しなければ、自分の身が危ういのではないか、とこの頃思う大久保なのだが、
「ケンカは廟堂で致しましょう」
「私は貴殿とケンカなどしてはいません」
「その短刀はではなんなのでしょうか」
「たんなる報復です」
さらに木戸がにこにこ笑って早足で追いかけてくるので、今日は大久保もここで覚悟を決めた。
くるりと振りかえり「木戸さん」と名を呼ぶ。
驚いた木戸はきょとんとした。
「ここで私は本日貴公に打ちのめされましょう。ただし」
と、覚悟そのままの勢いで大久保は木戸の手を握った。
「打ちのめされてもこの手は離して差し上げません」
大久保は木戸の手を握り締め、意地でも離さないというかのように強く握り締める。
「離してください」
「離してはさしあげません」
「打ちのめしますよ」
「ご随意に。そのかわり、廟堂にいていただきます」
「嫌です」
そこで大久保はわずかに表情を緩める。
「嫌だ嫌だは、よいとのこと。貴公はそれほど嫌だを繰り返すのは、それほど私と一緒にいたいということでしょうか」
「頭が腐ったのですか、大久保さん」
「貴公に惚れているのですよ」
「はぁ」
「この後、貴公をさらって廟堂に縛り付けようかと思うほどに」
そこで木戸は背後を振り向き、
「狂介。この大久保さんを闇討ちされそうな場所に放り投げてきて欲しい」
「……よろしいが、そうなると貴兄が廟堂に復帰し大久保の仕事をしなくてはならなくなるが」
「それは……困る」
「貴公は実に勝手なお人ですね」
大久保は木戸の手を握り締めたまま、まだ続ける。
木戸の頭の中で何かがピンと切れ、さらに壮絶に笑って短刀より鞘を抜く。
短刀を大久保の首にピタリとつけ、
木戸はにっこりとやさしくやさしく、うっとりするほどの微笑みを口元に滲ませる。
「やばいよ、伊藤さん」
木戸の飛びっきりの微笑に、あからさまに山田はぶるぶると震えた。
「あっ……やばいよ。この料亭、けっこうするんでしょう。襖とか掛け軸とか障子とか壊したら……」
伊藤は冷や冷やしつつ周囲を見回し、
「あの壺もけっこうするだろうな」
とは井上である。
「木戸さん、落ち着いてください。大久保さんも木戸さんを挑発しないでくださいよ」
伊藤の叫びに振り返った木戸は、すでに理性を失った目をしていた。
もうだめだ、と伊藤はすでに壊すものの概算に入り、井上は「ひゅーひゅー」と口笛を吹いている。
被害にあわないために、山田は三浦と鳥尾を連れて縁に出た。
この二人を巻き込むと、銃刀と短銃乱射となり、さらに被害が多くなる。
「今日という今日は許しません」
「木戸さん、本日は私の快気祝いということを忘れておいでですか」
一人、何食わぬ顔で酒を飲んでいた山県が、そこでようやく中に入った。
理性を失っていた木戸も、その一言にハッと我に返る。
「私は騒がしいのは好まぬ。静かに私の快方を祝い酒を注いでくださらぬか」
「えっ……あっ……そうだね」
木戸はすぐに短刀を引きこめ、ちょこんと山県の傍らに座り、酒を注ぎ始めた。
「さすがだな、山県」
ぱちぱちと井上が手を打ち、ホッとした伊藤はその場に崩れ落ちる。
だが、こうも素直に山県の言には従う木戸は、大久保としては面白くないようで、
「麗しい長州の貴公子も、後輩には至極弱いようだ。不退転の覚悟で長州に帰られたというに、その男の仮病如しに騙され戻ってこようとは」
そこで大久保は決して口にしてはならない伝家の宝刀を無意識に抜いてしまったのである。
「えっ……」
放心状態となった木戸は、ただまじまじと山県の顔を見た。
「仮病?」
「あの木戸さん……それは……その。仮病とかじゃなくて……あの……」
伊藤が取り持つが木戸の耳には入ってこない。
「みんなで私を騙したのかい……。私を……。よりにもよって狂介を危篤にして……」
木戸の身体はみるみる震えていく。
「き……木戸さん」
木戸はスッと立ち上がった。
一瞬だけ山県を冷たく睨みすえ、そして周囲の人間に微苦笑を注ぎ、
「君たちの電報が届かぬ所にいく。二度と東京には戻らない」
と、冷たく言い放ち、そのまま部屋を出てしまった。
大久保を除き、慌てた長州の人間が追いかけてくるのを、木戸は振り返り、壮絶な微笑をもって一言にする。
「二度とおまえたちを信用しない。……これ以上、私の逆鱗に触れるならば……二度と何があろうともおまえたちには会わない」
その一言に全員が石のように固まり、
木戸は一人悠然と廊下をギシギシと歩く中、最期に振り返り、
「狂介……狂介なんてもう知らないから」
と、一言残した。
その一言に呪縛が解けた山県は一人木戸に向かって歩き出し、
「では、二人で参りましょう。どこにでもお供します」
「きょうすけ……」
「私は貴兄に会いたいがためにこの計画に参加した。……この東京に参議として縛り付けるためではない。どこへでも……お供する」
長州閥の前で、二人手を取り、どこぞに消えていってしまった。
一部始終を見ていた大久保は、ゆっくりと歩き、料亭を出、
警視庁に一つの伝令を出す。
「東京にある旧関所を全て閉めよ。
帝都を脱出しようとする国家の大犯罪人あり。
参議でありながらも、全ての職をなげうつその犯罪人。写真を公布するゆえ、見つけ次第、廟堂に連行するように」
さて手に手を取り合って木戸と山県はどこに逃げようとするのか。
さすがの大久保も、それは分からずに全封鎖を命じた。
長州閥は異国でいう「動物園」の如し。人間でありつつもあれは見世物に十分になり得る。
「動物園ならば動物園らしく」
黙って檻の中で飼われればよいものを。
煙草を一本吹かしつつ、あの二人が手に手を取り合ってどこに逃げるか。
大久保は頭を働かせながら、木戸だけならば手の打ちようがあるが、山県が一緒なことにいささか困ったことになったな、思った。
陸軍省の山となっている仕事を、果たして誰に片付けさせるべきか。
まさに頭痛がする事態となっている。